「刺せ!」「殺せ!」野球場に飛び交う物騒な言葉は“守り続けるべき伝統”か…変化を好まない野球界に投じられた一石の意義
8月5日から阪神甲子園球場で“夏の高校野球”が開幕した。私は3年前に『真夏の甲子園はいらない』という本を上梓し、災害的な暑さの中での大会開催を見直すべきと提言している。もはや《異常気象》と言うより、常態化さらには過熱化を続ける日本の夏は野球開催には適さない、いや危険きわまりない。今夏も主催の朝日新聞を始め、全国中継するNHKは「若人の躍動」「美しい青春ドラマ」を前面に押し出す演出を続けるだろうが、選手だけでなく、審判、観客、関係者に事故がないよう祈るばかりだ。【小林信也(作家・スポーツライター)】
野球の公用語
野球界はなぜか変化を好まない。伝統を守り続けることに固執する傾向が強い。そのため、高圧的な指導体質、勝利至上主義、パワハラ気質がなかなか一掃できずに続いている。が、そんな中で興味深い取り組みが始まっている。「刺せ!」「殺せ!」といった物騒な言葉を野球場から一掃しようという呼びかけだ。

「神聖な」とも表現される甲子園球場のダイヤモンド、ベンチそしてスタンドで、今年もおそらく「殺せ!」「刺せ!」といった物騒な怒声が、当たり前のように叫ばれ、それを咎める動きもないまま、試合は展開するだろう。なぜなら、それらの言葉は、野球界では当たり前に使われる慣用句で、野球用語と密接に結びついた“野球の公用語”のようなものだからだ。
もし野球場以外の場面でそんな言葉を大声で叫んだら、相当に危険な人物と白眼視されるだろう。いまの社会基準なら逮捕・保護される可能性もあるかもしれない。ところが、社会的に尊敬を浴び、あるいは教育者・役人・政治家などの職業に就く人でさえ、野球場でなら、そうした物騒な言葉を叫ぶことが容認(黙認?)されている。
これは野球だけに許された、特殊な習慣と言っていいだろう。仮に他のスポーツ、例えばサッカーやバスケットボールのスタンドから、「殺せ!」と叫んだら、やはり周囲から異様な目で見られ、もしかしたら退場を促されるかもしれない。
あくまで“見直そう”
野球界に定着するこのおかしな慣習を「見直そう」とする動きが始まっているとネットニュースで知り、私は大いに関心を抱いた。私自身、以前から「物騒な野球用語を見直すことができないか」と考えていたからだ。
7月9日付けの河北新報によれば、
「物騒な表現を含む野球用語の使用を考え直そうと、宮城県高校野球連盟が今秋にも検討委員会を設置する。アウトの奪い方を巡り、生徒たちに『刺せ』や『殺せ』と伝えない指導を目指し、言い換えの案を話し合う。検討結果は来春、県高野連加盟校の全指導者に周知する方針。取り組みは県内の小学校から社会人にも広げたい考えだ。
委員は10人前後の予定。県高野連の松本嘉次理事長と副理事長2人の他、元理事の国語教師人や報道機関の関係者らで構成する。
検討対象は『刺』『殺』『死』『盗』『犠』の文字を含む用語が中心となる。指導現場での使用に加え、主催大会の公式記録や記念誌の表現も改める方針だ。片仮名での言い換えや新語の創出を視野に入れる」
この記事を読むと、かなり意欲的な取り組みだと感じられる。一方で、一都道府県の高野連が日本高野連に先駆けて先鋭的な動きをして大丈夫なのか? という心配も浮かんだ。かつて新潟県高野連が「翌年の春季大会から球数制限を導入」と決めた際、日本高野連から全国一律の動きに従うよう指導を受け、結果的に導入を棚上げした経緯がある。それが頭に浮かんだから、今回も日本高野連から指導を受ける懸念を感じたのだ。
早速、宮城県高野連理事長に電話で取材を申し込み、応じてもらうことができた。松本理事長は、次のように話してくれた。
「野球用語を変えるなんて、それほどのことは考えていません。私たちはあくまで、『野球の指導現場で使う言葉を見直そう』という、そういう主旨です」
野球用語ってなんか物騒じゃないか
その言葉は私の期待からすればかなりトーンダウンした印象を受けた。しかし、『指導現場で使う言葉を見直そう』という動きなら、日本高野連の横やりを受ける恐れも低いだろう。なかなか深く考えられたスタンスだと感心した。
宮城県でこの動きが始まった端緒は、宮城県立名取北高校の授業《探究活動》にあった。これも昨年12月17日に河北新報が報じている。
「きっかけは今年4月、威勢のいいかけ声が響く名取北高のグラウンドで、練習中の野球部員が口にした違和感だった。
