大河『豊臣兄弟!』柴田勝家と市は本当に「手をつないで飛び降りた」のか、史料が伝える北庄城の壮絶な最期

柴田勝家の墓(福井市の西光寺、写真:GYRO_PHOTOGRAPHY/イメージマート)
2026年のNHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』は、豊臣秀吉の弟・豊臣秀長にスポットライトが当てられ、そのユニークな視点で話題を呼んでいる。天下人となる秀吉(演:池松壮亮)を、秀長(演:仲野太賀)は右腕としていかに支えたのだろうか。第33回「北庄城の別れ」では、賤ヶ岳の戦いで敗れて北庄城に退いた柴田勝家に対して、秀長は降伏を促すべきだと秀吉に進言する。だが、秀吉は「勝家が降伏するなどあり得ない」とし、前田利家に先鋒を命じて……。今回の放送の見どころについて、『戦国最高のNo.2 豊臣秀長の人生と絆』の著者・真山知幸氏が解説する。(JBpress編集部)
「最期」をどう描くか、中川清秀を巡り広がった波紋
前回の記事【『豊臣兄弟!』賤ヶ岳の戦いで柴田勝家についた3人の運命、ドラマで「裏切り者」とされた中川清秀の意外な史実】で、羽柴秀吉方として戦った中川清秀について、ドラマでの描かれ方と実像とのギャップについて書いた。
放送後、SNSでは史実との相違を指摘する声が上がり、8月28日には大分県竹田市と大阪府茨木市が連名で、中川清秀の描写についてNHKに意見書を送るという事態にまで発展した。
茨木市立文化財資料館(大阪府茨木市)は、問題となる放送の前から第42回テーマ展「茨木城主中川清秀」を告知。9月19日~12月14日の開催予定となっている。また、竹田市歴史文化館・由学館は、今回のドラマでの描写を受けて、「戦国の猛将・中川清秀─賤ケ岳合戦の真実─」と題した展示を同館で緊急開催することとなった。
これを機に中川清秀をもっと知りたいという人もいることだろう。お近くの方はぜひ足を運んでいただきたいが、これほどの反発を受けたのは、人生の最期を描いたシーンだったということも大きいように思う。
以前『おしまい図鑑』(笠間書院)という本で、偉人たちの最期をまとめたことがあった。つくづく思うのが「どんな最期を迎えるか」という死にざまは「これまでどう生きてきたか」という生きざまの集大成でもあるということだ。
ドラマ上の脚色で「ちょっとこれは……」という人物描写があったとしても、それが生涯の途中ならば名誉挽回のしようもあるだろう。その後のストーリーの運び方によっては、人物の魅力をより伝える見せ場となる可能性もあるかもしれない。
だが、今回の場合で言うならば、中川清秀の最期を「秀吉を裏切って惨殺された」としてしまえば、清秀が生涯を通じて築いてきた評価まで否定されたように感じても無理はないだろう。
そういう意味では、今回の放送でも、やはり「最期の描き方」が物議をかもすことになった。
織田家を支えてきた重臣の柴田勝家と、その妻で信長の妹でもある市の最期が、どうにも納得いかない--。そんな声がSNSを中心に上がっているのだ。
市はなぜ北庄城を去らなかったのか、浅井長政との別れの悔い
今回の放送は「北庄城の別れ」というタイトル通りに「賤ヶ岳の戦い」で秀吉勢に敗れた柴田勝家勢が、市のいる北庄城に帰還するところから物語がスタートした。
ドラマでは「よくぞご無事で」と城で勝家を迎えた市に、勝家は「そなたはすぐにここを離れよ!」と言うも、市は「お腹は減っておりませぬか」と動じず、勝家に膳を差し出した。
「すぐに羽柴の者どもが来よう。今はこのようなことをしておる時では……」と困惑した勝家だったが、市が「せっかく作ったのに」とすねると、おとなしく食事をし始めた。
侍女たちはすでに城から逃がしているため、料理は市が作ったという。その味はイマイチだったようだ。感想を聞かれた勝家が「おいしゅうござる」と言うと、市は「相変わらず嘘が下手じゃな」と笑い、「そこがあなた様のよいところです」と続けている。
当初は、信長の妹ということで、妻として娶ってからも何かと恐縮しがちだった勝家。今やすっかり仲むつまじい夫婦になったことが、この食事のシーンからはよく伝わってきた。見る者をほっこりさせながらも、このあとの2人の運命を思うと切ない……そんな場面となった。
