大阪都よりも堺県の独立再興!/純丘曜彰 教授博士
/大阪都構想だかなんだか喧しいが、歴史的にも、経済的にも、文化的にも、堺は大阪じゃない。そのアホの始末に毎度、利用されるのは、いいかげん勘弁してほしい。/
堺、なんて言ったって、関西以外の人には、どこにあるのかすらわからないかもしれない。なんか歴史の教科書で聞いたことがあるよな、くらいの地名。そう、アホな大阪のせいで、何度も歴史の陰に追いやられてきた巨大経済都市だ。
むしろ、もともと大阪の方が、地べた自体からして存在していなかった。河内、と言うと、南大阪の方のように思うかもしれないが、本来、いまの東大阪のあたり、大阪城から生駒山まで、全部が河内池。大阪、難波としてあったのは、大阪城から天王寺を抜けて仁徳陵にまで至る、南北に細長い上町台地だけ。奈良盆地から流れ出てくる大和川は、この上町台地に遮られて、北の河内池に流れ込み、大阪城の東側あたりで、京都からの淀川に合流していた。
堺は、この上町台地の南端にある天然の良港で、縄文・弥生の時代から、九州と繋がる瀬戸内海、さらには半島や中国との国際貿易を開き、絶大な繁栄を修めていた。そして、ここから東へ竹内街道を越え、明日香村の大和朝廷に繋がる。その後、京は奈良、京都へと北に移っていったが、瀬戸内海と世界の窓口としての堺の重要性は変ることなく、鉄砲を握る強力な環濠自治都市として独立を守り、伴天連に「東洋のヴェネチア」とその美と繁栄を称えられ、織田信長とも張り合うほどだった。
しかし、これが運の尽き。豪商たちはみな秀吉に大阪城下への移住を命ぜられ、千利休なんか、さんざん利用されて切腹。おまけに、犬公方、綱吉の時代、天変飢饉が続いたせいで、河内池跡の沼地の治水開拓のために、1704年、上町台地を分断して運河が拓かれ、大和川が西流れに付け替えられる。これによって、堺港が奈良から流れ出てくる土砂に埋まり、陸路も北の大阪とは新大和川で切り離され、堺は大きく力を削がれてしまう。それでも、堺は、和泉や河内の豊穣な後背地を持ち、直轄領・旗本領としてかろうじて経済的地位を保った。
廃藩置県に際しては、堺県として豊後高田の小河一敏が県知事となり、現在の奈良県全域までをも含む広大な地域に善政を敷き、独自の県札を発行して、治水や養蚕での経済振興に努めた。しかし、このように斬新な積極政策は、下級武士出身ばかりの明治政府には理解できるものではなかった。小河は罷免され、経済破綻している大阪救済のために、堺県はわずか12年で廃止、1881年に「大阪府」に飲み込まれてしまう。ところが、この「大阪府」は巨大になりすぎ、1887年に奈良県を分離。このせいで、堺は、竹内街道を介した古代以来の奈良との重要な繋がりも断ち切られてしまう。(奈良も、四方の出口を塞がれ、内陸部に押し込められた。)
現在も、堺および和泉は、現大和川を隔て、大阪とは風土も気風もまったく異なっている。高度経済成長期に内陸部まで高級一戸建てニュータウンとして開発され、言ってみれば、猥雑な下町をもたない横浜や神戸のようなもの。世界に開かれた関西国際空港を持ち、その空港周辺開発というハシゴを外された泉佐野市を除けば、財政的にも手堅く健全なところが多い。港湾地域も、神戸まで高速道路で繋がり、和歌山側、奈良側とも、高速道路を通じて古代以来の経済的連携を取り戻しつつあり、多方面で将来性も高い。
こんな堺が、なんでまた百年以上もアホのままの、借金まみれの大阪のケツを拭いたなならんのん、というのが、こっち側の本音。都構想だかなんだか、そんなん、知らんわな、ええかげんにせいよ、というところ。関西以外じゃわからないかもしれないが、堺は、歴史的にも、経済的にも、文化的にも、最初からずっと大阪ちゃうねん。はよまた独立したいわ。
(この話、旧堺県の広大な版図とちっぽけな廃藩置県直後の旧大阪府を知らないと、ちょっとわかりにくかったかもしれない。要は、「大阪都」とかいう妙な名目の下に、大阪市のやつらが慢性赤字のくせに大阪府の代表みたいな顔して好き勝手するのを許すくらいなら、旧堺県諸市の方がごっそり現大阪府から離脱してしまえば、ほっておいても、新大阪府には大阪市部くらいしか残らないし、そこでやつらが何をしようと、健全な周辺都市はその被害を被らずに済む、ということ。実質破綻の旧国鉄からまともなJRを分離し再生したのと同じ方法だ。)
