『真珠の耳飾りの少女』の日本公開はこれで最後か、天才画家フェルメールは優れたマーケターだった

『真珠の耳飾りの少女』(マウリッツハイス美術館所蔵)
この夏一番の話題の美術展「フェルメール《真珠の耳飾りの少女》展」が、いよいよ8月21日(金)に大阪・中之島美術館で開幕する。同展の目玉となる『真珠の耳飾りの少女』について、所蔵先のオランダ・マウリッツハイス美術館長が日本への貸し出しはこれが最後になる可能性に言及したことから、熾烈なチケット争奪戦が繰り広げられてきた。展覧会を前に、かくも日本人を魅了するフェルメールという画家の人生や画業の評価を振り返る。
なぜ王道の歴史画から風俗画に軌道修正したのか
職業画家としての活動期間は20余年。寡作で、現存する作品数は37点に過ぎない。その人生や画家としての歩みには不明な点が多い。代表作《真珠の耳飾りの少女》が14年ぶり(4度目)に日本で公開されるのを前に、この謎めいた画家の生涯と、没後も含めた評価の変遷をたどってみたい。
オランダ第3の都市ハーグから列車で10分ほどのデルフト(南ホラント州のヘメーンテ=基礎自治体)は、街中を走る運河に沿って歴史的な建造物が並ぶ古都だ。面積は東京・立川市や大阪・寝屋川市と同程度で、主な観光スポットは徒歩で回れてしまう。
フェルメールはこの小さな街で生まれ、人生の大半を過ごした。
フェルメールが生きた17世紀のオランダは「大航海時代」の恩恵を受け、グローバルな海上貿易の中心地だった。運河を使って海上に出られるデルフトには、当時の世界的な貿易会社だった東インド会社の支所も置かれ、交易で栄えた。
フェルメールの父親はそのデルフトで織物業を営みながら、宿屋を経営していた。フェルメールが生まれる前年には画商の登録もしている。
芸術と無縁ではない環境に育ったフェルメールは、長じて絵画の修業のためにデルフトを離れるが、その際の師匠が誰だったのかは分かっていない。記録に残っているのは、フェルメールが21歳だった1653年4月に名家の令嬢カタリーナと結婚し、その年の暮れに画家のギルドであるデルフトの聖ルカ組合に加入していることだ。フェルメールは結婚を機に、カタリーナの家に合わせてプロテスタントからカトリックに改宗している。
職業画家として活動を始めたフェルメールが当初描いていたのは、宗教や神話に基づく王道の歴史画だった。1654〜55年頃に描かれた『マリアとマルタの家のキリスト』は現存するフェルメール作品の中では最もサイズが大きく、カラヴァッジェスキ(イタリアバロックの画家カラヴァッジョの作風を引き継いだ画家)風の陰影表現が特徴的だ。

『マルタとマリアの家のキリスト』(スコットランド国立美術館所蔵)
しかし、当時のオランダには他の欧州諸国とは異なる特殊な絵画需要があった。宗教改革後主流となったプロテスタントの教会は、偶像崇拝としての宗教画に批判的な立場を取っていた。肖像画を注文する裕福な王侯貴族がいるわけでもない。新たな買い手として新興市民層が台頭しており、フェルメールも他のオランダの画家と同様、市民層に向けた小ぶりの風俗画に活路を見出すことになる。
ウルトランマリンブルーの原料、ラピスラズリは金よりも高価だった
一方で、17世紀のオランダは美術作品の黄金期でもあった。好景気を受けて100年間で500万点近い作品が制作されたと推計されている。画家の数も16世紀初頭から50年間で4倍以上に増え、熾烈な競争を余儀なくされた。とはいえ、フェルメールはそのレッドオーシャン市場を勝ち抜くための戦略に長けた画家だったようだ。
私たちがよく知るフェルメールの作品に描かれているのは、当時の最新ファッションに身を包み、自宅で楽器を演奏したり、本や手紙を読んだりする新興富裕層の女性たちだ。それこそがフェルメールの顧客ターゲットであり、彼らの関心を得るために当時は金よりも高価だった貴石ラピスラズリから作った顔料(ウルトラマリンブルー)をふんだんに使うなどした。