その後「逃げよ、お市」という勝家に、市が「私はよき夫に恵まれました。もう十分でございます。私もともに逝きます」と応じて、2人は最期をともにすることとなった。
『渓心院文』(けいしんいんぶん)は、市の次女・初(常高院)の周辺に伝わった回想・伝承を記した、江戸時代前期成立の史料である。黒田基樹氏が『お市の方の生涯』(朝日新書)で、その内容を紹介している。
それによると、勝家から「3人の娘と北庄城から退去するように」と勧められたが、市は拒否。その理由としてこう述べたという。
〈あざい殿時分出させられさえ御くやしく候に、何とて御出あるべきや〉
(浅井長政様のときでさえ、生き延びて城を出されてしまったことが今でも悔しくてならないのに、どうして再び逃げ出すことができましょうか)
元夫の浅井長政が自死するときも、小谷城から出されて悔しい思いをした市。二度と同じ後悔をしたくないという。実際にも、ドラマであったように、勝家が逃亡を促しても、市が拒絶して「ご一緒したい」と固辞した可能性はありそうだ。
「飛び降り」ではなかった?『柴田退治記』が伝える勝家の最期
その後、2人はどのような最期を遂げたのか。ドラマでは、部屋で2人になると、市が先に自刃しようとしたところ、寸前のところで勝家が制止。勝家が「やはり、そなたを死なせることはできん。今一度、抗いましょう。この勝家が最後までお守りいたしまする」と市の手をとると、2人で部屋から出て走り出した。
だが、羽柴勢の追っ手が城内にまで押しかけてきて、いよいよ追い詰められた勝家と市。追っ手をかろうじて撃退しながら、城の天守の上まで駆け上ると、勝家は刀を捨てる。
追っ手の秀長らに「よう見ておけ。これが戦じゃ」と言って、互いに視線を交わすと、2人で一緒に城の天守から身を投げる--。ドラマでは、そんな2人の最期が描かれることになった。
「切腹」ではなくまさかの「飛び降り」に、時代背景をふまえてもそぐわないのでは、と違和感を指摘する声がネットでは相次いだ。
史料をひもといてみると、勝家の最期を伝えるのは、秀吉の右筆・大村由己(おおむら ゆうこ)が天正11(1583)年11月にまとめた『柴田退治記』である。落城からわずか半年余りで成立しており、時間的には最も同時代に近い史料といえる。
『柴田退治記』によると、市のほか妾12人、女房30余人が「今このときが最期」と覚悟して、涙を流しながら念仏を唱えたという。
そして、ついに勝家が動く。「思ひ切りて引き寄せ引き伏せ、一々差し殺す」とあるように、その場にいた女性たちを一人ずつ手にかけたという。その後の勝家の最期は、さらにすさまじいものだった。
〈勝家が腹の切り様を見よとて、左手の脇に差し立て、右手の背骨に引き著け、返す刀にて心の下より臍の下にいたるまで、たちきって、五臓六腑を掻き出し、文荷を呼びて、首を打て、と請ふ〉
(勝家は、わが腹の切りようを見よ、と言うと、左脇に刀を突き立て、右脇腹から背骨にかけて引き回し、刀を返してみぞおちの下から臍下まで長く切り裂き、五臓六腑を掻き出した。そして文荷を呼び、首を打て、と求めた)
その後、残った80人余りの家臣たちも自ら命を絶ったという。
しかし、『柴田退治記』の著者である由己は秀吉の御伽衆(おとぎしゅう)であり、この書は『天正記』と総称される秀吉の事績を記した軍記群の一編に当たる。つまり、信長亡きあとの後継者争いの中で、秀吉が柴田勝家らとの対立を制していく過程を描いたものが、『柴田退治記』ということになる。
勝家の最期が凄惨で壮絶であるほど、それを討ち果たした秀吉の武功が引き立つ。また、勝家側にも、武士らしく死んだ様を残したいという意図があったようだ。
小和田哲男氏の『秀吉の天下統一戦争』(吉川弘文館)では、ルイス・フロイスの書簡を読み解いたうえで〈勝家は、いかに自分たちが武士らしく死んだかを秀吉側に伝えるべく、最期の場面を目撃した語り部を用意していた〉とし、勝家側が意図的に証言者を残したと解説している。
