「専業主婦 VS ワーキングマザー」の戦いがいつまでも終わらないワケ

こういった対立はどうして起こってしまうのでしょう。今回はおろちょんさんのブログ『なんでかフラメンコ』からご寄稿いただきました。
「専業主婦 VS ワーキングマザー」の戦いがいつまでも終わらないワケ
『プレジデント』が「専業主婦の子育ては2億円以上の機会損失!」という記事 *1 をぶち上げてた。
*1:『プレジデント』「「専業主婦の子育て」は、2億円以上の機会損失!」 ・・・ 『Yahoo!ニュース』より
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20100329-00000001-president-bus_all
記事自体は「あなたもアフィリで月50万!」と同じく取らぬタヌキ系の釣り記事で読む価値もないんだが、この手の話題に必ずと言っていいほど出てくるのが「こどもが小さいうちは親がそばにいて愛情をたっぷり与えるべきです!」「愛情不足の子供は曲がります!」「子供と過ごす至福の時間はお金には代えられない素晴らしいものなんです!」などと白目をむいて反論する”こども教”の人々である。案の定、この記事にも下記のようなブックマークコメントがついていた。
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母親には子供を見ていてもらいたいけどな。夫婦共働きで子供はベビーシッターやらにかかりっぱなし、またはほったらかしの家庭は不幸としか思えない。愛情の欠落した大人に育つ傾向になるのは目に見えてる。
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もう少し「母親がいることによる愛情」にも触れてほしかった。
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要するに母親の愛情を2億で売り飛ばすということですね。
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※『はてなブックマーク』「「専業主婦の子育て」は、2億円以上の機会損失!(プレジデント) - Yahoo!ニュース」より引用
http://b.hatena.ne.jp/entry/zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20100329-00000001-president-bus_all
ワーキングマザーのみなさんは、さぞかしハンカチをかみしめてキーーーーーーとなってることだろう。そして「保育園ではたくさんの先生方の愛情を受けられます!」「うちの子は楽しそうに通ってます!」「24時間べったりのせいでイライラする育児ノイローゼ気味な母親に当たられる子供の方が可哀想」と応酬するのである。
こうして地球誕生の日から繰り返されている「専業主婦 VS ワーキングマザー」の争いが、今日また全国各地で勃発(ぼっぱつ)するのである。
なぜ、この戦いに終わりが訪れないのだろうか。
それは、彼らが“子供視点”で論じているからである。乳とウンコしか頭にないような赤子が「何が幸せか」と問われて答えられるはずがない、という“保険”を元に好き勝手に語るせいだ。
彼らは口をそろえて「うちの子は幸せだ」と断言する。
そうじゃないだろう、と。貴様がそう思ってるだけだろう、と。「”私は”、保育園に通わせることが子供にとって幸せだと思っています」と言えばそれで終了なのに、何故か主語が「子供」になり、さらには聞かれてもないのに「保育園にはこんなメリットが!」と続けるため話が混乱する。また、それに対し「いいや、うちの子は母親と一緒にいる方が幸せだ」などと、またも主語を「子供」で反論し始めるためにエンドレスになるのである。“子供の幸せ”という“妄想が生み出した感情”すなわち“非実在感情”を元にした話し合いに結論なぞあるはずがない。
「子供がどう思おうが関係ない。自分がどうしたいか」で動いている、という自覚があれば、もめ事は起こらないのではなかろうか。「子供が可哀想」と言われたら「ああ、この人は保育園に子供を預けることを可哀想、と思う人なんだ」と解釈すればいいだけである。
「好きなら相手のウンコが食べられるはずだ。食えないなら愛情はない」と言われてムキになって反論する人は少ないと思う。それは食糞(しょくふん)人を別の世界の住人、そう、おとぎの国の人々、と割り切ってるからだ。自分と相容れない意見を聞いた時に、もしイラっとしたら「この人はウンコを食う人なんだ」と思えば解決である。
あと、しばしば「元来人間が動物であることを考えれば、女が子供を育てるべきである。乳をやるのはメスにしかできないこと」などと野生動物を引き合いにして批判してくるタイプがいるが、その手の人には「炊飯器で炊いた飯を食いながら、インターネットやテレビを楽しんでおいて、こと育児に関してだけ何故野生を求めるのか」と、着衣の有無など、相手が野生でないことを十分確認の上、反論すればよい。
ちなみに、自分と違うステータスの人間を否定するのは、自分が満たされてないことの表明だと思っているので、極度の見栄っ張りな私はこの戦いには参加しないようにしております。
しかし、“愛情”っていうのは自分を押し付ける便利なワードでございますね。
それを熱く語る人を見るにつけ、愛情とは「自分は相手をこんなにも想っている」という自己表現であり、“愛情”自体に意味はない。単なるパフォーマンスである、と思う。何故なら、相手もそれを“愛情”として受け止めてくれる保証がないからである。手編みのセーターが時に気持ち悪がられるのがいい例であるよ。
執筆: この記事はおろちょんさんのブログ『なんでかフラメンコ』からご寄稿いただきました。
文責: ガジェット通信
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