モンベルの辰野勇会長とパタゴニア創業者のイヴォン・シュイナード氏。出会いは1980年だった(写真:モンベル)

今回は、大阪から世界にアウトドア用品を発信し続ける元気企業を取り上げます。

モンベルの創業者・辰野勇会長は、筆者にとって、とても不思議な人でした。21歳の時、アイガー北壁登攀(とうはん)に成功。そんな世界有数のアルピニストが、28歳の時、1人で登山用品メーカーを起業します。それが40年後の今、グループ年商750億円、従業員970名を誇る「モンベル」になりました。

なぜ一流の経営者になれたのか


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一流といわれる人は誰も、天賦の才能、人一倍の努力、そして時代をも味方につける強運の持ち主であることは知っています。しかし、アウトドアで必要とされる能力と、社長の執務室で発揮されるべき能力は、180度違うような気がします。

アイガー北壁登攀が生半可な努力ではできないのと同様、会社の経営も血のにじむような苦労があるはずです。その2つを見事に達成している辰野会長には、いったいどんな秘密があるのでしょうか。


日本人初のカヌーのメダリスト・羽根田卓也選手と対談するモンベルの辰野勇会長(筆者撮影)

かねがねそう思っていた筆者にとって、願ってもない機会が訪れました。大阪で、辰野会長が日本人初のカヌーのオリンピック・メダリスト羽根田卓也選手と対談するというのです。

主催者(小林昭雄大阪大学名誉教授)のご厚意で、12月9日に行われた両者の対談を間近で傍聴させてもらいました。辰野会長は、日本レクリエーショナルカヌー協会の会長などカヌーの各種団体の要職を務めているので、カヌー銅メダリストの羽根田選手は、まさに格好の対談相手でした。

対談冒頭で、辰野会長が「カヌーとボートの違いがわかりますか」と観客に問いかけました。皆がキョトンとしていると、「ボートは、オールという櫂(かい)で漕(こ)いで後ろに進みます。カヌーは、パドルという櫂で漕いで前に進みます」と説明し、「だからぼくはカヌーが好きなんです」と付け加えられました。「仕事もいっしょ。前向き、ネアカがいいのです」。

羽根田さんが「ぼくもポジティブです。あまり悩みません」と応じると、辰野会長は「ぼくはどこでも眠れるし、忘れる能力がある。朝起きるといちばん楽しいことを考える。友人から、辰野は“失敗”という概念がないんじゃないか、とも言われます」。失敗とは思わない。では、どう考えるのでしょうか。辰野会長は「ぼくは“不都合”と思っちゃうんですよ。だから前を向いて歩き続けられるんです」と言いました。

次に、羽根田選手の銅メダル獲得の話になりました。2016年8月のリオデジャネイロ五輪で銅メダルの栄誉に輝いた羽根田さんは、その時の気持ちをこう語りました。「一生忘れられません。銅メダルを取れて、号泣しました。オリンピックのメダルなんておとぎ話の世界でしたが、それが現実になった。願い続ければ夢はかなうんだと思いました」。その言葉に深く頷いた辰野会長が、1つのエピソードを披露しました。

努力し続ければ夢はかなう

「モンベルは、日本障害者カヌー協会を支援していますが、そのご縁で、リオのパラリンピックでカヌースプリントに出場する瀬立(せりゅう)モニカ選手を知りました。


カヌースプリント(運動機能障害KL1)で決勝に進んだ瀬立モニカ選手(写真:モンベル)

彼女は、高校生の時に転倒して頭を打ち『体幹機能障害』になって、座った姿勢を保つことができません。でも、水上ではバリアフリーでほとんど自由、とカヌーに挑戦しています。モンベルでは、パドリングがスムーズに行えるよう、全面ストレッチ素材に世界最高レベルの撥水加工を施したウエアを提供しました。頑張ってくれてみごと8位に入賞。やっぱり、努力し続ければ夢はかなうんですよ」

では、そう言う辰野会長自身の若い頃の夢はどんなものだったのでしょうか。

辰野会長が、最初に仕事への夢を抱いたのは、高校1年の秋だったそうです。国語の教科書に載っていたハインリッヒ・ハラーのアイガー北壁登攀記『白い蜘蛛』に感銘を受け、アイガー北壁の日本人初登攀を目指し、さらに28歳になったら独立して山にかかわる仕事をしよう、と決心します。

実家がすし屋で、幼い時から両親の働く背中を見て育ったので、仕事は自ら起こして自営するものだと考えた、と辰野会長は述懐しますが、なかなか16歳の時点で28歳の自分を想像できるものではありません。すでにして、将来を見通す先見性を備えていたんだ、と思います。

21歳の1969年に念願のアイガー北壁を登攀。日本人として2番目でしたが、当時の世界最年少登攀記録を塗り替える偉業でした。「これで一生食べていける、と思いました」(辰野会長)。当時の黄ばんだ新聞をいまだ大事に持っていると言います。

