東大卒・元外銀勤務の若者が刺しゅうの世界へ。月90万円を捨て口座残高が2000円台になってもミシンの前に座ることで得た「仕事の手応え」

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さまざまな仕事がAIに代替されるかもしれない時代の中、「自分だから選ばれる仕事」を見つけ出し、手応えを得ている一人の若者がいる。

東京大学経済学部を卒業後、外資系投資銀行に入社するも、わずか9か月でその生活を手放し、刺しゅうの世界へ飛び込んだ田中優輝さんだ。

家賃7万円の四畳半、ミシン一台、口座残高2158円からの挑戦は、今ではインスタグラム約17万人の「北区の刺しゅう屋」として成長。

一針一針時間をかけて縫う刺しゅうを作り上げる時間は充実したものだったが、一方で住民税と口座残高に苦しむこともあった。

著書『東大卒、年収1100万をやめて刺しゅうをはじめたワケ』(世界文化社)から一部抜粋・再編集して紹介する。

フォロワーが増えて感じた安心と怖さ

「帰りを待つわんこ」の動画が回り始めた翌朝、フォロワーの数が大きく増えていました。注文が積み上がっていく。コメントが止まらない。私はその画面を見ながら、何を感じたか。爆発的な喜びかというと、違いました。安心が、8割くらい。

回ってくれるだろうとは思っていました。でも実際に回るかどうかは、出してみるまでわからない。その答えが、ようやく返ってきた。うれしいより先に安心が先でした。残り2割は何かというと、怖さです。

ストーリーで集めてしまったから、次の作品で離れるかもしれない。フォロワーが増えれば増えるほど、次が問われる。喜びより先に、その怖さが来ました。親に「食べていけそうです」と伝えたのも、この頃でした。

短い返事でしたが、それで十分でした。安心が8割というのは、冷静に聞こえるかもしれません。でも、これが正直なところでした。

大きなことが起きたとき、人は意外と静かにそれを受け取ります。爆発的に喜べなかった自分を、おかしいとは思わなかった。ただ、続けてよかった、とだけ思いました。続けた先にしか、この朝は来なかったから。

住民税の支払いに苦戦

「初めて売り上げを立てた日」をインスタにあげると、300万回再生となり、すぐに注文が入るようになりました。でも、8月、私の個人口座の残高は2158円になったのです。

売れているのに、お金がない。正確に言うと、会社にはお金があって、私個人にはなかった、というなんとも歪な状況になっていました。その原因は、住民税です。

住民税は、前年度の年収で計算されます。外銀での年収は、約1100万円。翌年の住民税は、約100万円でした。1回の支払いで約30万。それが、年に4回来ます。遊んでいない。ぜいたくもしていない。クーラーをつけずにブロッコリーを食べている人間に、前の年の高い年収を理由に、100万円の請求が来る。気づいたときには、8月になっていました。

PayPayが止まりました。チャージできない。コンビニで何かを買おうとしても、決済が通りません。救ってくれたのは、それまでに貯まっていたPayPayポイントでした。約12000円分。それで、しばらく食費をまかなっていました。まさにポイントで数週間を食いつなぐ状況です。

覚悟することと、引き受けることは違います。冬に葉を落とした木は、枯れていても根は土の中で動き続けている。残高2158円は、地面の上の話。土の下では、注文が入り続けていました。自分の血流が止まりそうでも、会社の血流は止めてはならない。たとえ、孤独でも。

それでもミシンの前に座る

残高2158円の画面を見ながら、私はもう一つのことを考えていました。なぜ、これだけお金がないのに、明日もミシンの前に座ろうとしているのか。外銀の月90万を捨てて、ポイントで生きているのか。答えは、わりとはっきり出ました。

外銀の月90万は、額としてはもちろん大きいです。でも、その仕事に、私は価値を感じられなくなっていました。誰の生活が変わっているのか、見えない。資料は翌週には古くなる。自分でなくてもいい仕事。その感覚が、9か月間ずっとあった。

四畳半のポイント生活の仕事は、額としては小さい。でも、「帰りを待つわんこ」のコメント欄に、飼い主と犬のリアルな時間が書かれていました。私が想像した場面と、コメントを書いてくれた方が思い浮かべた場面が、刺しゅうの上で重なる。

その感覚が、残っていました。仕事の手応えは、数字の大きさでは決まらない。自分の手から、画面の向こうの誰かの生活へ、何かが届いた感覚があるかどうか。それがある仕事なら、残高が2000円台でも、明日またミシンの前に座れる。残高の画面は、そのことを問いかけてきました。

田中優輝
東京大学経済学部金融学科卒業後、外資系投資銀行に入社するも約9か月で退職。 2024年、株式会社Take Riskを創業。「北区の刺しゅう屋」を立ち上げる。