―大好きな吾郎くんが、私と結婚してくれたー

数々の苦難の末に、結婚願望のない男・吾郎との結婚に辿りついた英里。

結婚はゴールでないことなど、百も承知。

しかし、そんな二人を待ち受けていたのは、予想を上回る過酷な現実であった。

愛し合っていたはずの夫婦は、どのようにすれ違い、溝ができてしまったのか。

男女の価値観のズレ、見解の相違、そして、家庭外での誘惑...。

二人はとうとう “新婚クライシス”を迎え、夫婦のすれ違いは深まる。そんな中、英里は赤ん坊を連れた元彼・きんちゃんに偶然再会した。




―きんちゃん、うそ......。

英里の目は、抱っこ紐で赤ん坊をぶら下げた元恋人・きんちゃんの姿に釘付けになる。短期間ではあるものの、かつては結婚話まで浮上し、同棲までしていた男。

「...二人とも、久しぶり」

英里と咲子同様、きんちゃんも偶然の再会に驚いた顔をしつつも、黒目がちでつぶらな瞳がニコリと細まる。頬のふくよかさは相変わらずで、笑った顔には可愛いえくぼが浮かんだ。

「き、きんちゃん......ねぇ、いつの間に......?」

言葉を失った英里の代わりに、咲子が震え声で問う。

―別れて1年も経たないのに、もう赤ちゃんなんて......。

元彼であるきんちゃんが赤ん坊を抱いた姿はとにかく衝撃が大きすぎて、英里は動揺を隠せない。

あれほど自分を大切にしてくれたのに、きんちゃんでなく吾郎を選んだのは英里自身だ。その決断を後悔したことはないし、未練があったわけでも決してない。

しかし、まさに良き父親の典型例のような彼の姿は、英里が漠然と想像する“幸せな家庭”の理想の父親像にピタリと重なったのだ。

「実は......」

きんちゃんは困ったような笑顔で口を開く。その表情が懐かしい。

英里はその先を聞きたくなくて、耳を塞いでしまいたい衝動を必死で堪えた。


きんちゃんとの再会で、英里の迷走はさらに深まる...!


心の隅で疼く、小さな不安


「この子は妹の娘だよ。今日はたまたま預かってるだけなんだ」

きんちゃんが赤ん坊の小さな頭を撫でながら恥ずかしそうに言うと、英里は身体の力がスルスルと抜け、やっと呼吸が楽になった。

「そ、そうなんだ。びっくりした...」

「まさか、流石にそんなに早く子どもなんてできないよ〜」

ニコニコと笑うきんちゃんを前に、二人の女は気まずさで笑顔がやや引き攣る。

「あ...ご、ごめん!別に変な意味で言ったわけではなくて...!」

「う、ううん...!それより、休日に姪っ子の面倒を見るなんて、きんちゃんは相変わらず優しいのね。妹さんはお仕事とか?」

うまく会話のできない英里の代わりに、咲子が適当な世間話へと誘導する。

「いや...実は、妹が育児疲れでストレスが溜まってるみたいでさ。たまには一人になりたいんだって。まぁ、僕はもともと叔父バカで姪っ子が好きだし、一緒に遊べるのは嬉しいんだけど」

きんちゃんは会話をしながら、赤ん坊に離乳食を食べさせている。そのあまりの手際の良さに、英里はしばし見惚れた。

「でも、どうしてきんちゃんが?妹さんの旦那さんは?」




「それがね...いわゆる“産後クライシス”状態で、ちょっと大変らしいんだ」

きんちゃんの話は、こうだった。

妹の旦那は大学病院勤務の多忙な医師だそうで、彼女は寂しい新婚生活を1年ほど過ごしていた。その環境に不満を持った彼女は、せめて子どもが欲しいと望み、晴れて妊娠&出産した。

