「あのとき、東京に連れて来なければ」猛スピードの暴走車に跳ねられ妻と長女が死亡…《池袋暴走事故》喪失に苦しむ遺族・松永拓也さんを救った「義父の言葉」〉から続く

「生まれてきてくれてありがとう。二人に出会えて幸せだったよ」

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 病院で非情な宣告を受け、冷たくなった妻と娘にすがりつき泣き叫んだあの日。残酷な現実、苦渋の判断、そして別れ際に交わした最後のお互いへの愛の言葉。池袋暴走事故の遺族・松永拓也さんが明かした「妻と娘との最後の別れ」とは。

 長年取材を続けてきたTBSテレビ守田哲氏の新刊『池袋高齢者暴走事故 遺族と加害者家族の2060日』(文藝春秋)よりお届けする。(全3回の3回目/続きを読む)


池袋高齢者暴走事故の被害者遺族である松永拓也さん(写真:時事通信社)

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「奥さんと娘さんが事故に遭われました」

 四月一九日午後二時ごろ、職場の自席にいたところ、非通知の着信があった。電話の主は警視庁の女性警察官だった。

「奥さんと娘さんが事故に遭われました」

 心拍数が一気に上がった。

「どういう状態ですか。命はあるんですか」

 すると警察官は「申し訳ありませんが、答えられません。ただ、相当悪い状態なのですぐ病院に向かってください」と真剣な口調で答えた。すぐ上司に報告したところ、付き添ってくれるという。

 電車に乗る前に、お義父さんに「警察から呼ばれた。これから病院に行ってくる」と連絡した。そして、新浦安駅から京葉線に飛び乗り、東京駅で中央線に乗り換えた。電車のなかで、スマホのニュース通知に気づく。

「三〇代とみられる女性と、二歳から三歳の女の子が心肺停止」

ずっと未読のままのLINE

――これは夢だ。

 そう言い聞かせるが、体の震えが止まらない。気になってもう一度見てしまい、立っていられず、その場にへたり込んだ。狂いそうになる気持ちと「そんなわけないだろ」という苛立ちが交錯する。午後二時三四分、真菜にLINEで「無事でいてくれマナりこ」と送ったが、ずっと未読のまま。

――さっき電話した、普通に生活していた二人が、一瞬にして居なくなるわけないだろ。

 電車に乗っていたときの記憶は完全に欠落している。新宿駅で下車し、甲州街道沿いの路上で警視庁の男性警部補ら二人と落ち合った。警部補から受け取った名刺の肩書きには、「犯罪被害者支援室」と書かれていた。それを見た僕の身体はガクンと崩れ落ち、地面のアスファルトに両膝がついた。

――被害……被害……。そうか、自分は被害者なのか。真菜と莉子が被害を受けたのか。

 信じたくなかった現実を突きつけられた。警部補らとともに警視庁のバンに乗り込み、病院に向かう。警部補に真菜の容態について聞くと、顔を歪ませながら「答えられません」と話し、二人が事故に遭ったことだけを説明した。このときの記憶もない。ただただ、地獄の時間だった。

 病院に到着し、警部補の案内で診察室に向かった。部屋の近くの椅子に座っていた両親が立ち上がって「拓也」と抱きついてきた。一人で診察室に入り、医師の前に座った。

「即死でした」

 そして、泣き叫んだ。

 松永はここまで話し終え、完全にうつむいた。「ふー」と大きな溜息を吐き、沈黙した。しばらくすると嗚咽で言葉がまともに出てこなくなった。眉間に皺を寄せ、口角に力を入れる。

 感情を制御しようとしても、歪んだ顔の目尻から涙があふれる。充溢する湿気で汗みどろでもある。

 ふたたび語り始めた。

「拓也、見ないほうがいい」

 それから、霊安室に両親や叔父の次央と移動した。恐る恐る真菜の顔にかけられた布をほんの少しだけめくった。傷だらけの顔に触れると、氷のようだった。莉子の顔を見ようとしたが、叔父の次央から「拓也、見ないほうがいい」と言われてやめた。

 事前に付き添いの警部補が真菜と莉子の写真をデジカメで撮影して、(松永の)父親に相談したところ、「拓也が可愛い顔を思い出せなくなるから、見せるのはやめよう」と判断したからだった。

 お義父さんに泣き崩れながら電話をかけた。

「ダメでした」

 僕にとって、妻子を別々に火葬されることは耐え難かった。

 片時も離れることがなかった二人が、事故のときも天に召されるときも別々なのは、あまりに可哀想だと考えた。二人を同時に火葬できる斎場を探したが、空きが見つからず、調整が難航した。なんとか五日後の四月二四日が火葬と決まり、この日を起点に段取りを組み立てる必要に追われた。

