53歳で興した千賀ノ浦部屋 舛ノ山・舛東欧・舛名大と個性あふれる力士を育て今はかつての愛弟子・隆の勝が勝てば“LINEで鼓舞”も 石川出身力士は「大森」推し 元関脇・舛田山の舛田茂さん③

石川県七尾市出身の元関脇・舛田山(本名・舛田茂)。
突き押し、そしてはたきなどの引き技を現役晩年は得意とし、土俵を務めてきたが、1989年(平成元年)の名古屋場所を最後に引退した。
年寄・千賀ノ浦を襲名し、はじめは春日野部屋付きの親方に。そして、53歳のときに独立して千賀ノ浦部屋を興した。
舛田茂さん(元関脇・舛田山)「好きなことやろうと思って。部屋を興してから、新弟子を集めるの大変。」
2004年(平成14年)に新興部屋としてスタートした千賀ノ浦部屋だが、師匠として意外なところで苦労をしてきた。地方場所での宿舎探しだ。
舛田茂さん(元関脇・舛田山)「宿舎がね、なかなか決まらないんですよ。地方場所の宿舎が。それはもう数当たるしかないんですよ。僕なんか意外と運がいい方。福岡も朝潮が使ってたところ。朝潮(元大関。以前は若松親方)が独立して高砂になって、そこが空いてたから、じゃあ使ってよということで使ったんです。大阪はね、七尾商業高校の同級生、お寺の子が嫁に行ってるお寺を借りて。」
部屋経営の楽しさも苦しさも味わいながら歩んできた、「部屋持ち親方」としての生活。
地元石川県出身の力士や、ハンガリー出身の舛東欧、名古屋大学出身の舛名大など数々の力士を育ててきた。
舛田さんは、この7月まで長期入院をしていたが、退院後は引退したかつての弟子が集まったということで、今もそのつながりをうれしく思っている。
舛田茂さん(元関脇・舛田山)「1週間か2週間前かな、俺の退院祝いでみんな寄って。(舛名大も)名古屋から来ててさ。退院祝いで、じゃあ食事会やろうといって。舛東欧も来たし。集めやすい連中ばっかり集めてやったんじゃないですか。」
フィリピンで苦労 初の関取・舛ノ山は思い出の力士のひとりそして、2010年(平成22年)には舛ノ山が十両に上がり、部屋から待望の関取が誕生することになる。
舛田茂さん(元関脇・舛田山)「やっぱり舛ノ山が初めて上がった時かな、十両に。その時は楽しかったね。楽しいというか、うれしかったね。お母さんがフィリピンの方。(親の離婚で)中学3年のときフィリピンで過ごしているわけ、1年間。で、連絡が取れてそれで連れてきてお相撲さんになった。そんな事情もあったのでやっぱうれしかったですね。向こう、フィリピンで苦労したと思う。」
角界を離れて5年 今も活躍する愛弟子・隆の勝の活躍にLINEもそして、部屋の師匠としては65歳で終わりを迎えたが、千賀ノ浦部屋を引き継ぐにあたり声をかけたのが、元小結・隆三杉の常盤山親方だった。その後、再雇用の5年間は千賀ノ浦と名前を交換し、常盤山親方として部屋付きで指導にあたった。
舛田茂さん(元関脇・舛田山)「(常盤山親方は)名古屋場所の担当で一緒だったんですよ。名古屋で仕事仲間だったんですよ。それで、じゃあ人も良かったしって言ったんだけど。辞めるときは千賀ノ浦にして辞めたんですよ。」
舛田さんは、角界を離れて5年あまりになるが、現在幕内で活躍する隆の勝も、もともとは舛田山の千賀ノ浦親方の弟子だった。
舛田茂さん(元関脇・舛田山)「一番気になりますよ。たまに相撲見ると、LINEでね、ちょっと腰があれだとか、足の幅が狭くなってきてるとか言うんですけどね。たまにね、勝ったときは言うんですよ。負けたときは誰もあんまり言われたくないもん。俺も言われたくなきゃ、あいつも言われたくないだろう。前半負けが込むと、今場所大負けするかなあと思って、6勝9敗ぐらいで終わったり。前半えらい調子いいなあと思うとさ、終わってみればさ、9勝6敗だったとかね、もう一番勝っとけば三賞もらえたのになんてさ、冗談言うんだけどね。」
同じ石川県出身力士 気になるのは「いい体で、筋肉質」 幕下の大森石川県出身の元力士として、郷土力士の動向も気になるようだ。
舛田茂さん(元関脇・舛田山)「大の里だね。でも僕から見ると、大きいけども胸出してくるから、おそらく相手は当たりやすいと思うよ、思い切って。あれがもうちょっと、右四つだから、右肩からでもガーンと行くようになればいいけど、勝ち負けは別として対戦相手はあんまり嫌がらないと思いますよ。」
学生相撲出身ということもあってか、石川の学士力士への期待は大きく、“第二の遠藤”を理想に挙げる。
舛田茂さん(元関脇・舛田山)「遠藤みたいな感じで、もうちょっと上、横綱、大関行く人が出てくればね。申し分ないとこだけどね。ああいうので、横綱、大関ね。姿も良くて。」
それなら、石川県穴水町出身の幕下・大森は?と水を向けると、「我が意を得たり」といった様子で期待を込めた。
舛田茂さん(元関脇・舛田山)「(大森は)いい体で、筋肉質で。相撲っぷりもなんか左一本とかなんか言ってたね。ああいうのをうまく育てりゃいいんじゃないですか。大学に行って、野球のピッチャーじゃないけどそんなに投げてないだろうから、疲れてないだろうから、いいかもわからない」
学生横綱を逃した一番をきっかけに、その後結果的には47年間角界で生きてきた舛田さん。かつての愛弟子と郷土力士への熱いまなざしはこれからも向けられることになる。
