「アディダスのパチモンや」「こんな靴、履きたくない」アスリートから“酷評”されたアシックスは、いかにして「伝説のシューズ」を生み出したのか
自社シューズを着用した選手が数多くのメダルを獲得し、東京五輪で躍進を遂げたオニツカ(アシックスの前身)だったが、選手たちから「アディダスの模造品」という屈辱的な批判に晒されていた。そこで創業者の鬼塚喜八郎は、オニツカらしいシューズを開発するために大号令を発した。
【画像】「アディダスのパチモンや」と呼ばれた屈辱を晴らした「伝説のシューズ」とは?
「地球上に存在するすべての靴を調べろ」
ここから、アシックスの代名詞となった「メキシコライン(現アシックスストライプ)」が生まれていく--。財部誠一氏の新著『敗れてもまた走れ アシックス創業者 鬼塚喜八郎の情熱「オニツカタイガー」を創った「靴の鬼才」はなぜ世界と戦い続けたか』(NewsPicksパブリッシング)から一部抜粋してお届けする。

アシックスはオニツカを含む3社の対等合併により、1977年に誕生した(写真提供:ASICS)
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選手だけでなく、アディダスからも「クレーム」が
1966(昭和41)年の春。シューズの開発担当者である林は、神戸市立王子陸上競技場の貴賓室から400メートルトラックを見下ろしていた。ここは、もともと王子神社があったところだ。
1956(昭和31)年、初めて兵庫県で国体(現・国民スポーツ大会)が開催されるのに合わせて王子神社は灘区の原田通りに遷座したが、競技場にはその名称が残された。林がいる貴賓室は、100メートルレースが行なわれるホームストレッチ側の観客席の中段にある。ここからは、400メートルトラック全体を見渡せる。だが、林が目を凝らしている先はバックストレッチの直線だった。400メートルリレーの第2走者が走るところだ。
無観客の競技場は静まりかえり、テストランをしてもらっている神戸製鋼の陸上選手の足音がかすかに聞こえてくるだけだった。新しいシューズにつけるオリジナルストライプが遠くからでも見えるかどうか、それをランナーに実際に走ってもらい、検証していたのである。
「これで、いいんちゃうか。誰がどう見てもケチのつけようのないオリジナルストライプや」
なぜ、こんな実証試験をやらねばならなかったのか。東京オリンピックでオニツカは大きな躍進を遂げたが、オニツカを信頼して採用したトップアスリートたちから、ある不平不満が聞こえてきたのだ。
「あれじゃ、アディダスの模造品だ。みっともないったらありゃしない」
「アディダスに間違われるようなシューズは履きたくない」
関西でいうところの“パチモン”扱いである。オニツカにとっては心外な話だが、“パチモン”騒ぎはアスリートたちの不平不満にとどまらなかった。なんと本家本元、アディダスの顧問弁護士からも問い合わせが届く事態へと発展してしまった。
「オニツカタイガーのシューズは、アディダスの象徴である“三本線”そっくりに見える」
アディダスの「言いがかり」とは?
もちろん、オニツカ社内では猛反発が巻き上がった。
「難癖だ。天下のアディダスが、そんな滅茶苦茶なことをいってくるのか」
当のストライプを発案した林はアスリートたちに悪印象を与えたことを反省したが、アディダスから抗議を受けるような法的問題などないと確信していた。
「東京オリンピック当時、オニツカのマークは極太と細い線の2本でした。太い線の上半分は白抜き。アディダスの弁護士は白いところが3本線に見えるというんですが、それはありえません。しかし、肝心の選手の口からもアディダスのまがい物みたいなシューズは嫌だという声が出ていましたから、これを機に、世界のどこにもないとびきりのオリジナルのストライプのマークをつくれ、と社長が大号令をかけたんです」
やるとなったら、喜八郎は徹底的にやる。
「模造品といわれるのは屈辱だ。どこのシューズにも絶対に似てはいかん。まずは調査だ。スポーツシューズに限定するな。一般履きも含め、地球上に存在するすべてのシューズのデザインを調べ上げろ」
開発部員総出でカタログを集めたり、新聞広告を調べたり、あの手この手で調査を尽くしたうえで、林は喜八郎に伝えた。
「ラインを使ったデザインのシューズは、世界に320種類ほどありました」
工業所有権の問題をクリアすることは当たり前だが、それ以上に喜八郎が重視したのは、ひと目でオニツカとわかるような印象的なデザインをつくり出すことだった。開催国の地の利を得てオニツカは東京オリンピックで躍進したとはいえ、メダリストの多くはまだアディダスかプーマのシューズを履いていた。
〈「オニツカなんて知らない」アシックスが“社運を賭けたプロジェクト”で直面した「残酷な現実」〉へ続く
(財部 誠一/Webオリジナル(外部転載))