『柴田退治記』は同時代の史料だけに、そんな証言者の影響を受けている可能性は高い。秀吉側の意図と勝家側の意図を踏まえると、その記述には誇張が含まれていると考えるのが自然だろう。
「腹の切り様を見よ」秀吉の書状が伝える勝家の最期
その一方で、天正11(1583)年5月15日に秀吉が小早川隆景に送った書状(毛利家文書)にも、勝家の壮絶な最期が記されている。

(東京帝国大学文学部史料編纂所編、東京帝国大学/国会図書館デジタルコレクション)
文書に〈天主の九重目の上へ罷上り、惣人数に詞を懸け、修理が腹の切り様見申して後学に仕り候へと申付けて〉とあるように、勝家は北庄城天守の九重目の上にまでのぼると、城外の羽柴軍に「自らの切腹を後学のために見ておけ!」と声をあげたという。
見守る侍たちがみな涙を流して静まり返る中、勝家はこんな最期を遂げたと秀吉は書状に記している。
〈修理妻子共其外一類刺し違ひ、八十余身替らざる者切腹し、申下刻に相果て 候事〉
(勝家は妻子やそのほかの者たちと刺し違え、80余りの者も切腹し、申の下刻に果てた)
ただし、秀吉は書状にはたびたび事実とは異なる大言壮語が見られるので、この内容が真実そのものとは限らない。
とはいえ、『柴田退治記』と秀吉の書状はいずれも、勝家が市らを手にかけたのちに自害し、家臣たちも相次いで命を絶ったという大筋では一致している。細部には誇張や脚色が含まれている可能性があるとしても、少なくとも勝家の最期がこのように伝えられていたことは確かだろう。
フロイスも「切腹」と記録、ドラマの演出に残る違和感
勝家の最期については、イエズス会宣教師ルイス・フロイスも『日本史』で、次のように書いている。
〈越前国の主君である柴田(勝家)殿と一戦を交えて彼を滅ぼし、五、六千名の兵を殺した。柴田自身は城に立て籠り、放火させ、城中の家臣たちとともに切腹して果てたのである〉(ルイス・フロイス完訳『フロイス日本史』より)
勝家が切腹で果てた可能性は高そうだが、『豊臣兄弟!』では、これまでの物語のトーンを考えて、「勝家が市を殺す」というシーンを避けるため、あのような描写にしたのかもしれない。
また、今回の大河ドラマは、信長が壮絶な最期を遂げる「本能寺の変」の描写が期待以上のものだと評判を呼んだ。ほとんど間を置かずこのタイミングで、またもや燃えさかる炎の中で、壮絶な最期を描くのは変化に乏しい、と意外性を演出した可能性も考えられそうだ。
しかし、勝家と市が手をつなぎ、ともに飛び降りるという演出には、どこか現代的なロマンチシズムが感じられる。少なくとも、ここまで見てきた史料が伝える勝家の最期とは大きく異なり、筆者としても違和感を拭えなかった。
史料に残るような、勝家らしい壮絶な切腹を描くという選択肢もあっただろう。それが映像表現として難しいのであれば、2人がともに走り去るところで場面を閉じ、その後の最期をナレーションで伝える方法もあったのではないだろうか。
……と、つい注文をつけたくなるのも、山口馬木也演じる柴田勝家が、それだけ強烈な存在感を放っていたからこそ。次回から「鬼柴田」の姿を見られなくなるのは寂しい限りだ。一方、秀吉が天下人へと近づくにつれ、物語の焦点は藤堂高虎をはじめとする秀長の家臣たちにも広がっていくことだろう。
次回「最強のライバル」では、秀吉が権威の象徴として大坂城を築城する。諸国の有力大名が城に挨拶に訪れる中で、家康だけは姿を現さない。その頃、織田信雄は家康に接近し、秀吉を倒そうと持ちかける。
【参考文献】
『お市の方の生涯 「天下一の美人」と娘たちの知られざる政治権力の実像』(黒田基樹著、朝日新書)
『柴田退治記』(大村由己著、塙保己一編『新校群書類従 第17巻』〈内外書籍〉に収載)
『大日本古文書 家わけ八ノ三 毛利家文書之三』(東京帝国大学文学部史料編纂所編、東京帝国大学)
『秀吉の天下統一戦争』(小和田哲男著、吉川弘文館)
『完訳フロイス日本史(全12巻合本)』(ルイス・フロイス著、松田毅一・川崎桃太訳、中央公論新社)
『豊臣秀吉』(藤井讓治著、ミネルヴァ書房)
『柴田勝家 織田軍の「総司令官」』(和田裕弘著、中公新書)
『信長と消えた家臣たち 失脚・粛清・謀反』(谷口克広著、中公新書)
筆者:真山 知幸
