なぜ秀吉は、晩年最大の失策「朝鮮出兵」に踏み切ったのか。小説家の鈴木輝一郎さんは「史上空前の五十万の兵の動員・十五万の大軍を渡海させた時点で、『戦わずして朝鮮の一部は降伏して併合できる』と秀吉は考えた。過去の成功体験に固執し、現状認識を欠いているという、『老害』の典型例である」という--。

※本稿は、鈴木輝一郎『老害の戦国史』(毎日新聞出版)の一部を再編集したものです。

月岡芳年作「朝鮮征伐大評定ノ図」(大判錦絵、1877年)(画像=Fæ/Public domain images from the Los Angeles County Museum of Art/Wikimedia Commons)

■海外進出は「新規事業の開拓」だった

豊臣秀吉晩年最大の老害・失策といったら、議論の余地なく2度にわたる朝鮮出兵であろう。意外と知られていないので、ざっと復習しておく。

豊臣秀吉の朝鮮出兵、「文禄・慶長の役」とは、文禄元年(1592)から慶長3年(1598)にかけ、豊臣秀吉が明国(中国)征服を目指して朝鮮に出兵して起こした戦争である。天正20年・文禄元年(1592)、豊臣秀吉は16万の兵力を朝鮮半島に上陸させ(動員したのは50万ともいわれる)、わずか2カ月ほどで朝鮮の首都・漢城(ソウル)を陥落した。

朝鮮王は宗主国・明国に出兵を要請し、明軍は出陣、朝鮮半島を南下して日本軍を圧迫したものの戦線は膠着。文禄5年・慶長元年(1596)、和平交渉が決裂し、豊臣秀吉は慶長2年(1597)に14万を再度派兵。翌年・慶長3年(1598)、秀吉の死去にともない撤兵し、終結した。

秀吉の朝鮮出兵について、心身の健康面や判断力の低下などのアプローチもあるが、本稿では「老害による新規事業の参入と失敗」という側面に的を絞って解説してゆこう。忘れられがちだが、日本国内を統一したあとの豊臣秀吉にとって、海外進出は「新規事業の開拓」なのだ。

■秀吉はいつ朝鮮出兵を決断したのか

まず「豊臣秀吉がそもそも朝鮮に出兵しようと考えたのは、いつか」をチェックすることが重要である。現在のところ、天正12年(1584)、9月3日、左記の通り、家臣・一柳直末宛の朱印状のなかで言及されているのが初出だ。

秀吉、日本国のことは申すに及ばず、唐国まで仰せつけられ候心に候歟(や)(崔官『文禄・慶長の役』講談社)

秀吉48歳のときだ。これを大言壮語と笑うのは間違いである。秀吉はこのとき四国を制圧し、10万の大軍勢を動員して徳川家康を支配下においた状態である。心身ともに充実し、関白に任官したことによって、全国統一が現実的になってきた。「その後」を視野に入れる必要が秀吉には出てきたわけだ。

■出兵を止められなかった2つの理由

天正15年(1587)に秀吉は九州を制圧。このとき朝鮮と日本の外交を担う対馬国・宗氏が秀吉に臣従し、朝鮮側との交渉のパイプができた。

その後、天正18年(1590)に豊臣秀吉は20万におよぶ巨大な軍勢をもって関東・小田原城を攻めおとすとともに奥羽諸州の臣従に成功し、豊臣秀吉の天下統一が完成した。すなわち、数十万を超える戦国武将たちが、日本国内で、働く場がなくなった、ということだ。

写真=iStock.com/Josiah S
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Josiah S

それでは、秀吉はいつ正式決定したか。秀吉は天正19年(1591)8月23日、「唐入り(明出兵)」を発表した。このとき秀吉には朝鮮半島の攻略は念頭にない。豊臣秀吉の朝鮮出兵を「秀吉最大の愚行」と断じるのはたやすい。しかし重要なことが忘れられている。「なぜ誰も秀吉の朝鮮出兵を止められなかったのか」である。

考えられるのはおもに二つ。その一。若い世代が望んでいた。その二。秀吉の先見性への期待が過大過ぎた。

■「勝ち取る土地がなくなる」未曾有の事態

「若い世代が望んでいたから」という事情について秀吉の老害にするのは酷なように見える。しかし考えかたをかえて見てみよう。「時代が変化したことを、秀吉は理解できなかった。そして若い世代を納得させられなかった」ことが老害である。

