連日、満員札止めの盛況が続く大相撲春場所。新横綱の稀勢の里が期待通りの活躍を見せている浪速の土俵で、新たなスター候補が現れた。新十両の朝乃山(23歳・高砂部屋)だ。富山商業高校から近畿大学に進み、昨年の春場所に三段目付け出しで初土俵を踏んでから、わずか1年で関取に駆け上がった。


十両に昇進し、鰤の化粧まわしを贈呈された朝乃山 高砂部屋は明治11年の創設以来、139年にわたって番付に十両以上の関取がいたが、今年の初場所で初めて関取が不在となってしまった。朝乃山は、その名門部屋の苦境をわずか1場所で救ったことになる。スピード出世でまだマゲが結えないザンバラ髪のホープは、亡き恩師の遺言を胸に刻んで土俵に上がっている。

 西幕下7枚目で迎えた今年の初場所の前に、朝乃山は高校時代の相撲部監督である浦山英樹さんへ「優勝するから元気になってください」とLINEメッセージを送ったという。その時、浦山さんは、がんの闘病中で床に臥せっていた。東幕下14枚目だった昨年の九州場所でも、同じように十両昇進へ全勝優勝を誓ったが、勇み足で土がつくなど2敗を喫して昇進を逃していたため、あらためての決意表明だった。

 年末に帰省した際、浦山さんはわざわざ朝乃山と会うために病院から自宅に戻り、「優勝を目指して頑張ってくれ」と激励した。「先生はやせてつらそうでしたが、自分のために時間を取っていただいた」という恩師を元気づけるため、そして、九州場所で味わった悔しい思いを晴らすために発奮し、初場所13日目に7戦全勝で優勝を果たして十両昇進を決めた。

 富山県出身の関取誕生は、1988年九州場所の駒不動以来29年ぶり。故郷は久々の関取誕生に地元紙が号外を出すほど沸き返った。浦山さんも、病床で優勝を決めた一番をテレビで見ていたという。

「後で先生の奥さんからお聞きしましたが、その時、先生は、目を開けるのもつらい状況だったのが、自分が勝った時に少しだけ顔が和らいだそうです」

 朝乃山が優勝した翌日の1月21日、教え子の快挙を見届けるように浦山さんは息を引き取った。40歳のあまりにも早すぎる死だった。

 千秋楽翌日の1月23日、葬儀に参列した朝乃山は弔辞を述べ、遺影の恩師に感謝を伝えた。葬儀を終えた時、浦山さんの妻・あいかさんから一枚の紙を渡された。そこには、「頑張ったら横綱になれるから。富山県のスーパースターになれ」という恩師からの言葉が書かれていた。読んだ瞬間に涙が溢れた。恩師が託した手紙は巾着袋に入れ、お守りとして肌身離さず大切にしているという。

「読み取れないような字でした。それは、先生がご自分の体が苦しい中でも自分にどうしても伝えたい言葉だったのだと思いました。先生の遺言だと受け止めています」

 朝乃山は「浦山先生の指導がなかったら今の自分はありません」と語る。富山市の呉羽小4年の時に始めた相撲。呉羽中学から富山商へスカウトしてくれたのが浦山さんだった。高校入学後は連日、放課後の午後4時から夜8時まで練習が続く日々だった。朝乃山は「厳しかったです。先生からほめてもらったことはありませんでした」と当時を振り返るが、その厳しく熱い指導のおかげで富山を代表する選手になった。

 その後、浦山さんの母校でもある近畿大へ進み、4年時に国体4位、全日本3位の実績を残した。実は、浦山さんのがんは朝乃山が大学2年の時に発覚し、その時にはすでに手術ができない状態だった。恩師の夢は、「教え子からプロ入りする生徒を育てたい。そして、その子に関取になって欲しい」だったという。朝乃山は、自らと恩師の夢のためにプロ入りを決断し、高砂部屋に入門して関取となったのだ。

 新十両昇進を機に、本名の石橋から朝乃山へ変えたしこ名。「山」には、故郷である富山と浦山さんへの思いを込めた。そして、朝乃山に続く下の名前に、恩師の名前「英樹」をつけた。

「先生は、ずっと見守ってくれていると思います。遺言書に託していただいた思いをかなえられるよう頑張るだけです」

 新十両場所は、10日目を終えた時点で5勝5敗と五分。大阪は、大学時代を過ごした場所でもあり、「第2の故郷でもある大阪が関取になった場所というのも何かの縁かなと思います。自分の相撲を取り切ることを常に言い聞かせて取っていきたい」と今後の奮起を誓う。

 地元の新聞社から贈呈された初めての化粧まわしには、富山を代表する魚で出世魚でもある「鰤(ぶり)」が描かれている。富山を背負うスーパースター、そして横綱へ。天国の恩師が託した思いを189cm、159kgの大きな体の中に詰め込んで、さらなる出世を目指す。

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