今年3月、『八つ墓村』『復讐するは我にあり』などの代表作で知られる女優・小川真由美が、親類のいない鹿児島でひっそりと病死していた。昭和を代表する“名女優”は、なぜ孤独に死んだのか--。娘・雅代さんが、その詳細を語った。

【画像】生まれたばかりの娘・雅代さんを見つめる小川真由美(本人提供)

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 5月18日に電話がかかってきたとき、携帯の画面に表示された名前を見て、私は母・真由美の死を悟りました。〈ああ、死んだんだな〉、そう思いました。


昭和の名女優・小川真由美、45歳の頃 ©共同通信社

 私生活で何十年もの間、母があれこれと頼ったその人から電話がくる理由は、他に考えられなかったからです。

「マーちゃん、お久しぶりです。あのね……」

 彼女は沈んだ声で話し始めました。やはり、母は亡くなっていました。しかも、東京から遠く離れた鹿児島で。電話の向こうには、鹿児島で母を看取ってくださった方もいて、お二人が代わる代わる「真由美さんの最期」を話してくださいました。

 母と約10年会っていなかった私は、母が鹿児島で暮らしていたことをそのとき初めて知りました。

〈昭和を代表する名女優の一人、小川真由美が亡くなっていた。3月26日の早朝、鹿児島の病院で死去したのだ。享年86。娘の雅代さんに知らされたのは、約2カ月経ってからのこと。世間に広く知られるのが4カ月後に出るこの記事であることは、かつての名声を考えると、淋しく感じざるを得ない〉

 真由美はいわゆる“毒母”でした。ひとり娘の私に対して、餓死する寸前までネグレクトしたかと思えば、手のひらを返して頼ってくる。恋人ができると邪魔者扱いする一方で、恋人と別れると私を手元に置いて優しくしました。つねに大女優として振る舞っているストレスから睡眠薬と躁鬱病の薬が手放せず、付き人は次々に変わっていく。生涯頼りにした宗教や占いも、ひとつに傾倒してはしばらくすると大体揉めて、次の教祖に移っていきました。

 毒親のもとに育った子どもは、精神的に追い詰められながらも、いざ親に会うと受け入れてしまうところがあります。私も何度も母から距離を取っては近づいてしまうことの繰り返しでしたが、この約10年は本当に縁を切っていました。

 母が素晴らしい女優であったのは間違いありません。でもなぜ、晩年は演じる機会を奪われていたのか。なぜ、親戚もいない鹿児島でひっそり亡くなることになったのか。娘の立場から辿ってみたいと思います。

同期の樹木希林を圧倒

〈小川真由美は1939年、現在の東京都足立区に生まれた。父親は舞台俳優で、自身も21歳で文学座第1期研究生に。同期には樹木希林、樹木の最初の夫・岸田森、そして後に婚約する橋爪功などがいたが、小川は圧倒的存在だった。大女優・杉村春子に目をかけられ、若くして「杉村の後継者」と目された。

 63年には映画初出演の『母』で27歳年上の武智鉄二とラブシーンを演じ、翌64年の初主演作『二匹の牝犬』でも体を武器に男を渡り歩く悪女を演じて大ヒット。妖艶な魅力で、1960〜80年代の日本映画に欠かせない存在となった。『八つ墓村』(77年)では鬼気迫る演技で発する「祟りじゃ〜」が流行語に。80年には『復讐するは我にあり』と『配達されない三通の手紙』で日本アカデミー賞最優秀助演女優賞を受賞。ドラマでも「女ねずみ小僧」シリーズ(71年〜)など多くの代表作がある

 私生活では、67年に同じ文学座所属でダンディなルックスと甘い声で人気を博した細川俊之と結婚。69年に生まれたのが、ひとり娘の雅代さんである〉

 父と暮らした日々のことはほとんど覚えていないんです。南青山のツタの絡まる借家に、父、母、私、そして母の妹夫婦と息子の6人で住んでいたそうです。父と母は舞台の共演をきっかけに結婚しましたが、私が2歳の頃には父が出て行ってしまいました。

 かすかに記憶に残るのは、私が出かける時に、家の奥から「行ってらっしゃい」と叫ぶ父の声。後にそれぞれが語ったところでは、父曰く「家庭でもつねに女優気質の妻に疲れた」、母曰く「自分より売れている妻を妬ましく思った夫が、酒と女に走った」というのが別れた理由でした。その後、父には16歳になるまで会う機会はありませんでした。

※この続きでは、小川雅代さんが「毒母の記憶」をさらに語っています。約7400字の全文は、発売中の『文藝春秋』2026年9月号と、月刊文藝春秋の電子版『文藝春秋PLUS』に掲載されています(小川雅代「毒母・小川真由美は“孤独死”していた」)。

(小川 雅代/文藝春秋 2026年9月号)