戦国時代の合戦は、ほとんどが経済行為である。現代でいうM&Aで、敵対する勢力と競合し、勝利し、吸収合併して経営権を奪う。現代の企業合併と異なるのは、奪取の対象が「企業」ではなく「土地」だということだ。織田信長が地方の豪族から出発して尾張・美濃や畿内を併合したときとは、決定的に異なる事情がある。経済基盤を「土地」にした場合、それは有限だということだ。「勝ち取る土地がなくなる」とは、戦国武将のほとんどが想像していなかった。

■戦国経済をどう終着させるか

『老害の戦国史』の秀吉の後継者の項で、蒲生氏郷が「徳川家康は秀吉の後継者にはなれない。ケチだからだ」と語ったという『東照宮御実紀』の部分を紹介した。この項目には続きがある。

氏郷は元来豊臣・織田の奢侈をみてきて「天下の主はこのようなもの」と思い誤り、家康公の倹素こそ天運が属することを理解できなかった。氏郷ほどの傑出した人物でさえ、時代の流弊になじんでしまい、その思惟の及ばないとは、なさけないことである。

ずいぶんな言われようだが、これは後世からみた結果論にすぎない。

この蒲生氏郷のエピソードは「あいつぐ戦争好況で成長を続けた戦国経済について、その終着点や収束方法は、蒲生氏郷ほどの慧眼を以てしてもわからなかった」と解釈するのが妥当なところである。

■若い世代の武将に与える土地がない

天正19年(1591)秀吉の朝鮮出兵の前線指揮を執ったのは、加藤清正(30歳)、小西行長(年齢不詳・加藤清正と同世代)、黒田長政(24歳)など、多くが「秀吉直属の武将」「若い世代」であることだ。秀吉は毛利輝元や徳川家康などの新参の大名には手厚いが、直属の若い世代に対しては、その功績の割に褒賞を与えきれていない。新参を懐柔するために領地を与えすぎ、直属の若い世代に与える領地が枯渇していたからである。

「秀吉の先見性への期待が過大過ぎた」ことについて、いちばんの理由は、秀吉自身の奇跡といっていい経歴にある。生父の素性さえわからない卑賤の身の上(どの程度「卑賤」だったのかさえわからない身分である)から織田信長の雑人となり、身ひとつで頭角を現して主家をしのぎ、戦国で誰もなし得なかった国内統一を成し遂げ、実力だけで関白になりあがったのだ。「豊臣秀吉に不可能はない」と言って、反論できる者はいない。

■進軍先の朝鮮半島に関する知識がほぼ皆無

それはそれとして、秀吉本人についても、大きな問題がある。先に書いておくと、「秀吉本人に認知症の症状があった」という論考がかつてはあったが、事情はそこまで単純ではない。認知症で正常な判断ができなければ、いかに秀吉であろうと周囲が放置しないのが戦国時代であることを、忘れてはならない。

秀吉側の問題について、考えられるのは大きく以下のふたつ。

その一、秀吉の現状認識の欠如。

その二、秀吉の能力の限界。

その一、秀吉の現状認識の欠如について。最も致命的といっていいことは、進軍先の朝鮮半島に関する知識が、秀吉にはほぼ皆無だったことがあげられる。秀吉の朝鮮半島についての知識の程度については岡谷繁実『名将言行録』に詳しい。

秀吉は朝鮮八道(李氏朝鮮による八つの行政区分。京畿・忠清・慶尚・全羅など)の名を記憶できなかった。画工に命じて朝鮮半島の地図を屏風に描かせ、色で八道を区別した。「朝鮮半島を制圧すればこの色図を諸将に送り、それぞれ『赤国・青国・白国』と呼べば通じるではないか」と言った。

にわかには信じがたい話ではある。侵略先の兵力を知らず、地理を把握しない状態で出兵したことは、粗雑以外の何ものでもない。

■「小田原出兵は成功した」という成功体験

秀吉は小田原出兵時におよそ二十万の兵力を動員して包囲した。重要なのはこの巨大な軍を動員することで、関東以北の奥羽諸将を、戦わずして臣従させたことだ。豊臣秀吉が史上空前の五十万の兵の動員・十五万の大軍を渡海させた時点で、「何もせずとも兵を見せるだけで、とりあえず戦わずして朝鮮の一部は降伏して併合できる」と考えたのは無理からぬことだが、これは「過去の成功体験に固執し、現状認識を欠いている」という、「老害」の典型例である。

