小田急ロマンスカーLSEと並んだ「ウルトラセブン」地球防衛軍のポインター号=2018年9月(撮影:Tanaka)

「ウルトラセブン」には小田急線がよく似合う。製作した円谷プロダクションが小田急沿線にあったことから沿線各地で撮影が行われたという理由もあるが、ロマンスカーの車内に宇宙人が出現したこともある。第2話「緑の恐怖」。疾走する小田急ロマンスカーNSEの車内で、宇宙ステーションV3から一時帰還した地球防衛軍の隊員がワイアール星人に変身するというシーンである。

さて、ここに地球防衛軍の「ポインター号」とロマンスカーが一緒に映っている写真がある。ウルトラセブンが放送された1967年ごろの写真のようにも見える。しかし、この写真が撮影されたのは実は昨年9月。よく見ると、映っているロマンスカーはNSEではなく、その後に登場したLSEである。

では、ポインター号は? どう見ても本物そっくりなのだが、実はファンによる自作である。

実物大の「模型」

ポインター号の斬新なデザインは、テレビの前の子どもたちにとって「未来のクルマ」だった。所有したいが所有できない。だからこそ、多くの人はミニチュア模型を購入して所有欲を満たす。その意味で、実寸大モデルの制作とは、究極のファン行為である。

そんなあこがれの行動をやってのけたのは、千葉県在住の会社員、城井康史さんだ。


保存されたロマンスカーNSEと並ぶポインター号(撮影:志村直樹)

特殊装備を備えたスーパーカーという設定のポインター号だが、実際は1957年式クライスラー「インペリアル」を改造したものだ。放映当時ですら10年落ちの中古車両。撮影時は故障が多くしょっちゅうエンストしていたという。

そんな手を焼く車両を入手して、本物そっくりに改造して、車検を通した。休日にはイベントやロケ地巡りに使われる実用車だ。

もちろん、ここに至るまでの道は一筋縄ではいかない。

城井さんは1963年生まれの55歳。この年代には幼少時にウルトラセブンに魅了された人が多い。城井さんが初めてウルトラセブンをテレビで見たのは幼稚園の頃。メカデザインのインパクトに強く影響を受けたという。


ポインター号を製作した城井康史さん(撮影:梅谷秀司)

その後は同世代の子どもたちと同じように「宇宙戦艦ヤマト」や「機動戦士ガンダム」にも魅了されていく。1980年代には日本SF大会に参加。後に「エヴァンゲリオン」で知られる庵野秀明氏らも参加し、その自主制作アニメーションが話題になった頃でもある。会場には国産車をベースにしてポインター号を自作した人がいた。格好よかった。「自分も面白いことをしてみたい」と城井さんは考えた。

就職してサラリーマン生活を送るようになると、仕事に忙殺され、「面白いことをやりたい」と考える余裕はなくなった。だが、1990年ごろのある日、会社の近くの書店でたまたま手に取ったウルトラシリーズの関連書籍を立ち読みしているうちに、かつての熱意がよみがえった。「やっぱり、面白いことをやりたい」――。

酔った勢いで「ポインター号造る」

早速実践したのが、「帰ってきたウルトラマン」で活躍する防衛組織MATの特装車両「マットビハイクル」に乗って日本SF大会に参加することだった。マットビハイクルは、マツダ「コスモスポーツ」をベースに造られたが、ポインター号ほど手の込んだ改造はなされていない。とはいえ、希少車だけに入手するだけでも難問だった。手を尽くして入手に成功。MATの塗装が再現されたマットビハイクルは日本SF大会の会場で注目を集めた。

どちらもウルトラシリーズに登場する車両という縁で、前述した国産ポインター号のオーナーと知り合うことができた。オーナーと話しているうちに城井さんは思いついた。「国産車を改造して車検が通るなら、アメリカ車を改造しても車検が通るのではないか」。

仲間うちで酒を飲んでいるうちに、酔った勢いで「1957年式クライスラーインペリアルを入手して、ポインター号を実際に造るぞ」と宣言した。

早速、複数の輸入代行業者に1957年式クライスラーインペリアルを買いたいと打診する。30年以上のクルマなのでアメリカでもなかなか走っていない。確実に入手できるという自信があったわけではない。酔った勢いの話でもあり、打診したこと自体も忘れかけていた。

ところが数カ月後に、ある業者から「1958年式が手に入った」という連絡がきた。なんと、その業者は道路上を走っているクライスラーインペリアルを呼び止めて、その場で買い付けたというのだ。

代金は1万ドル。3〜4日以内に振り込めという。友人たちに「ポインター号を造るのでカネを貸してほしい」と頼んで回った。誰もが驚いたが、資金は無事に集まり、送金することができた。

「本当に造れるのかなあ」。船便でクルマが日本に運ばれてくるまでの間、ずいぶん悩んだ。日本では珍しいクルマなので、造れなければ、転売してしまえばいいとも考えた。珍しいクルマなので、小遣い稼ぎにはなるだろう。でも、到着した真っ白な車を見て「これは造るしかない」と思い直した。「維持するのが大変だ。やめておけ」と忠告する友人もいたが、「僕が責任とるから」と、制作すると決めた。1991年、ポインター号の製造がスタートした。

食費を削って改造・整備

城井さんは決して自動車に詳しいわけではない。車検に詳しい人、造形に詳しい人、さまざまな知見を持った仲間たちとの共同作業だ。

ポインター号の設計図がないのは悩みの種だった。そこで、プロのモデラーにポインター号のミニチュアを造ってもらった。それを元に実寸ベースの設計図を造った。鉄板をたたき出して溶接する。失敗すると鉄板をはがしてもう一度造り直す。通常の改造車では軽量化のためにアルミやFRP(繊維強化プラスチック)を使うという。しかし、国産車でポインター号を造った人の助言に従って鉄板で造った。


