中日・涌井秀章「覚悟を決めた松坂大輔の言葉」新人から22年連続勝利!

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納得するまで走り込み

「楽に投げるのを止めようと思ったんです。人間、楽をするとどんどん悪いほうへ行ってしまう。身体全体を使って、最後はフラフラになりながら投げました」

中日・涌井秀章(わくいひであき・40)が、史上3人目の偉業を達成した試合を振り返る。涌井は7月11日の広島戦に先発し、6回1失点で今季初白星。新人の年から22年連続勝利は、元阪急の米田哲也やヤクルトの石川雅規に次ぐ快挙だ。涌井が続ける。

「僕にとって理想は、高校時代(神奈川・横浜高)のフォームなんです。左足を高く上げ、体重を乗せた下半身にパワーを溜(た)める……。40歳になって10代の時と同じ力感のフォームでは投げられませんが、少しでも理想に近づきたい。そのために自分を追い込んでいます。楽をしてはいけない。今でも若い頃と同じ練習量で、納得するまでとことん走り込み下半身を鍛(きた)えているんです」

涌井は横浜高時代から注目の投手だった。キレのある速球と多彩な変化球で、高校2年春から甲子園や国体などの大舞台で活躍。同高の偉大な先輩「松坂大輔2世」と呼ばれた。だが、ドラフト1巡目指名を受けて’05年に西武へ入団してから、容易に22年間白星を積み重ねられたわけではない。野球エリートも、逆境を経験し人知れず悔しさを味わってきた。

「入団1年目のオープン戦は調子が良くて、開幕一軍入りができました。しかしシーズンに入ると『勝ちたい』という意識が強くなり、オープン戦の時のような攻めの投球ができなくなってしまったんです。味方がリードすると『この点差を大切にしよう』と、守りの気持ちが強くなってしまった。自然と、かわすような投球になっていたと思います」

1年目は一軍と二軍を行き来し、1勝6敗、防御率7.32という期待を裏切る成績。渡辺久信・二軍監督(当時)からは、こう苦言を呈(てい)された。

「抜くピッチングは若い時にやることじゃない。そういうスタイルだと5~6年で終わっちゃうよ」

涌井は危機感を抱く。

「このままではプロで生きていけないと強く感じました。当時からですね。徹底的に走り込むようになったのは。1年目のオフには、初心に戻るために母校・横浜高のグラウンドで一日も休まず黙々と走り続けたんです」

「先発として完投しろ」

休みなく走ったおかげで、涌井の下半身は見違えるように大きくなる。本人は「走り込みと関係ないですよ」と否定するが、前年に買ったジーンズの膝が座った瞬間に破れるという逸話まであるのだ。

下半身を鍛え直した涌井は、2年目の’06年に12勝8敗、’07年には17勝10敗の好成績で初の最多勝のタイトルを獲得する。西武の大黒柱だった″怪物″松坂大輔から、その後の投球の原点となる言葉をもらったのはこの頃のことだ。

「松坂さんが、’07年からメジャーに挑戦する直前のことです。食事をしながら、こう言われました。『来年からチームを引っ張るのはワクだ。先発として完投しろ』と。マウンドを任されたからには、責任を持って最後まで投げ抜く……。松坂さんの言葉で覚悟を決めました」

先発完投--。昨年までの涌井の完投数は現役最多の60を誇る。先発、中継ぎ、抑えと投手の分業が当たり前となった現代では、注目すべき数字だ。徹底的な走り込みで培(つちか)ったスタミナの賜物(たまもの)だろう。

最多勝を獲った’07年のオフ、涌井はそれまでの背番号16からエースナンバーである18への変更を打診される。しかし、涌井は辞退した。

「入団以来つけていた16への愛着があったのは確かです。でも、それ以上に自分はまだ18という背番号に見合った投手ではないという思いがありました。すべての投手タイトルを獲るぐらいでないと、エースナンバーは受けられないと」

さらなる転機は入団5年目に訪れた。’09年2月、涌井は第2回WBCの侍ジャパンのメンバーに選ばれる。

「’08年には北京五輪の日本代表にも選ばれていたので、国際大会で活躍できる自信はあったんですが……。先発三本柱は松坂(大輔)さん、岩隈(久志)さん、ダルビッシュ(有)で盤石でした。結局、僕に先発の機会はなかったんです。

悔しかったですね。なぜ自分は国際舞台で先発を任せてもらえないのか、3人の投手と何が違うのか、とことん考えました。松坂さんやダルのような外国のパワーヒッターを抑え込めるほどの力強いボールは、僕には投げられません。勉強になったのは攻めのピッチングです。3人は、死球を恐れず厳しいコースをどんどん攻めていた。僕も、より攻めのピッチングをしようと誓ったんです」

WBC後の’09年のシーズン、涌井は16勝6敗の成績で’07年以来2度目の最多勝を獲得する。投球回数はそれぞれ213回と211回2/と、両年でほとんど変わりはない。しかし、内容は大きく違った。

・’07年:奪三振141、与四死球58

・’09年:奪三振199、与四死球85

’07年から奪三振が58、与四死球は27も増えている。打たせてとるのではなく、厳しいコースを狙い攻めのピッチングをしていた証拠といえるだろう。

『FRIDAY』2026年9月25日号より