「延長までの90分0−0の時間を我慢してよく耐えたことが、勝利に繋がった」と、遠藤主将は語ったが、それは結果論。サッカーでは運が結果に及ぼす影響は3割と言われるが、恩恵にあずかっていたのは日本だ。

「遠藤を含めた真ん中の守備が機能していた」とは、テレビ解説者の見解。だが、それ以上に目を向けるべきはイランの攻撃だ。展開力ゼロ。送り手と受け手の2点間に限られた出たとこ勝負のパスワークに日本は助けられていたといっても過言ではない。イランは個人技を武器に向かってきた。勝負という視点で見れば、そこがアダになった格好だが、五輪チーム本来の目的に照らした時、日本とイランどちらの方に、今後の可能性を感じたかと言えばイラン。日本は目の前の試合には勝利を収めたが、本当の勝負には負けていたのかもしれない。

 五輪チームと向き合う場合、観戦者は2つの目を携える必要がある。結果と可能性。結果に喜びながらも、各個人の可能性を探る。クルマの両輪のようにそれぞれを追求する。好結果に喜びを全開にしていいのは代表チームの観戦法だ。サッカー産業的な視点で向き合おうとするメディアは、その辺りの整理をつけたがらない。五輪好き、五輪至上主義を全開に、勝てば官軍とばかり盛り上がろうとする。かつてより、若手にタレントが激減しているにもかかわらず。心配だ。