1958年式クライスラー・インペリアルを改造して制作したポインター号(撮影:梅谷秀司)

改造を引き受けてくれた工場は自宅から遠く離れた九州の福岡。様子を見るために週末ごとに福岡に向う日々が続いた。改造に要した費用は300万円。さらに交通費も上乗せされた。

続いて、整備をして車検を通す作業だ。クルマの状態は決してよくなかった。エンジンはかかっても、トランスミッションが不調。直そうにも1950年代のアメリカ車の部品を調達するのは簡単ではない。運よく正規部品が手に入っても、なぜか取り付けできない。整備費用もばかにならない。当時は城井さんの給料も安く、食費を削ってしのいだという。

試行錯誤の結果、修理が終わり、車検が通った。完成したのは1992年。ウルトラセブンでポインター号を製造した当時のスタッフに見てもらったら「うん、こんな感じです」。ポインター号を最も知り尽くした人から、お墨付きを得た。

車検が通ったといっても、それからがまた大変だった。走るたびにどこかが故障する。そのたびに修理代がかかる。燃費も悪くリッター2〜3kmだ。ガソリンタンクに穴があいていてガソリンを50リットルくらいしか入れられない。100km走るごとにガソリンを入れ直す必要がある。修理費、維持費、トータルでいくらかかっているのかという問いに、城井さんは「怖くて計算していません」と苦笑した。

出会いを生むポインター号

でも、いいこともあった。公道デビューからおよそ10年後の2003年にエンジンも載せ替える大修理を行った。でもおカネがない。すると、アンヌ隊員を演じた女優のひし美ゆり子さんがパーティを開いてくれて、集まった参加費の一部を修理費として提供してもらった。

車検のときは、整備士さんがどうすれば車検を通るかをいっしょに考えてくれた。ウルトラセブンを見て大人になった整備士さん。ポインター号の車検を通してあげたいと思う気持ちはよくわかる。

ポインター号で神戸の街を走っていたら、警察官に呼び止められた。「そのクルマは車検を通っているのか」と問いつめられるのではないか。不安に感じた城井さんに警察官が放った一言は「キングジョーが出現したのですか?」。ウルトラセブンのファンだけに通じる一流のジョークだ。当然ながら、城井さんもこう応えた。「いえ、パトロール中です」

ひし美ゆり子さんだけでなく、モロボシ・ダン隊員役の森次晃嗣さんなど、子どものころに憧れた多くのウルトラセブン関係者の知遇を得た。そして、整備士さんや警察官など市井のウルトラセブンファンとの出会いも大きな財産だ。しかし、城井さんにとって、ポインター号がもたらした最大の出会いは奥様だ。

1995年にあるイベントに参加したときのこと。コンパニオンを引き受けてくれる女性が1日だけ参加できず、代役として彼女の妹が参加した。その人が城井さんの奥様である。ポインター号が結んだ縁。だから、ポインター号の保有は奥様公認だ。ポインター号の維持に伴う多額の出費についても、奥様は「生活できなくなったらやめてね」と言うのみ。理解がある奥様だ。

とはいえ、普通の会社員がポインター号を維持するのはなかなか厳しいらしい。城井さんも以前は普通の特撮ファンと同じように、模型を集めたりもしていたが、今は資金的に難しい。以前のコレクションはポインター号の修理代を捻出するために売却してしまった。「模型趣味の究極は“1分の1”。それに手を出したらどうなるか。その見本が私です」。

さて、冒頭のロマンスカーとのコラボに話を戻す。あるイベントで、鉄道に詳しいウルトラセブンのファンと知り合い、小田急とコラボしたら面白いという話で盛り上がった。その夜、小田急の車内で「ロマンスカーLSE、ラストラン」と見た。


LSEとの撮影時には、最新型のロマンスカーGSEとも並んだ(撮影:Tanaka)

カラーリングがNSEと似ているLSEといっしょに写真を撮れば、当時の雰囲気が出るはず。しかし、決して鉄道ファンではない城井さんは、いつ、どこで写真を撮ったらいいのかがわからない。あのとき、ロマンスカーといっしょに写真を撮る計画をもっと進めておけばよかったと後悔した。

そんな矢先、そのファンからメッセージが届いた。なんという偶然、早速、その人にスケジュールを組んでもらい、無事撮影を終えることができた。ちなみに、「遠足は家に帰るまでが遠足」という。この日は帰宅途中に首都高速で渋滞に巻き込まれたものの、故障せず無事に帰宅できたという。

動く限り走らせ続ける

今後のポインター号はどうなるのだろうか。「もちろん動く限り走らせ続けます」と、城井さんは力強く語る。現在の資金力では走れるようにするだけで精いっぱい。「内装がぼろぼろなんです」。ポインター号に乗った子どもに夢を持ってもらうために、内装を少しずつきれいにしたいというのが城井さんの夢だ。

最近はウルトラセブンを知らない若い世代も増えてきた。ポインター号を見て、「格好いい。でもこれ何の番組に出てくるの?」と聞く子どももいるという。ウルトラセブンがドラマの裏側で発信するメッセージは、人類への警鐘として今なお心に響く。次代の日本を背負う世代にもぜひウルトラセブンを知ってほしい。

「最初は2〜3年で手放すつもりでした」。でもポインター号を通じて多くの人と出会うことができました」。27年たった今も城井さんの愛車だ。これまでに費やした金額を合計すれば、きっとフェラーリのようなスーパーカーだって買えるだろう。でも、たとえ故障が多くても世界に1台しかないポインター号のほうが多くの人に夢と希望を与えるはずだ。多くの仲間や同好の士に支えられて、ポインター号は今日も走り続ける。