遺体の胸の上に「小さな白うさぎのぬいぐるみ」

 その後、二人の遺体は病院から目白署に移された。事故の翌日の午前一〇時ごろ、目白署で東京都の監察医が二人の死体検案を行った。遺体は損傷が激しかった。事故との因果関係も明白であり、監察医は死体検案調書に解剖の要否について「否」にマルをつけた。

 僕は莉子の遺体の胸の上に、小さな白うさぎのぬいぐるみを見つけた。莉子が公園で遊んでいた「シールちゃん」だった。莉子にとって、シールちゃんは親友で、おむつを替えてあげたり、寝かしつけをしたりしていた。もともとシールちゃんは、真菜が亡くなった姉の形見としてもらったもので、莉子に受け継がれていた。

 沖縄から来たシールちゃんは、二人の死を経験した。そして、大切な親友の最期に寄り添った。遺体の上にシールちゃんを置いたのは、目白署の警察官による配慮だった。

 このとき、松永家、上原家、そして真菜の知人らが一目でも早く真菜に会いたいと思い、目白署に集まった。その数は約三〇人にのぼり、通常の部屋には入りきらず、講堂で待機したという。中には嗚咽を上げる者もいた。

 葬儀業者から「ご遺体にエンバーミングを施しますか」と確認された。エンバーミングとは、遺体の損傷部を修復し、生前の姿に近づけるための技術だ。二人の場合は体の損傷が激しく、修復には三日を要するという。エンバーミングをすれば二人と過ごす時間は短くなる。

 綺麗な状態にしてあげた方がいいのか、残された時間を優先した方がいいのか――。親族や友達もお別れをしたい、自分も一緒にそばにいてあげたい。何より、真菜と莉子が離れ離れになるのはつらいだろう。

 葛藤の末、エンバーミングをしないという判断を下し、二人の棺を実家の仏間に運び込んだ。部屋の左側にあった仏壇の横に、真菜の棺桶、莉子の棺桶の順に安置した。

 通夜は二三日の午後六時から、二人が死の直前までいた南池袋公園近くの「沙羅ホール」で行われた。沖縄だけではなく、日本全国から真菜の知人など約四〇〇人が参列した。式を時間内に終わらせるために焼香を一回だけとしたが、会場では収容しきれず、何十人も路上に溢れた。

 遺影は事故四か月前のクリスマスに写真館で撮影した七五三の和服姿だった。向かって右が真菜、左が莉子で、二人とも正面を向いて微笑んでいた。真菜が好きだった桜色の花が、遺影を取り囲んだ。右に真菜、左に莉子の棺が安置された。僕は真菜の近くに座った。喪主の挨拶は何とか乗り切ったが、このときの記憶はほとんどない。

 事故直後の日々を回想する松永の虚ろな瞳は、ずっと斜め下を向いていた。

 上原がたまらず言葉を発した。

「最後の日を、莉子と真菜だけにするわけにはいかないので、私が『泊まる』と言ったら、たくも『私も泊まります』と」

「二人に出会えて幸せだったよ」

 通夜は午後八時半に終わったが、松永と上原は家に帰らなかった。休憩場所で休みながら、できるだけ棺桶の近くにいるようにした。線香が切れないようにしたり、莉子ちゃんの棺桶の蓋を開け、お菓子を置いた。

 松永は押し黙っていたが、私が「拓也さんは?」と尋ねると、こう語りだした。

 お義父さんと交互に休みを取りながら、お別れをした。告別式の後に記者会見が予定されていたので、休憩室で夜中三時頃まで記者会見の原稿を書いた。そして、最後に、莉子が好きだったノンタンの絵本を読んであげた。毎夜、本棚から絵本を四冊選び、莉子に読み聞かせていたから。

 空は白み始めていた。棺桶は別々なので同時に二人の手を握れない。まず真菜の手を握った。

 思い出話をしながら「愛してる」とつぶやいた。次に、莉子の手を握った。

「生まれてきてくれてありがとう。二人に出会えて幸せだったよ」

人生で最後のお別れ

 朝を迎え、午前一〇時から告別式が始まった。真菜と莉子の身体は、参列者が手向けた花で埋まり棺桶の蓋が締まりきらないほど溢れていた。ただ、僕は「最後のお別れなのに、娘の顔すら見ることができないなんて、無念すぎる」と感じていた。

 その一時間後、霊柩車が真菜と莉子を乗せて、新宿区上落合の落合斎場に移動した。

 松永が続ける。

「これで本当に、人生で最後のお別れなんだなって。離れ離れの棺桶の間を、行ったり来たりして。おでこにキスをして。棺桶が閉まるのが嫌で、号泣して。みっともなかったと思うんですけど。生前に何度も何度も言っていたけど、最後のお別れのときも二人に『愛している』って言えたし、感謝の気持ちも伝えられたから」

