最終スコア2−4ながら、90分の戦いでは2対2。ロスタイムに入った93分、遠藤康が、右足で放ったシュートが決まっていれば、鹿島はレアル・マドリーを下し、クラブW杯チャンピオンに輝いていた。
 
 日本サッカー史上、最大の番狂わせは、アトランタ五輪でブラジルを破ったマイアミの奇跡だ。しかし、内容では一方的に劣っていた。シュート数4対28。マグレと言っては当時の選手に申し訳ないが、日本人でさえ狐につままれたような、まさに奇跡という表現が似つかわしい番狂わせだった。
 
 遠藤のシュートが決まり、鹿島がレアル・マドリーに勝っていたら、勝利の必然性は、当時を大きく凌いでいた。日本サッカー史上、最も惜しかった試合。鹿島対マドリー戦はそう言い切ることができる。
 
 最も美しい敗戦と言っても大袈裟ではない。比較したくなる試合は、ドーハの悲劇だ。94年アメリカW杯アジア最終予選。その最終戦でイラクにロスタイムに同点ゴールを叩き込まれ、悲願のW杯本大会出場を逃した一戦だ。しかし、その後のサッカー人気興隆のきっかけになった試合でもある。そうした意味で美しい敗戦と定義したくなるのだ。
 
 もっとも当時、今回の鹿島と似た境遇に置かれていたのは、対戦相手のイラクの方だ。

 主催者であるFIFAにとってイラクは勝って欲しくない側だった。アメリカと政治的に緊迫した敵対関係にあったイラクを、できればアメリカW杯本大会に出場させたくない。FIFAはそうした思惑を、隠そうとしなかった。その冷遇ぶりは主審の判定に端的に表れていた。日本戦では累積警告が解け、本来出場可能である選手まで出場不可とされる、不条理甚だしい仕打ちを受けていた。
 
 日本が1点リードで迎えたロスタイム。イラクはもう1点加えても、本大会出場の可能性がないにもかかわらず、最後まで頑張り、ショートコーナーからオムラムがヘディングで同点ゴールを叩き込んだ。試合後、ピッチを淡々と去って行くイラクの選手たちの姿が、僕の目にはかなり美しく見えた。日本以上に美しい敗者に見えた。

 クラブW杯決勝。遠藤が右足シュートを外す少し前、セルヒオ・ラモスが金崎夢生に過激なタックルを見舞ったとき、バーレーンのシカズエ主審は、カードを出そうとした。セルヒオ・ラモスにとっては退場宣告を意味する二枚目のイエローカードを、だ。

 結局、それが有耶無耶になってしまった理由は、主審の判断だけでないことは明白だ。無線システムを通して、それなりの立場に就く人から指示があったものと推測できる。10対11で、延長の30分間を戦えば、マドリーと言えども苦戦必至。鹿島がクラブW杯チャンピオンになる目が大きく膨らむことになる。

 鹿島は開催国枠での出場だ。アジアチャンピオンではない。日本人の興味を繋ぐために特別枠で、出場しているチームだ。権威付けに乏しいその鹿島が、世界一になれば大会の権威も失われる。シカズエ主審がカードを胸にしまい込んでしまった理由はそこにある。FIFA的には、鹿島は勝ってもらってはマズイ存在だったのだ。

 鹿島には試合前から、見えざる逆風が吹いていた。その中で、可能な限り頑張った。カードをしまい込む主審の姿を見た瞬間、23年前のイラクを想起することになったが、それだけに、その直後に訪れた遠藤のシュートシーンは、場の空気をぶち壊す破壊力があった。

 もし決まっていれば。流れの中でのプレイは、さすがの主審も止めることができない。その右足シュートの失敗は、日本的には残念な出来事ながら、FIFA的には思いっきり安堵したくなる歓迎すべき出来事だった。

 試合後の記者会見に臨んだ石井正忠監督は「主審に勇気があれば」とコメントした。怒りで顔をこわばらせながら、ではない。半分苦笑いを浮かべながら静かにチクリと一言、述べたに留まった。勝ってはいけない側の監督としての立場を弁えた、大人の振る舞いを演じた。

「勝つときは少々汚くても構わないが、負けるときは美しく」とは、故ヨハン・クライフの言葉だが、会見場のひな壇に座り、疑惑の判定について半分許すような態度を取った石井監督の姿は、まさに美しい敗者そのものだった。マドリーに貸しを作った。武士の情けを送るようにさえ見えた。
 
 勝たせてやった感さえ覚える敗戦。この試合をテレビで見た世界のファンにも、それは多少なりとも伝わったはず。負けてもなお痛快さを抱かせる、可能な限り最良な負け方を鹿島は演じた。一生のうち滅多に見られないよいものを見た。勝ったマドリーのファンより、満たされた気分だと言いたくなる。