登山に精を出しながらも、スポーツ用品店、登山用品専門店、さらに中堅商社の繊維部門で経験を積みました。

そして1975年。28歳の誕生日の日に、貴重な経験をさせてもらった商社を涙ながらに退職。その翌日、大阪市西区立売堀の雑居ビルの1室でモンベルを立ち上げます。正真正銘、ゼロからのスタートでした。十分な貯えはありませんでしたが、貴重なのは時間と考えたそうです。

おカネは後で何とかなる、しかし時間は取り返しがつかない。これからベンチャー企業を立ち上げようという若い人には、大いに参考になる考えだと思います。まさに、時はカネなり、なのです。

スーパーのショッピングバッグを作った

起業して最初の1年は、思うように登山用具の注文が来なかったそうです。志とは異なりますが、商社時代の元同僚の伝手(つて)で、大手スーパーのショッピングバッグの製造を請け負いました。初年度1976年8月期の売り上げ1億6000万円の大部分は、このショッピングバッグの製造によるものです。

一方、念願の登山用具の企画開発にも注力。まず手掛けたのは、スリーピングバッグ(寝袋)でした。しかし、サンプルを持って走り回っても、無名のモンベル製品を取り扱ってくれるところはほとんどありません。そこへ、商社時代の恩人から「面白い素材があるぞ」と情報提供がありました。デュポンのポリエステル繊維で、寝袋の中綿としては画期的な新素材でした。

普通は、産声を上げたばかりの零細企業を、世界的大企業のデュポンが相手にしてくれるはずはありません。しかし辰野会長は、商社時代にデュポンと取引があり、面識のあった担当者に「ぜひ、うちで使わせてほしい」と頼み込みました。熱意が通じて使用が許可され、試行錯誤の末、軽量、コンパクトで暖かい寝袋が完成します。


モンベル製登山用品の最初のヒットとなった寝袋(写真:モンベル)

「こんな寝袋が欲しかった」と多くの登山者から歓迎され、モンベル製登山用品の最初のヒットとなりました。その後も、デュポン社の高機能素材を使った商品を次々と開発し、日本の登山用品業界において確たる地歩を築くことができました。これも、世界最大規模のコングロマリット(複合企業)が、創業まもないベンチャー企業に、市場の独占権を与えてくれたお蔭です。モンベル社員のモノづくりにかける情熱が先方に伝わったことも大きいですが、やはり、会社設立までに培った辰野会長の人脈が、後押ししてくれた結果だと思います。

ショッピングバッグの製造もデュポンとの取引も、人と人とのつながりがその背景にあったのです。

創業3年目の1977年、いまだ日本の市場を十分に開拓できていない中で、辰野会長は、アルピニズム(近代登山思想)の本場、ヨーロッパへ向かいました。モンベル商品をヨーロッパ市場に売り込むためです。

海外進出を目指したのには理由がありました。ビジネス規模を拡大するには、大きく分けて2つの方法があります。1つは、分野を広げること。つまり、登山という単一商材にこだわらず、野球、サッカーなどスポーツ全般まで手掛ければいいわけです。

しかし、辰野会長は山に関連したビジネスに取り組みたいと考えて起業したので、登山以外のビジネスにまで手を広げようとは思いませんでした。そこでもう1つの方法を選びました。すなわち販売地域の拡大です。

国内市場が頭打ちになれば、海外にその販路を求めればいい、と考えました。創業3年と時期尚早にもみえますが、登山用具に求められるものは世界共通であり、モンベル製品はその要求に十分応えられる、という確固たる自信が挑戦を支えました。

パタゴニアの輸入販売で成長

その際、辰野会長が提携先として選んだのが、環境保護でも世界の最先端を行くパタゴニアです。

創業者イヴォン・シュイナード氏は1960年代を代表するアメリカのクライマーで、ヨセミテを中心に数々の困難な登攀を成し遂げ、その一方で、クライマーのためにアパレルメーカー「パタゴニア」を立ち上げた起業家。モンベルとパタゴニアの両社は技術販売提携契約を結び、モンベル開発の完全防水素材がパタゴニアのレインウエアに使用されていたり、一方でパタゴニア商品の日本国内販売はモンベルが引き受けたり、という親密な関係を構築しました。

辰野会長がシュイナード氏に出会ったのは、1980年。ヨーロッパ最大の登山用品専門店スポーツシューターの店舗拡張パーティがミュンヘンで開かれ、辰野会長も招かれました。唯一の日本人だった辰野会長が、ワイングラス片手に手持ちぶさたでたたずんでいたところに話しかけてきたのが、シュイナード氏だったのです。