 インタビューは三時間に及んだ。これ以上は話を聴くのは限界だと判断し、気分を少しでも変えるため、那覇市唯一のビーチである、波の上ビーチを歩いた。

 しかし、砂浜の上で遊ぶ真菜さんや莉子ちゃんの姿が蘇り、松永も上原も正気ではいられなかった。私は取材を切り上げた。

家族から深く愛された真菜さんの人生

 これほど深く愛された真菜さんはどのような人生を辿ったのか。彼女のルーツを遡ろう。

 真菜さんの父、上原義教は一九五七年に那覇市で生を享けた。上原の両親は粟国島出身で、沖縄本島に移住した後に結婚し、七人きょうだいの三番目として上原が生まれた。沖縄は米軍の支配下にあり、この年に琉球列島高等弁務官による統治が始まった。二〇万人余りが亡くなった沖縄戦の爪痕はまだ生々しかった。上原には、那覇の路傍が強く印象に残っている。それは、たくさんの露天商が野菜や果物の腐った部分を切り落とし、販売している姿だった。

 上原家は複雑な家庭で、上原は幼稚園に入ってから二人の兄と初めて会った。生活は常に耐乏を強いられ、つらい少年時代だった。小中学生のころは、学校をさぼって川に行き、スッポンを獲って売って一ドルから二ドルの収入を得た。空腹に耐えきれず、新聞配達の仕事の最中、商店の開店前の道ばたに置かれていた食べ物を取ったり、人家の敷地に生えていた果物を食べたりしたこともある。米軍基地へ排水口づたいに侵入したが、憲兵につまみだされた。琉球警察の交番で「殺されても仕方ないぞ」と警察官にぶん殴られた。

 沖縄がアメリカから日本に返還された翌年、一九七三年の春、上原は中学校を卒業した。とにかく家を出たくて窒息しそうだった上原は、集団就職の波に乗り、本土に渡った。親戚のツテをたどって大阪府茨木市の中華料理店に住み込み、コックとして三年間ほど修業した。

 それから那覇に戻ると、今はなきダイナハ(ダイエー那覇店)の中華料理店で仕事を始めた。

 その店で給仕のウェイトレスをしていたのが、上原の一歳下で当時高校生だった喜美子だ。家庭環境に恵まれず、家族の愛情を知らなかった上原にとって、喜美子の笑顔は世界観を変える太陽のようだった。上原は「一目惚れどころではなかった」と振り返る。二人はお互いが成人してから結婚した。

 上原は喜美子について「一切、愚痴や悪口を言わなかった。天使のような人だった。私にとっては世界一の優しい女房だった」と追想する。

 上原は妻の影響でキリスト教のプロテスタントの洗礼を受け、次第に、「人は赦されなければならない」と考えるようになる。自らの人生を反省し、己の境遇を憎む気持ちも次第に消えていった。

「真菜はね、常に家族のことを最優先に考えていたんですよ」

 真菜さんのきょうだいの構成は、姉二人、真菜さん、妹、弟だ。真菜さんは一九八七年九月一三日に生まれた。

 上原家七人の生活は豊かではなかった。那覇市の市営団地で、家族は肩を寄せ合って暮らした。台所と狭い部屋が二つしかなかった。節約のため、子供用の二段ベッドは上原が自作した。

 子供たちは自分から掃除や洗濯を分担して両親を助けた。年に数回、恩納村のキャンプ場などでテント生活をすることが数少ない楽しみだった。鍋でインスタントラーメンを作り、川でエビを捕まえて食べた。上原は、家族に申し訳なさを感じていたが、家族の笑顔が絶えることはなく、最高の思い出だった。上原は言う。

「自分は自分のために人生を楽しもうなんて一度も考えたことはありませんね。家事をしてくれる妻を全力で支えようと思ったし、生まれてきてくれた子供たちのためにすべてを捧げようと」

 真菜さんは那覇市立の中学校に進み、ハンドボール部に入る。進学校の県立高校に入学すると、抜群の運動神経を見込まれて陸上部に勧誘されるが、家計を助けるため、居酒屋のアルバイトに時間を割いた。

 次姉に携帯電話代を援助してもらった経験から、自分のバイト代を使って妹に同じことをしてあげた。友達もたくさんでき、充実した高校生活を送った。数学が得意で、成績はいつも学年トップクラス。国公立大学に進む学力があり、教諭から数学教師の道を勧められたが、二〇〇六年に歯科衛生士の専門学校に入学。

 成績優秀者に選ばれ、那覇市の歯科クリニックに就職した。真菜さんは大学に進学しなかった理由を父親に一言も話さなかった。

「家のお金のことを考えて、早く手に職をつけようとしたんでしょうね。真菜はね、常に家族のことを最優先に考えていたんですよ。だからといって、自分を押し殺していたわけでもない。自分が悪いと思ったら素直に謝るけど、きょうだいの連帯責任で怒られたときとか、悪くないと思ったら謝らなかった。小さい頃から、意志を貫く芯の強さがありましたね」

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(守田 哲)