慶長の役における蔚山城の戦い(1597)で、明・朝鮮連合軍に包囲され苦戦する加藤清正軍を描いた「蔚山城合戦図屏風」(部分、福岡市立博物館所蔵)(画像=ブレイズマン/PD-Japan/Wikimedia Commons)

秀吉が現状認識について大きく欠如していたのは、朝鮮半島と日本との政治システムの違いもある。忘れられがちだが、戦国時代の日本は「徹底した地方分権」で、それぞれの地域(九州とか四国とか関東とか奥羽とか)の領主の判断で「誰に服属するか」が決められた。この時代、朝鮮半島は李氏朝鮮王朝によって中央集権が完成していた。つまりどこを占領しようが、中央政府の許可がないと秀吉に降伏できず、地域の支配権も渡せないのだ。

その結果、秀吉の指揮する日本軍はソウルまで進軍して朝鮮王の身柄を拘束することを目指して失敗し、戦線の膠着を招く。

■現実的な実利しか理解できなかった

その2、秀吉の能力の限界について。豊臣秀吉がとてつもなく有能なことは議論の余地がない。ただし決定的な限界があった。それは「現実的な実利しか理解できず、象徴的な報酬や行動を理解できない」ことにある。

徳川の公式記録『東照宮御実紀』に次の記述がある。

徳川家康が秀吉に臣従したあとのこと。関白(秀吉)があるとき、家康公をはじめとして毛利・宇喜多などの諸大名を集めたとき、「わしの宝物は虚堂智愚(きどうちぐ・中国南宋時代の禅僧)の墨跡、粟田口の太刀などなどがある。おのおのが大切に思う宝は何があるか」とたずねた。
毛利や宇喜多はそれぞれ所持している宝物を挙げたが、家康公は黙っていた。秀吉がさらに尋ねると、家康公がこたえた。
「それがしは、よく知られている通り三河の片田舎に生まれた身ゆえ、貴重な書画や調度品を蓄えることはできませんでした。ただ、それがしのためには命を惜しまず水や火の中に飛び込む者五百騎を身の回りに置いておりまする。これこそ家康にとっての第一の宝と考えておりまする」
この答えに関白はいささか恥じらう様子をみせ、「そのような宝は、余も欲しいものなり」と言った。

ここで重要なことは、秀吉が真っ先に思い浮かべた(雑談でそんな話題を振ることがそもそもいかがなものかと思うが)「宝物」が「名誉」とか「名前」などではなく、本当に即物的な「宝物」であることだ。

「象徴的な褒賞」は現代でもよくあることだ。「係長になったら会社の椅子に肘掛けがつく」などの身近なものを思い出してほしい。「それ自体に資産価値はないが、権威ある者から認められた印」は、本人にとって重要な価値がある。秀吉は人間的魅力がクローズアップされがちだが、その人望は資金のばらまきという現実的な利益の裏づけがあったからこそのものだ。

■家臣団に見捨てられる恐怖

徳川家康は吝嗇で家臣団にはさしたる実利を与えないのに家臣団は家康に忠誠を誓い、家康はそれを価値と考えた。秀吉の家臣団は秀吉の何に惹かれて秀吉に従ったか?

鈴木輝一郎『老害の戦国史』(毎日新聞出版)

 家臣団がどう考えたかは別にして、少なくとも秀吉自身は「自分が家臣団に現実的利益をもたらすから家臣団は自分に従っている」という価値観であったことがわかる。これは別の言い方をすれば「現実的な利益を家臣団に与えられなければ、自分は家臣団に見捨てられる恐怖と隣りあわせ」だったのだ。

豊臣秀吉の朝鮮出兵は戦国史どころか、日本史上空前の老害ではある。ただしここまで大規模になると、個人的な老害に、複雑な要素がからんでくる。

しかし「豊臣秀吉の朝鮮出兵」と、ひとことでくくられるように、老害本人がすべての責任を負うことになる。

『老害の世界史』で繰り返し書いているように、老害は気づかぬうちになっている。老害になることは、それまでどんな功績があろうとも、帳消しにしてしまう危険をはらんでいるのだ。

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鈴木 輝一郎(すずき・きいちろう)
小説家
1960年岐阜県生まれ。1991年近未来小説『情断!』でデビュー。高齢化社会を描いたミステリ『めんどうみてあげるね 新宿職安前託老所』で第47回日本推理作家協会賞を受賞。『家康の選択』『光秀の選択』『本願寺顕如』『国書偽造』など著書多数。日本推理作家協会・日本文藝家協会会員。
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(小説家 鈴木 輝一郎)