外国ではあり得ない話だ。チャンピオンズリーグの決勝を開催する各都市は、試合後、特別ダイヤを編成し、深夜遅くまで、場合によっては朝方まで、電車を動かそうとする。両軍サポーターのために、だ。

 98年フランスW杯。日本がアルゼンチンと戦ったトゥールーズには、何万という日本人が訪れた。試合後、パリに戻る人が大半を占めたので、帰りのTGV(フランスの新幹線)に、ファン全員が乗り込めるか危ぶまれる状況にあった。しかしフランス国鉄は特別ダイヤを編成。列車を次々と増便した。駅員は「全員が乗るまで運行する。心配ご無用だ」と、胸を張った。2002年W杯の時、この手のサービスはあっただろうか。

 市井レベルの「お・も・て・な・し」は、こうしたビッグイベントでは無力になる。精神だけでは対処することはできない。具体的かつ明快である必要がある。98年長野五輪、2002年日韓共催W杯の取材を通してうかがう限り、日本の「お・も・て・な・し」は、それまでの開催都市に比べて大きく劣っていた。胸を張るレベルには全くなかった。来る東京五輪でも、心配事の一つになるだろうと僕は見ているが、メディアや世間の捉え方はその逆。「お・も・て・な・し」に自己陶酔している。新語・流行語大賞受賞は罪作り。そう言いたくなる。

 流行言葉を作り、その言葉の罠に自ら好んではまり込み、そこに安住を求めようとする姿。これはいまの日本社会全体の傾向だと思うが、スポーツ界、サッカー界もそうした俗世界にどっぷりと浸かっている。パスサッカー、流動的なサッカー、司令塔、ボランチ、さらに僕がよく言う、守備と攻撃等々、うっかり使うと、サッカーの本質から外れてしまいそうな言葉はまだまだある。

 それを抵抗なく受け入れる世の中と一線を画さないと進歩は止まる。僕はそう思うのだ。