芥川賞の選考会は、ただ受賞作を決める場ではない。候補作をどう評価するか、いま文学に何を求めるかをめぐって、選考委員たちの意見がぶつかる場でもある。なかには選考開始から受賞作発表まで2時間以上かかり、速報を待つ読者や出版関係者をやきもきさせた回もある。本記事では、2009年以降の記録を中心に、選考会が長引いた芥川賞受賞作を5つ紹介する。時間がかかった理由を想像しながら読むと、作品そのものだけでなく、受賞の背景まで見えてくるはずである。

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■1)第174回『時の家』鳥山まこと/『叫び』畠山丑雄

時の家


叫び


発表まで2時間46分。近年屈指の“長考”の末に、2作同時受賞となった。

 第174回芥川賞は、16時に選考が始まり、18時46分頃に受賞作が発表された。所要時間は2時間46分で、確認できる範囲では2009年以降でもかなり長い選考会である。受賞したのは、鳥山まこと『時の家』と畠山丑雄『叫び』の2作。『時の家』は一軒の家の時間と記憶をたどる作品、『叫び』は関西的な笑いや偽史の厚みを感じさせる作品として選評でも語られている。作風の異なる2作をどう評価し、同時受賞にするか。議論が重ねられた時間まで含めて、芥川賞らしい回だったと言えるだろう。

 鳥山まこと『時の家』の選評を見ると、奥泉光氏が「最初から推そうと考え選考会に臨んだ」、川上未映子氏が「候補作のなかではもっとも完成度が高かったように思う」とした一方、「いかんせん小説としての立ち上がりが遅い。暖房器具だったら風邪を引く」という意見もあった。

 畠山丑雄『叫び』の選評では、『時の家』に厳しい意見を送っていた平野啓一郎氏が「よく理解しきれていない点もあるが、それも含めて魅力とすることに、私は賭けることにした」と◎をつけた。また、「笑いのツボは読み手によって異なり、西日本出身者には受け、東日本出身者にはイマイチという傾向が選考委員にも見られたのは面白かった」といった意見も見られた。

指標:選考長引き度★★★★★/議論の濃さ★★★★★/同時受賞インパクト★★★★★

■2)第150回『穴』小山田浩子



発表まで2時間40分。“幻想的”だけでは片づけられない奇妙さが選考を揺らした。

 第150回芥川賞は、17時に選考が始まり、19時40分頃に受賞作が発表された。受賞作は小山田浩子『穴』。会社を辞め、夫の実家近くに引っ越してきた女性が、奇妙な穴に落ちたことをきっかけに、不穏な日常へ足を踏み入れていく物語である。何か大事件が起こるわけではないのに、家族、土地、親戚付き合い、見知らぬ生き物の気配がじわじわ読者を不安にさせる。選評でも、単に「幻想的」と処理できない魅力が語られており、長い選考時間にも納得の一作だろう。

 村上龍氏は「『穴』が何を象徴するか、絶対に明らかにしないという意思さえ感じた。それは現代を描く作家として、正統的である」と◎の評価、山田詠美氏は「今回、一番、おもしろく読んだのがこれ。ファンタスティックな風景のあちこちに読み手を躓かせる硬い石が散らばっているみたい。転びそうになって、ふと現実に引き戻されるような隅に置けない仕掛け。それらによって、読者は、この作品世界を二重に楽しめる」と◯をつけた。全体的に高い評価が集まったが、「だがそれを幻想や非日常や、マジックリアリズムの手法で描きながら、突然あらわれた穴も、得体の知れない獣も、たくさんの子供たちなども、小説の最後ですべて消えてしまうことに、私は主題からの一種の逃げを感じて推さなかった」と厳しい意見もあった。

 選考が長引いたことには、候補作に上がっていた別の作品、岩城けいの『さようなら、オレンジ』の評価が真っ二つに割れていること、山下澄人の『コルバトントリ』の評価が割れていることに起因するのではなかっただろうか。

指標:選考長引き度★★★★★/不穏度★★★★☆/日常の奇妙さ★★★★★

■3)第151回『春の庭』柴崎友香

春の庭


発表まで2時間29分。静かな小説ほど、評価は簡単に決まらない。

 第151回芥川賞は、17時に選考が始まり、19時29分頃に発表された。受賞作は柴崎友香『春の庭』。離婚後、古いアパートで暮らす男性が、隣人の女性とともに、かつて写真集に載っていた一軒家に惹かれていく物語である。大きな事件よりも、場所に残る記憶、人と人の距離、失われていく建物へのまなざしが中心にある。派手な展開で読ませる作品ではないからこそ、何を評価するかが問われる。選考会が2時間半に及んだことも、静かな小説の強さをどう受け止めるかの議論があったからだろう。