クライマーとして、またビジネスパーソンとして共通するところが多く、お互いの人生哲学にも大いに共感するところがありました。その場で、パタゴニアの日本での商売を引き受けてくれないか、との打診があり、パタゴニアの本拠地カリフォルニアに招待されました。


現在の辰野会長(写真:モンベル)

2人でカヌーで波乗り(!)を楽しんだ後、商談が始まります。シュイナード氏は、辰野会長が持参した雨具素材の強靭性に感心。後に、その素材を自社のレインウエアに使用することになります。これ以外にもモンベルは、機能素材、そして縫製仕様上のアイデアを提供し、パタゴニアの商品開発に協力しました。

一方で、モンベルが引き受けた日本国内でのパタゴニア商品の販売も、当初は苦労するものの、アメリカのライフスタイルがわが国に浸透するにつれ、徐々に売り上げは拡大していきました。取引開始後3年目の1987年2月期には、モンベルの総売り上げの4分の1を占めるまでになったのです。

業績は順調に伸びていましたが、辰野会長の心には葛藤が生じていました。パタゴニア商品が売れれば売れるほど、モンベルというブランドの存在意義が薄れる、と思えたのです。心情論だけでなく、他社ブランドに頼りすぎることのリスクもありました。M&Aが日常茶飯事のアメリカビジネス界で、パタゴニアの経営権が譲渡される可能性もないとは言えません。

「たとえ4分の1の売り上げを失っても、今、パタゴニアと決別しなければ、モンベルの未来は危うい」――そう決意した辰野会長は、パタゴニアに対し、「パタゴニアの日本での販売を自分たちでやってくれないか?」と申し出ます。

最初は驚いたパタゴニア幹部も、辰野会長の真剣な思いを理解してくれました。

日本事務所の開設、スタッフの面接まで手伝い、日本国内のビジネスをすべてパタゴニアに譲渡。双方にとって「さわやかな別れ」となりました。パタゴニアとの決別で大幅な売り上げダウンが懸念されましたが、モンベルブランド単一の売り上げでパタゴニアの減少分をカバー、前年を超える業績を上げることができました。社員の頑張りと、辰野会長のモンベル・オリジナルへの思いが、すばらしい成果を生んだのです。

冒険と夢は同義語

以上、辰野会長とモンベルの歩みを駆け足で見てきましたが、ここで冒頭の対談に戻ると、辰野会長の言葉の裏側にある深い思いに気付きます。

「僕はいろいろ冒険してきましたが、では冒険って何だろう、と改めて考えると、それは“夢”と同意語だと思うんです。ビジネスもそうした夢の1つ。不遜なことを言えば、たかがビジネスです。楽しくやったらいいんですよ」

若き日のアイガー北壁登攀の夢、そしてビジネスとして登山家のためのブランド立ち上げの夢。好きなことを仕事にすれば苦にならない、と言うのです。辰野会長の著書『モンベル 7つの決断』(ヤマケイ新書)の末尾に、この言葉に呼応するような印象的な一節がありました。

「Do what you like. Like what you do.(好きなことをやりなさい。そして、やっていることを好きになりなさい)」

これは、辰野会長がアメリカの友人から教えられた言葉だそうです。デュポン、パタゴニアといった世界的大企業との取引に安住することなく、モンベルというオリジナルブランドにこだわったのも、まさにそうした考えに基づいたものだと思います。他人の思惑に左右されず、自ら信ずる登山家のための商品を作り続けること。まさにそれが辰野会長の好きなことであり、それゆえ、仕事が苦にならないのです(なお辰野会長の冒険観そして仕事観は、モンベルクラブの会報誌「OUTWARD」に連載したエッセイをまとめた『軌跡』(モンベルブックス)で、さらに詳しく語られています)。


登山家・辰野勇氏の覚悟が込められたレインウエア・ストームクルーザー(写真:モンベル)

本稿の最後に、最近のモンベルのヒット商品について触れます。2015年、モンベルは定番のレインウエア「ストームクルーザー」の8回目の刷新を行いました。防水性と透湿性を両立させつつも極限まで軽量化した商品です。初回出荷分はすぐに品切れになるほどの人気でした。

この開発にも、辰野会長の思いが込められています。「ライト&ファスト(軽くて速く)」です。少しでも軽ければ(ライト)肉体の疲労も減り、早く歩けて(ファスト)天候悪化のリスクも軽減できます。荷重を減らすためにトイレットペーパーの芯まで抜いて絶壁に挑んだ登山家・辰野勇氏の覚悟が込められたレインウエアなのです。

これだけ優れた機能を持った商品ですが、価格はほかより2〜3割安く抑えられているのも特筆すべき点です。

「だって、山男はおカネがないですから。良い商品をできるだけ安く提供するのがモンベルの基本理念です」

いいものを安く。お題目ではなく、購入者のことを真に思った価格設定なのです。そのこだわりに、辰野会長の登山仲間に対する深い思いを見た気がしました。