フェルメールの精緻な写実表現にはカメラ・オブスキュラ(カメラの前身)の使用が指摘されている。こうした最新テクノロジーの活用にも、芸術への探求心のみならず、ライバルとの差別化という野心があったはずだ。
かくして、光を白絵の具の点描で描く独特な表現方法(ポワンティエ)を確立し、『デルフト眺望』『真珠の耳飾りの少女』『絵画芸術』などの作品を輩出した1660年代は画家フェルメールの黄金期とされる。

『デルフト眺望』(マウリッツハイス美術館所蔵)
フェルメールは1660年頃からカタリーナの家に同居し、2階にアトリエを構えて制作活動を行っていたことが分かっている。2003年に公開されヒットした映画「真珠の耳飾りの少女」からは、そんな入り婿画家フェルメールの日常が垣間見える。『真珠の耳飾りの少女』が描かれた1665年頃のフェルメール家が舞台と思われる。
夫人カタリーナとの間に14人の子ども
ただし、スカーレット・ヨハンソンが演じた、画家の主人と思いを通じるメイドのヒロインは、原作の同名小説の作家であるトレイシー・シュヴァリエの創作のようだ。夫の創作に理解を示さず、ヒロインに嫉妬心を向けるカタリーナ像も研究者らによって否定されている。実際、夫婦仲は良好だったらしく、カタリーナはフェルメールとの間に14人の子どもを授かっている。
デルフトの聖ルカ組合では2度にわたって理事に選出されており、ギルド内での評価も高かったと見られる。1666年にはフランスの宮廷参事官でコレクターだったバルタザール・ド・モンコニーがわざわざデルフトのフェルメールを訪ねたという記録も残っている。モンコニーの日記によると、その際、フェルメールは自分の作品を1点も手元に置いていなかったらしい。
仏蘭戦争で絵画需要が急減、借金の取り立て仕事に追われる
順調だった画業に影が差したのは、1672年から始まった仏蘭戦争がきっかけだ。戦争に伴う景気の急降下で、贅沢品だった絵画の需要は一気に萎む。さらに1674年にはフェルメールを長年支援してきた最大のパトロン、デルフトの醸造業者で投資家のピーテル・ファン・ライフェンが亡くなってしまう。
戦争の混乱の中で裕福だったカタリーナの実家は大きく資産を減らし、副業の画商の仕事も立ちいかなくなる。晩年のフェルメールは体調不良を抱えながら、貸し金や不動産業を営んでいた義母マリアに代わって返済困難となった債務者から取り立てを行う仕事に追われていたようだ。
カタリーナと11人の子どもを残して亡くなったのは1675年。享年43という若さだった。
カタリーナはフェルメールの死後、自己破産を申請している。それだけ一家の台所事情が深刻だったとも想像できるが、一方で、1680年代にマリアやカタリーナが亡くなった後、フェルメールの娘夫妻は祖母から相続した土地を売却して大金を手にしている。自己破産は、一家の財産を守り次世代へとつなぐためのマリア・カタリーナ母娘による“偽装”ではなかったかという見方もある。
フェルメールの画家としての履歴書は、当然ながら死後の方がはるかに長い。
100年以上、画壇から忘れ去られた存在に
死後20年を経た1696年、ファン・ライフェンの娘婿に当たるデルフトの出版業者が所蔵していたフェルメール作品21点がアムステルダムでまとめて競売にかけられている。だが、それから100年以上にわたり、フェルメールは画壇から忘れ去られた存在となってしまう。
フェルメールを美術史の暗渠から掬い上げたのが、フランス人の美術評論家であるトレ・ビュルガーだ。
1842年にオランダで『デルフト眺望』を見て感銘を受け、フェルメールの研究に着手。欧州各地をめぐりながら埋もれていたフェルメール作品を発掘し、1866年にはフランスの美術雑誌「ガゼット・デ・ボザール」にフェルメールの論文と所蔵作品のカタログを発表した。それに先立ち、自身が関わった個人蔵のオールドマスター(18世紀以前に活躍していた欧州絵画の巨匠)の作品を集めた展覧会にフェルメール作品11点(うち6点はビュルガー自身のコレクション)を出品した。