 選評会では、山田詠美氏が「目の良い書き手には、本来見えないものも映し出せる。いえ、映ってしまうので、文字として現像してしまうのである。柴崎さんは、そういう稀な小説書きに思える」と評価する一方で、村上龍氏は、本文中の「アパートは、上から見ると“「”の形になっている」という箇所に着目し、作家にとってもっとも重要で、ほとんど唯一の武器である描写をないがしろにしているのではないかと、厳しい意見を送っている。

 また、村上龍氏が選考時間に直接言及しているので引用する。「今回の選考会はいつもと比較してかなり長い時間を要した。だが、個人的な感想として『白熱した議論が交わされた』という印象はない。どの作品からも、切実さが感じられなかった。この『生きづらい社会』で、伝えるべきこと、つまり、翻訳すべき無言の人々の思いが数多くあると思うのだが、どういうわけか、『不要な洗練』『趣味的』という二つの言葉が、全体的な印象として残った」

指標:選考長引き度★★★★☆/静かな余韻度★★★★★/場所の記憶度★★★★★

■4)第153回『スクラップ・アンド・ビルド』羽田圭介/『火花』又吉直樹

スクラップ・アンド・ビルド


火花


発表まで2時間25分。“火花”の社会現象だけでは語れない、白熱の回。

 第153回芥川賞は、17時に選考が始まり、19時25分頃に発表された。受賞作は羽田圭介『スクラップ・アンド・ビルド』と又吉直樹『火花』の2作である。『スクラップ・アンド・ビルド』は介護や家族関係を通して若者の鬱屈を描き、『火花』は売れない芸人の徳永と先輩芸人・神谷の関係から、才能と笑いの残酷さを描く。選評の概要では、最初の投票で複数作が差のない点数で残ったことも記されている。芸人作家の受賞で注目された回だが、実際には候補作同士の評価が拮抗した、かなり熱い選考だったのだろう。

 選考会では、宮本輝氏が候補作の全体観として「最初の投票で、『ジミ・ヘンドリクス・エクスペリエンス』『スクラップ・アンド・ビルド』『火花』がさほど差のない点数で残った。競馬に譬えれば鼻差であろう」と語り、高樹のぶ子氏は「今回はレベルの高い候補作が揃った」と話している。

『ジミ・ヘンドリクス・エクスペリエンス』に対しては、小川洋子氏が「滝口さんにしか生み出せない独自の光を放っていた」と評価し、奥泉光氏が◎で推していた。受賞作に加えて、この3作で悩んだ選考会だったのだと思われる。

指標:選考長引き度★★★★☆/社会現象度★★★★★/候補作拮抗度★★★★★

■5)第157回『影裏』沼田真佑

影裏


発表まで2時間24分。友人の“裏側”をめぐる静かな不穏が、受賞作となった。

 第157回芥川賞は、17時に選考が始まり、19時24分頃に受賞作が発表された。受賞作は沼田真佑『影裏』。岩手に赴任した主人公が、同僚の男と親しくなるが、やがて彼の別の顔や行方を追うことになる物語である。人はどこまで他人を知ることができるのか。親しいと思っていた相手の裏側に触れたとき、自分が見ていた姿は何だったのかと困惑してしまう。派手な事件よりも、わからなさが静かに深まっていく。2時間を超える選考の末に選ばれたことも、この作品の読後に残る“割り切れなさ”と響き合っているだろう。

 第157回芥川賞候補作はなんと4作。通常は5作、多いと6作が候補になる中、4作が候補作だった。だが選考会は2時間超え。これには少し驚いた。受賞作は沼田真佑の『影裏』だったが、もう一作肉迫したものがあり、それが今村夏子の『星の子』だったのだ。ちなみに今村夏子は『むらさきのスカートの女』で第161回芥川賞を受賞している。

 選考会では、山田詠美氏が「まるで、きらきらと輝く接着剤のような言葉で小説をまとめ上げて行く。うまいなー」と◎、小川洋子氏が「いかに書かないで書くか、という根源的な問いをはらんでいて興味深かった」として◎を送っている。一方で、村上龍氏は「作者の描写力は新人の域を超えている」としたが評価は■と厳しかった。

指標:選考長引き度★★★★☆/不穏な余韻度★★★★★/人間のわからなさ★★★★★

 選考会が長引いたからといって、必ずしも大荒れだったとは限らない。だが、発表までに2時間以上かかった回には、どの作品を推すのか、複数受賞にするのか、候補作の新しさをどう評価するのかといった迷いがあったはずである。今回紹介した作品には、家の記憶、日常の違和感、芸人の青春、介護、友人の裏側など、簡単には言い切れないテーマが並ぶ。速報の遅さは、文学をめぐる議論の濃さでもある。発表を待つ時間まで想像しながら読むと、芥川賞受賞作の見え方が少し変わるだろう。