『当たり前だと思っていたけど、野球用語ってなんか物騒じゃないか』
野球では、守備側がアウトにすることを『殺す』、攻撃側がアウトになることを『死ぬ』と表現する。捕球でアウトなら『刺殺』、走者を塁間に挟めば『挟殺』など、生死に関わる単語が多い。
同部は今秋の宮城県大会で3位に入り、創部46年で初めて東北地区大会に出場した。来春行われる選抜大会の21世紀枠候補に選出され、着実に力を付けてきた。
『部員同士で日常生活から正すと決めているのに、刺せ殺せと叫ぶのはいいのだろうか』
丸山諒大主将(2年)らの声を聞いた部長の榊良輔教諭が、生徒の課題解決力を育む探求活動のテーマとすることを提案。野球部員以外のメンバーも加わり、野球用語を考える取り組みを本格化させた。
野球部を対象としたワークショップでは、投手が投げたボールが打者に当たる『死球』や、バントで走者の進塁を目指す『犠打』も物騒に聞こえるとの意見があった。『投手のモーションを盗め』や、『(バントで)お前は死んでもいい』のかけ声も『未経験者が聞いたら怖いと思う』との指摘も」
正岡子規を冒涜する気か
素晴しい発想、取り組みではないか。私は心を動かされた。早速、現在は石巻好文館高校に異動し、野球部の監督を務める榊良輔教諭に電話で話を聞いた。すると、榊監督は意外なほど慎重に言葉を選び、
「松本理事長が先頭に立って進めてくださる検討委員会には、私にできる範囲でお手伝いしたい」
と言った。何か雰囲気がおかしい。さらに話を伺うと、新聞で報じられてから、学校に抗議の電話などが数多く寄せられ、心無い言葉に榊教諭自身が心を痛める事態になったのだという。つまり、長い伝統を持つ野球用語を変えようなんて不遜だ、という強いお叱りを受けたのだという。中には、「正岡子規を冒涜する気か」といった抗議もあったという。その事実を聞かされて、私は暗澹とした思いに沈んだ。
昨今ネット上では心ない非難が横行している。表現の自由は守られるべきだが、自由で改革的な動きを暴力的な言葉や行動で制圧するのは「自由」の範囲を超えているのではないか。
バッターを打者、ランナーを走者、デッドボールを死球、フライを飛球などと翻訳したのは正岡子規だと語り継がれている。それを知る方が子規の貢献にも敬意を表し、「変えるべきでない」と主張する気持ちも理解はできる。
だがひとつ、事実の確認も必要だろう。
『デッドボールを死球』と先ほど書いたが、そもそもアメリカでは、投球が打者に当たることをデッドボールと言わない。「ヒット・バイ・ピッチ」が正確な用語だ。ところが当時ちょっとした勘違いがあったのだろう。「ヒット・バイ・ピッチ」をすっ飛ばして、「デッドボール」が用語として定着してしまった。
野球場に流れる空気を変える必要が
勘違いを生んだのは、審判の動作だ。打者に投球が当たると、試合はその瞬間ボールデッドとなる。試合が止まるので、走者は次の塁を狙うことはできないし、捕手がボールを拾って離塁している走者をアウトにしようと送球もできない。できないというか、試合が止まっているのだから無意味な行為だ。つまり、死ぬのは打者でなく、ボール(試合)の方なのだ。正確に表現すれば、ヒット・バイ・ピッチによってボールデッドになったよと宣告するため主審は両手を上げるのだが、なぜかヒット・バイ・ピッチそのものをデッドボールと日本では呼んでしまったのだ。
もし子規がデッドボールを死球と訳したのが事実なら、元になる訳語そのものを勘違いしていたわけだから、早く修正してあげた方が子規の名誉のためにもよいのではないか。もし「ヒット・バイ・ピッチ」が正しい用語と認識していたら、子規は一体どんな日本語を当てただろう。それを想像するのは楽しい。子規に代わって新語を創り出す楽しみもあっていいだろう。
ヒット・バイ・ピッチ……。球が当たるから『当球』『触球』? 当たれば痛いから『痛球』? いや英語そのまま「ヒット・バイ・ピッチ」でいいのかも。
慣れた用語の変更に抵抗を感じる野球ファンが多いのも事実だ。私自身いまもボールカウントはストライク・ボールの順で言う方がしっくり来る。
しかし、野球界のパワハラ体質がなかなか改善されない本質的な理由の底流に、これら物騒な用語や慣用句の存在があるようにも思う。野球場に流れる空気を変える必要がある。指導者や選手の心の中の環境も変えた方がいい。私は強くそう願う。
スポーツライター・小林信也
デイリー新潮編集部