(大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲 学、メディア文化論。著書に『夢見る幽霊:オバカオバケたちのドタバタ本格密室ミステリ』『悪魔は涙を流さない:カトリックマフィアvsフリーメイソン 洗礼者聖ヨハネの知恵とナポレオンの財宝を組み込んだパーマネントトラヴェラーファンド「英雄」運用報告書』などがある。)
堺、なんて言ったって、関西以外の人には、どこにあるのかすらわからないかもしれない。なんか歴史の教科書で聞いたことがあるよな、くらいの地名。そう、アホな大阪のせいで、何度も歴史の陰に追いやられてきた巨大経済都市だ。
堺は、この上町台地の南端にある天然の良港で、縄文・弥生の時代から、九州と繋がる瀬戸内海、さらには半島や中国との国際貿易を開き、絶大な繁栄を修めていた。そして、ここから東へ竹内街道を越え、明日香村の大和朝廷に繋がる。その後、京は奈良、京都へと北に移っていったが、瀬戸内海と世界の窓口としての堺の重要性は変ることなく、鉄砲を握る強力な環濠自治都市として独立を守り、伴天連に「東洋のヴェネチア」とその美と繁栄を称えられ、織田信長とも張り合うほどだった。
しかし、これが運の尽き。豪商たちはみな秀吉に大阪城下への移住を命ぜられ、千利休なんか、さんざん利用されて切腹。おまけに、犬公方、綱吉の時代、天変飢饉が続いたせいで、河内池跡の沼地の治水開拓のために、1704年、上町台地を分断して運河が拓かれ、大和川が西流れに付け替えられる。これによって、堺港が奈良から流れ出てくる土砂に埋まり、陸路も北の大阪とは新大和川で切り離され、堺は大きく力を削がれてしまう。それでも、堺は、和泉や河内の豊穣な後背地を持ち、直轄領・旗本領としてかろうじて経済的地位を保った。
廃藩置県に際しては、堺県として豊後高田の小河一敏が県知事となり、現在の奈良県全域までをも含む広大な地域に善政を敷き、独自の県札を発行して、治水や養蚕での経済振興に努めた。しかし、このように斬新な積極政策は、下級武士出身ばかりの明治政府には理解できるものではなかった。小河は罷免され、経済破綻している大阪救済のために、堺県はわずか12年で廃止、1881年に「大阪府」に飲み込まれてしまう。ところが、この「大阪府」は巨大になりすぎ、1887年に奈良県を分離。このせいで、堺は、竹内街道を介した古代以来の奈良との重要な繋がりも断ち切られてしまう。(奈良も、四方の出口を塞がれ、内陸部に押し込められた。)
現在も、堺および和泉は、現大和川を隔て、大阪とは風土も気風もまったく異なっている。高度経済成長期に内陸部まで高級一戸建てニュータウンとして開発され、言ってみれば、猥雑な下町をもたない横浜や神戸のようなもの。世界に開かれた関西国際空港を持ち、その空港周辺開発というハシゴを外された泉佐野市を除けば、財政的にも手堅く健全なところが多い。港湾地域も、神戸まで高速道路で繋がり、和歌山側、奈良側とも、高速道路を通じて古代以来の経済的連携を取り戻しつつあり、多方面で将来性も高い。
こんな堺が、なんでまた百年以上もアホのままの、借金まみれの大阪のケツを拭いたなならんのん、というのが、こっち側の本音。都構想だかなんだか、そんなん、知らんわな、ええかげんにせいよ、というところ。関西以外じゃわからないかもしれないが、堺は、歴史的にも、経済的にも、文化的にも、最初からずっと大阪ちゃうねん。はよまた独立したいわ。
(この話、旧堺県の広大な版図とちっぽけな廃藩置県直後の旧大阪府を知らないと、ちょっとわかりにくかったかもしれない。要は、「大阪都」とかいう妙な名目の下に、大阪市のやつらが慢性赤字のくせに大阪府の代表みたいな顔して好き勝手するのを許すくらいなら、旧堺県諸市の方がごっそり現大阪府から離脱してしまえば、ほっておいても、新大阪府には大阪市部くらいしか残らないし、そこでやつらが何をしようと、健全な周辺都市はその被害を被らずに済む、ということ。実質破綻の旧国鉄からまともなJRを分離し再生したのと同じ方法だ。)
(大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲 学、メディア文化論。著書に『夢見る幽霊:オバカオバケたちのドタバタ本格密室ミステリ』『悪魔は涙を流さない:カトリックマフィアvsフリーメイソン 洗礼者聖ヨハネの知恵とナポレオンの財宝を組み込んだパーマネントトラヴェラーファンド「英雄」運用報告書』などがある。)