しかし、出産後も夫の多忙さは全く変わらず子育てにも非協力的なため、まるでシングルマザーのような孤独と育児ストレスに苛まれ、家庭は崩壊気味だという。

英里はその話を聞きながら、まるで自分と吾郎の未来予想を語られているような錯覚に陥る。

「こんな可愛い娘に恵まれたのに...って、僕はどうしても思っちゃうんだけど...まぁ、独身の男に夫婦の事情なんて分からないから」

「そうなの、大変ね...。うまく解決するといいけど。ねぇ、きんちゃん。よかったら赤ちゃんを少し抱いてもいい?」

咲子が言うと、きんちゃんは嬉しそうに赤ん坊を彼女の膝に乗せた。

「か、かわいい...」

そのあまりの愛らしさに、英里は気まずさを忘れ、思わず感嘆の声が漏れる。

曇りのない澄んだ瞳、ピンク色の唇、そして柔らかく膨らんだ頰のあたりは、どことなくきんちゃんに似ていた。

「英里ちゃんも、良かったら抱っこしてあげて。この子は綺麗な女の人が好きだから」

「い、いいの...?」

英里がぎこちなく抱くと、それまでご機嫌だった小さな顔が、不安そうに歪んでいく。

「な、泣いちゃいそう...!」

「大丈夫大丈夫。少しユラユラ揺らしてあげて」

言われた通りにすると、赤ん坊にすぐに笑顔が戻った。

「ほらね。やっぱり嬉しそう」

きんちゃんは始終、愛情たっぷりの眼差しで姪っ子を見つめていた。

そんな彼を目の当たりにすると、英里はどうしても、自分が何か大きな間違いを犯したような不安が心の隅で小さく疼いた。


一方の吾郎は、同僚の松田から夫婦仲解消の助言を受ける...?


妻との不仲を、仕事で紛らわせようとする吾郎


「おっ、吾郎。珍しいじゃん、お前が週末にオフィスにいるなんて。もしや嫁さんとケンカでもしたな」

同僚の松田が、ニヤニヤしながらスタバのコーヒー片手に吾郎に近づいてくる。

-そんなお前は、なんで年がら年中オフィスにいるんだ?仕事の効率が悪いのか?それとも暇なのか?

吾郎は声には出さず、心の中で悪態をつく。

平日も休日もオフィスでダラダラと過ごす松田を日頃から見下していたが、今日は人をとやかく批判できる立場ではない。

吾郎にとって、“ワーク・ライフ・バランス”というのは極めて重要な事項の一つであったはずだった。

ガンガン働き仕事を充実させるのは当たり前だが、いわば“ワーク・ホリック”的な人種や、プライベートの乏しさゆえに仕事に逃げる人種を“ダサい”と思っていた。

が、しかし。

英里とのギクシャクした関係が続くにつれ、まさに吾郎は、モヤモヤした感情を紛らわせるように、気づけば無意味にオフィスへ足を運んでいたのだ。




「吾郎先生も、とうとう仕事しかやることがなくなったかぁ〜」

吾郎は近づくなと言わんばかりに松田を睨みつけるが、本人は全く気にする様子なく、ヘラヘラと側から離れない。

「男ってさ、結婚までした女から疎まれたら、仕事にでも没頭してないと虚しいだけだよな。分かる分かる」

「......随分と、エラそうだな」

吾郎はさらにギロリと睨むが、松田は不敵な笑みを浮かべた。

「吾郎、お前は確かにイケメンだし仕事も俺よりデキるぜ。でも、夫としての経験値レベルは断然俺のが上なんだよ。俺には、お前のヤバそうな家庭状況が手に取るように分かるぞ」

そのドヤ顔にはかなりイラついたが、しかし松田の指摘は、当たらずとも遠からずである。

英里とはもうしばらくマトモな会話をしておらず、家で一緒にいる時間もガクンと減った。

妻が吾郎を避けるように生活しているのは明らかで、ときどき顔を合わせても、人懐こい笑顔は見られず、業務連絡のようにポツリと言葉を交わすだけだ。

最初はただの“拗ね”だろうと放っておいたが、その態度は一向に変わらず、かといって吾郎が下手に出ることもできず、話すタイミングをどんどん失っていた。

「お前みたいな男は、自分から女に謝るなんて自殺行為くらいに思ってるだろうけどさ、千疋屋でケーキでも買って早く帰れよ。本当は、別に仕事なんてないんだろ?」

「.........」

「男は入籍したら最後、絶対に嫁には勝てないんだよ。吾郎先生だって例外じゃないんだから、さっさと折れた方が身のためだぞ」

松田はニヤニヤしたまま、そう言い捨てて去って行った。

吾郎はその後しばらくデスクで地蔵のように固まっていたが、突然勢いよく立ち上がり、千疋屋のある丸ビルへ向かった。

険しい顔をしながらも、その頭に浮かぶのは、笑顔でケーキを頬張る英里の姿だった。

▶NEXT:12月16日 土曜日更新予定
とうとう自分から折れる覚悟を決めた吾郎。仲直りはできるのか...?