アイルランドからやってきたフィルさん
海外から日本にやってくる人たちには、どんな事情があるのだろう。文化に惹かれてやってくるのか、職を求めてか、あるいは思いもしない理由からか。人生の道がそれぞれ違うように、日本という場所にくる理由も各々違うはずだ。生活する中で日本への見方が変わっていくこともあるかもしれない。そういったことを出会った人たちに聞いてまわってみたいと以前から考えていた。長年日本に住んで、ほとんどのことが当たり前になってしまった自分の凝り固まった視点ではなく、日本に渡ってきた人たちの新鮮な眼差しにより、今まで見えなかった日本の一面を知ることができるかもしれないと思ったからだ。

今回話をきいた フィルさんはアイルランドからやってきた。現在は東京に住んでいて、翻訳と編集の仕事をしている。今年で日本への滞在は計6年。そんな彼が日本に来たのはどんな理由からだったのだろうか。また実際に住んでみることで、日本をどう感じたのだろうか。

■はじめての日本、お好み焼きにびっくり
フィルさんが、初めて日本に来たのは10年以上前のことだ。彼がアイルランドの大学で学んでいた言語の一つが日本語だった。卒業には日本への留学が必須だったため、交換留学で提携していた神戸の大学に行くことになる。
「初めて日本に来たときに飛行機が着いたのは成田空港だった。関西に向かう前に東京で友達に会う予定だったんだ。最初に驚いたことは、空港から東京に向かうバスに乗っていて、遠くに高層ビル群が見えてきたとき。自分が育ったところにはあんな高いビルは一つもなかったからね。それから人口密度にはびっくりしたよ。満員電車は日本人でも辛いんじゃない?」

神戸にいたときは、大学で日本語を学ぶ毎日。それ以外の時間には、一緒に勉強していた友達や寮に住んでいた仲間たちと過ごした。
「クラスにはいろんな国から来ている人たちがいて、国際色豊かなところだったんだよ。そんなところだから日本人の友達はそんなにつくれなかったんだけど。中東から来た人たちと交流できたのは初めての経験だったから特に刺激的だったね。毎日がパーティーみたいな日々だった(笑)みんなで外国人が集まるバーに行って遊んだり、ラーメンを食べに行ったり、あとは大阪に行って、飲んだりクラブに行ったりして朝まで遊んだりもしたよ」

初めての日本、フィルさんにとってはカルチャーショックもあった。
「特に食べ物で驚くことが多かった。寿司をスーパーで買ったときは、そのまま食べるのが怖かったから、レンジで温めてから食べんたんだ(笑)。お好み焼きを初めて見たときもショックだったな。焼いた後、かつお節が表面で踊っているのをみて、虫だと思ってびっくりしたよ(笑)」

■関心のきっかけは日本文学、映画、そして『風雲たけし城』も?
そもそも、フィルさんが日本に関心をもったきっかけは何だったのだろうか。
「海外でもよく紹介される日本のアニメや秋葉原、武道などに興味があったわけではないんだ。僕の場合は、日本の文学、たとえば太宰治や三島由紀夫の小説などを読んでいたっていうのも一つだし、あとは映画がきっかけだね。13歳か14 歳くらいの頃、海外からの実験的な映画を紹介するテレビ番組が深夜にあって、そこで塚本晋也監督の『鉄男』という作品をみたときに衝撃を受けたんだ」
この作品は、ある男が鉄に侵されていく姿を描いたもので、塚本監督が海外で評価されるきっかけになった映画だ。
「親が知ったらショックを受けるような演出だったかもしれないけど『鉄男』が結果的に日本の映画だけでなく映画全般に興味をもつきっかけになったんだよ」

深夜のテレビでは映画の他にも、日本では1980年代後半に放送されていた『風雲たけし城』もよく放送されていたという。
「あの番組は、もう日本ではそんなに人気のある番組ではないよね? でも日本を代表する番組のように紹介されていたんだよ。西欧のメディアでは日本の変わった一面、時には極端だと思うような一面が紹介される傾向があるんじゃないかな」と フィルさんは話す。「映画でもそうなんだ。さっき言った塚本監督もそうだし三池崇史監督なんかも日本ではどこの映画館でもやるような主流の監督ではないと思うんだけど、欧米では人気があるんだよ。もともと日本の情報がそんなに多くないから、ああいった監督がテレビ番組で紹介されれば日本を代表する監督としての印象が強く残るよね」

このように映画や文学、そしてテレビでみた情報が日本に関心が向く始点となり、日本のイメージをつくりあげていった。だからと言って、まだ夢中になるほどでもなかった。

■なぜ日本語を勉強しはじめたのか
フィルさんと日本との距離を縮めたのは大学で応用言語学を専攻したことだ。このとき2つの言語を選ばなければならなかった。一つは昔から勉強していたフランス語。もう一つの言語として日本語を選択した。
「ドイツ語やスペイン語って選択肢もあったんだけど、それまでに勉強したことがなかったから、同級生とすでに差があった。日本語を選んだのは、文化的なものに関心があったっていうのもあるけれど、履修する人たちがみな同じく初心者になるってことが一番大きな理由だったんだ。当時のアイルランドの義務教育では日本語を外国語として選択することができなかったからね」

■新潟に来て、自分の中の「日本」が変わった
神戸への留学を終えて一度はアイルランドに帰った。しかし、母国で過ごす日々の中、日本での思い出が何度も思い起こされ、もう一度行きたいという気持ちに目をそらさずにはいられなくなっていた。

そして大学を卒業後、フィルさんは日本の政府と地方自治体が主催する国際交流事業に応募し、新潟市の国際交流員として働くことが決まる。新潟では、学校に行ってアイルランドの文化について話したり、海外から来ている人たちに市からの便りを書いたり、料理教室や映画祭などのイベントにも関わった。

新潟に滞在したことが、日本のイメージを大きく変えたとフィルさんは語る。
「新潟に来る前は、自分の中の『日本』は神戸だった。でも新潟に来てみて、『日本』という一つの概念はないと思ったよ。神戸と新潟は、まず気候が違う。あんなに雪が多くて寒い冬は初めてだった。気温がそこまで低いわけではないのだけれど、セントラルヒーティング(ヨーロッパでは主流の建物全体を暖める暖房装置)のない家に住んだのは初めてだったからね。もう一度住んだら耐えられるかわからないな(笑)」

人の気質も違うと感じたという。
「新潟の人ほうがシャイだと感じたね。人と距離を縮めるのは簡単ではなかったよ。それでも新潟のときは仕事や趣味をきっかけにして地元の人たちと関わることができたんだ。これは神戸のときにはできなかったこと。あのときは学生だったということもあったと思うけどね。特に新潟の映画祭に関われたことが良い経験になったよ。人間関係も広がったし、ケルト文化を紹介する企画で自分の大好きな映画を上映することができたというのもあって、コミュニティに参加しているという実感を強くもつことができたんだ」

3年間の新潟への滞在を経て、フィルさんは再びアイルランドに帰ることになる。そこで待っていたのは……(後編に続く)

インタビュー・文・訳 /エキサイトニュース編集部 萩原