他の選手とはボールへのインパクト時の音が違っていた。ロベカルだけの武器が、彼を歴史に残るスターに押し上げた。 (C) Getty Images

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 本誌ワールドサッカーダイジェストと大人気サッカーアプリゲーム・ポケサカとのコラボで毎月お送りしている「レジェンドの言魂」では、サッカー史を彩った偉大なるスーパースターが、自身の栄光に満ちたキャリアを回想しながら、現在のサッカー界にも貴重なアドバイスと激励を送っている。 さて今回、サッカーダイジェストWebに登場するのは、ボールが破裂せんばかりの強烈なインパクトでゴールネットを揺さぶり、数々の伝説を生み出したブラジルの“弾丸”、ロベルト・カルロスだ。 長く在籍したレアル・マドリー、ブラジル代表で全てのタイトルを獲得するのに大貢献した「ロベカル」の偉大なる軌跡を、ここで振り返ってみよう。――◇――◇―― ロベルト・カルロス・ダ・シウバ・ローシャは1973年4月10日、ブラジル・サンパウロ州のガルサで誕生した。 貧しいなかで幼い頃から働いて家計を支え、学校までの長距離を徒歩で通うなど、苦労を味わったが、彼には異常なほど発達した脚力とスタミナいう天性の武器が与えられていた。 13歳で初めてサッカーを始めたといわれる「ロベカル」だが、18歳で地元のクラブ、ウニオン・サン・ジョアンでプロとしてのキャリアをスタートすると、そこからは成功への道を真っすぐに進んでいく。 1992年にはアトレチコ・ミネイロへレンタル移籍し、欧州遠征で出場のチャンスを経て頭角を現わす。ウニオンに復帰した後、名門パルメイラスに加入し、ジーニョ、エバイールといった後のブラジル代表の仲間たちとともに、チームをブラジル全国選手権連覇に導いた。 ここでの活躍はすぐに欧州に伝わり、95年夏、イタリアのインテルがロベカルを獲得する。しかしここで当時の指揮官、ロイ・ホジソンから与えられた役割は、天職の左SBではなくウイング。慣れないポジションに力を発揮できず、海外挑戦1年目は不本意な出来に終わった。 そんな悩める23歳のブラジル人にラブコールを送ったのが、ミランで4度のリーグ制覇を果たした名将ファビオ・カペッロだった。攻守両面で重要な働きを果たせるSBとしての適性をロベカルから見出したイタリア人監督は、新天地のレアル・マドリーに彼を連れて行く。 96-97シーズン、37試合に出場して5ゴールを挙げたロベカルは、マドリーの2シーズンぶりのリーガ・エスパニョーラ優勝に貢献。翌シーズン、実に32年ぶりとなるチャンピオンズ・リーグ(CL)制覇を果たし、その冬には東京・国立競技場でのトヨタカップで世界一にも輝いた。 加入2シーズンで全てのメジャータイトル獲得を経験したロベカル。100メートル10秒台のスプリント能力に加え、長距離ランナーの資質も持つアスリートは、170センチに満たない身長ながら、他の誰よりも太い太腿とふくらはぎから生み出されるパワフルキックで瞬く間にサッカー界での地位を確立した。 左SBとして頻繁に上下動を繰り広げ、迷いのない突破から鋭いクロスを次々にゴール前に放り込んでチャンスを量産。パス出しの能力も高く、中央に切れ込んでのプレーも効果的だった。そして、必殺の左足シュートは相手GKを恐怖せしめ、信じられない位置からゴールネットを揺らした。 2000年にフロレンティーノ・ペレスが会長に就任してから「銀河系軍団」化への道を歩み始めたマドリーにおいて、ロベカルは次々に訪れるスーパースターらに負けないほどの存在感を示し、また安定したプレーを披露し続けた。 06-07シーズンまでの11年間で、公式戦512試合に出場し、レジェンド、アルフレド・ディ・ステファノを抜いて外国人としてのチーム最多出場記録を更新。リーガ4回、CL3回、トヨタカップ2回という、輝かしき勲章をマドリーにもたらした。