こうしたビュルガーの20余年をかけた地道な取り組みが、フェルメールの名前が画壇で再認知されるきっかけとなる。
この頃からいち早くフェルメールに注目していたのが、同じオランダ出身のフィンセント・ファン・ゴッホだ。後輩画家に「フェルメールという画家を知っているかい? この一風変わった画家のパレットは青、レモン黄、パールグレー、黒、白だ」と書き送っている。オランダ絵画の研究者の一人は、ゴッホ作品の青と黄の対比にフェルメールの影響を指摘する。
ビュルガーの後もフェルメール研究は継続され、作品リストから外される作品もあれば、新作の発見もあった。しかし、第2次世界大戦が終わった1945年に発覚した無名画家ファン・ハン・メーヘレンによる贋作事件がそこに影を落としたことは否めない。メーヘレンはフェルメール作品の再現のためにラピスラズリまで使う徹底ぶりで、ナチスの幹部のみならず、マウリッツハイス美術館長を務めた高名な美術史家の目さえ欺いたのだ。
日本人実業家が落札した『聖プラクセディス』はアジア唯一
フェルメール作品の初来日は『ディアナとニンフたち』で1968年のことだったが、当時は「レンブラントとオランダ絵画巨匠展」の1作品としての展示であり、主役のレンブラント作品の“添え物”という扱いだった。
現在のような世界有数の人気画家の仲間入りを果たしたのはわずか30年ほど前、1990年代のことだ。真作20点以上を集めた大回顧展が1995年に米国ワシントンDCのナショナル・ギャラリー(NGA)、翌96年にマウリッツハイス美術館で開催され、米国や欧州で大きな反響を呼んだ。そして、2000年に大阪市立美術館で開かれた日蘭交流400周年記念特別展覧会「フェルメールとその時代」(『真珠の耳飾りの少女』など5作品を展示)を機に、日本でも大きなブームが巻き起こったのだ。
当時、NGAで展覧会を担当した学芸員が後の取材で「大々的な広報活動をしたわけでもないのに、多くの美術愛好家が展覧会に列をなしたことに驚いた」と振り返っていたが、フェルメールの何気ない日常への穏やかな眼差しや作品が持つ静謐さは、目まぐるしい変化の時代を生きる現代人にこそ響いたのではないだろうか。
それから30年余りが経った現在も、フェルメールをめぐる熱狂は止む気配がない。2023年には史上最大規模となる28作品を集めたフェルメール展がアムステルダム国立美術館で約4カ月にわたって開催されたが、期間中はアムステルダム市内のホテルの予約が困難になるほどの人気だったという。
この展覧会では、2014年にロンドンで行われたオークションでくふうカンパニー代表(当時はクックパッド代表執行役)の穐田誉輝氏が約620万ポンドで落札し、国立西洋美術館に寄託展示している1655年頃の作品『聖プラクセディス』(フェリーチェ・フィチェレッリ『聖プラクセディス』の模写)が展示されたことも話題になった。『聖プラクセディス』はアジアで唯一のフェルメール作品となる。

『聖プラクセディス』(くふうカンパニー所蔵、国立西洋美術館に寄託)
そして今夏、中之島美術館単独開催となるフェルメール展は9月27日(日)まで。フェルメール作品は『真珠の耳飾りの少女』と初期の歴史画『ディアナとニンフたち』の2点が展示される。チケットの一般抽選は終わっているが、追加抽選やチケットぴあのリセールサービスを通じてチケットを購入できる可能性がある。詳細は公式サイトから確認してほしい。
<参考文献>
「フェルメールとそのライバルたち」(小林褚子著、KADOKAWA)
「フェルメールの世界―拡大図でたどる静謐の物語」(ゲイリー・シュバルツ著、東京パイインターナショナル)
「フェルメールの世界」(小林褚子著、NHKブックス)
筆者:森田 聡子