 ロベカルの栄光に満ちたキャリアのもうひとつの側面、ブラジル代表としての歩みもまた、実に輝かしいものだった。 まだクラブでも何の実績も築いていない18歳の時、カルロス・アルベルト・パレイラ監督から招集を受け、92年2月26日のアメリカとの親善試合で「セレソン」でのデビューを果たす。 24年ぶりの世界制覇を果たす94年アメリカ・ワールドカップの最終メンバーに入ることは叶わなかったが、着実に成長を遂げ、96年アトランタ・オリンピックでは“怪物”ロナウド、オーバーエイジ枠のリバウドらとともにドリームチームを形成し、世界中から注目を集めた。 本番では初戦で日本に足元をすくわれ、その後も調子を取り戻せないまま、義務でもあった初の金メダル獲得はならなかったが(銅メダル)、ロベカルら主力選手はA代表に移行し、セレソンは世界中の人々を魅了し続けた。 そんななか、ロベカルのキャリアのハイライトともいえる伝説のゴールが生まれる。97年に開催されたプレW杯「トゥルノワ・ド・フランス」でのことである。 開催国との対峙で、セレソンがゴールから35メートル程手前の位置でFKを得ると、彼は長い助走から左足を強振。ボールはあり得ないほどの弧を描き、相手の壁をかわしながら、ポストを叩いてゴールネットを揺らす。名GKファビアン・バルテスは一歩も動けなかった。 改めて左足の凄さを世界に知らしめしたロベカル。リベリーノ、エデル、ブランコといったセレソンのレフティー大砲の系譜を受け継いだ彼は、FKの場面では全ての人々の視線と期待を一身に集める存在となった。 初めてのW杯となった98年フランス大会では7試合全てに出場。準々決勝のデンマーク戦ではオーバーヘッドでクリアしようとするも空振りし、これを拾ったブライアン・ラウドルップにゴールを許すという場面もあったが、セレソンの2大会連続決勝進出に大きな貢献を果たした。 99年には、日本も参加したパラグアイでのコパ・アメリカで自身3度目の国際大会優勝を経験(97年のコパ・アメリカ、コンフェデレーションズカップに次ぐ)したが、彼にとって、またセレソンにとって最も重要なタイトルの獲得は、この3年後に実現した。 2002年に日韓W杯。パラグアイ、エクアドル、ボリビア戦を含む計6敗を喫し、3位で南米予選を通過したブラジルは、自国民からの期待も薄かったものの、本大会では危なげなく大量得点で勝利を重ねていき、横浜での決勝ではドイツを2-0で下して、史上最多5度目の世界一を成し遂げた。 ロベカルは3-5-2システムの左ウイングバックとして活躍し、グループステージの中国戦ではFKから先制ゴールを奪い、W杯での初得点を記録。安定したプレーを各試合で披露し、FIFA選定のオールスターチーム(優秀選手)のDF部門に名を連ねることとなった。 その後もセレソンで不動の左SBとして君臨したロベカルは、06年ドイツW杯にも出場。自身、3大会連続の決勝進出&連覇を狙ったものの、準々決勝でフランスに敗北し、これが代表キャリア最後の試合となった。最終成績は125試合出場11得点だった。 セレソン引退から1年後、栄光の日々を過ごしたマドリーでのキャリアにも終止符を打った彼は、トルコのフェネルバフチェに移籍し、2度のスーパーカップ制覇を果たす。10年からは母国に戻り、コリンチャンスで2シーズンを戦った。 11年にロシアのアンジ・マハチカラに加入して世界を驚かせ、翌年に引退するも、3年後にインドのデリー・ディナモスで現役復帰を果たし、プレイングマネジャーとして1シーズンを戦った後、今度こそ本当に現役生活に別れを告げた。 指導者としては、アンジ・マハチカラでコーチを務め、13年からトルコの2クラブで監督を務め、16年には前述の通りデリー・ディナモスの指揮を執った。 選手時代、世界全体を見渡しても、常にオンリーワンの存在であり続けたロベカル。選手としても、エンターテイナーとしても超一流だった彼は今、立場を指導者やコメンテーターなどに変えてもなお、常に人々を楽しませ続けている。戦略サッカーシミレーションの決定版! ポケサカに”レジェンド”たちが登場ユーザー自身がオーナーとなって理想のサッカークラブを作り上げる、スマートフォン用育成シミュレーションゲーム「ポケサカ」(対応OSはiOS、Android、端末対応はKindleFire)。今回は、ロベカルが再登場。「ロベカルカップ」にエントリーして、「ブラジル版ロベカル」を手に入れよう。詳細はアプリ内お知らせでチェック!!公式HP:http://www.pksc.jp/公式twitter:@PocketSoccer_PR  APP storeからダウンロード Google playからダウンロード KindleFireでダウンロード