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 高校野球界の頂点を味わった男が、次の頂点を目指す。大阪桐蔭(大阪)の主力として、2012年の甲子園大会春夏連覇を成し遂げた安井洸貴さん(31)は現在、ビジネスの世界で奮闘している。関大時代の同級生でロッテ・松山秀明1軍チーフ内野守備走塁コーチを父に持つ、松山和哉さんが立ち上げた「FK.relations」(https://fkrelations.co.jp/)に所属。アスリートの就職、転職支援に奔走している。紆余曲折(うよきょくせつ)を経てたどり着いた、次なる頂点を目指すためのスタート地点。高校時代の恩師の言葉、そして運命をともにする親友の存在を胸に刻み、着実に歩を進めていく。(取材・構成 櫻井 克也)

 運命の歯車が動き始めたのは24年の8月だった。関大卒業後は野球から離れ、商社に就職。三重県で安定した生活を送っていた。ある日、卒業後は1度しか会っていなかった友からの電話が鳴った。大学でともに戦った松山和哉さんからの突然の連絡だった。

 「俺は会社を辞める。一緒に会社をやらないか?」

 唐突なオファーにも関わらず、結果は即答だった。「やろう。面白そうやな」。人生を左右する決断だけに、時間をかけ、状況を整理して考えなければならないことは頭の中では分かっていた。だが「同意」は反射的に口を突いて出た。

 「いろいろ自分の人生を考えていた、そのタイミングで、たまたま電話がかかってきたんですよね。松山だから即決…ということではなく、こういうタイミングで連絡をしてくるのは、きっと松山くらいだろうと思って、気付いたら即決していました」

 関大時代、硬式野球部で主将だった松山さんを副主将として支え続けた。野球も遊びも、何をするときも常に一緒にいた。卒業後は勤務地が離れていたため、会ったのは1度だけ。それでも30歳を目前にかかってきた電話に体を突き動かされた。

 野球一筋に打ち込んできた人生だった。大阪府堺市出身。幼少時から野球に熱中した。08年夏の甲子園大会で大活躍し、チームを優勝に導いた浅村栄斗(楽天)に憧れ、高校は名門・大阪桐蔭に進んだ。同校では2年の秋からレギュラーを獲得。春の甲子園大会は主に5番として全5試合に出場し、20打数6安打3打点の活躍で同校初めてのセンバツ優勝に貢献した。夏は全5試合に「5番・左翼」でスタメン出場。14打数6安打4打点を記録し、同校初の春夏連覇を達成。同級生の藤浪晋太郎、1学年下の森友哉のバッテリーが注目されたチームだったが、春夏計10試合全てで安打を放ち、うち6試合で打点をマークするなど、勝負強さはチームでも随一だった。

 高校球界最高峰の舞台で打撃力を発揮し、チームを優勝という最高の結果に導いた。多くの高校球児が考える「プロ」への道。だが、安井さんの頭に、その選択肢はなかったという。

 「子供の頃から、プロに行きたいという感覚はなかったですね。現実的に考えていたっていうか。中学生になった時、周りを見渡して“自分、ある程度打てるな…”くらいの気持ちは持ってましたが、でも凄い選手が多すぎたんですよ」

 所属していたボーイズリーグ大阪阪南支部。同地区には、後にプロの門を叩く選手が数多くいた。「藤浪もそうですけど、森友哉がいたり、光星学院(現八戸学院光星)から阪神に入った北條(史也)、ロッテに入った田村(龍弘)。こういう選手がやっぱりトップ層でプロに行くんだろうな…みたいな感覚がありましたね。もちろん、彼らに勝ちたいと思ってがむしゃらに練習はしましたが、頑張って何とかなるレベルではないと思ってしまって…」。もちろん必死に努力を重ね、実力を磨いた。だがどこかで自らの「限界」を感じてもいた。

 それは高校入学後も変わらなかった。同級生には、後に4球団からドラフト1位指名を受け、阪神に入団した藤浪晋太郎、立大進学後にオリックスに入団した沢田圭佑。1学年下に西武からドラフト1位指名を受けた森友哉がいた。「藤浪もそうですが、大阪桐蔭は全員が凄い努力をする集団なんですよ。みんな仲は良かったです。でも全員が目標を達成するために、物事に真剣に取り組んでいるので、少しでも手を抜くと目立つし、すぐに浮いてしまう」と振り返る。努力を重ね、レギュラーを獲得した。そして継続的な活躍で、母校を甲子園大会春夏連覇に導いた。それでも「プロとかは考えられなかったです」と気持ちは変わらなかった。

 理由は1学年下の“天才”の存在だった。「近くで見ていたので、すべてが“森基準”になってしまうんですよ。こういう才能のある選手が1位でプロに行くんだ、こういう選手じゃないと1位にはなれないんだっていう感覚があって、それに比べると自分は全然足りないって」。プロの道は遠くに感じてはいたが、野球自体は大好きだった。大好きな野球を続けること、そして努力を続け、選択肢を増やすことを目的に関大へと進んだ。

 関大では大学1年の春からベンチ入り。主力として活躍した。野球を職業にすることを最優先に考え、4年時にはチームを持つ社会人からも複数の内定をもらった。だが、進路決定間近で自分の実力に疑いを持ってしまう。「上のレベルでもやれる自信はありました。でも同時に本当に通用するのだろうか?という気持ちもあって…。そういう中途半端な気持ちで行かせてもらうことに申し訳なさを感じたので」。最終局面で迷いが生じた。逡巡した後、大学4年の冬に野球を続ける選択肢を自分の中で断ち切った。

 1年の留年を経て、商社に就職。仕事に全力で取り組み、結果も出した。人脈も広がり、地域の子供たち向けの野球教室も開催するなど、私生活の充実度もあった。そんな中、ふとしたはずみで思い出したのが、高校時代の恩師、大阪桐蔭・西谷浩一監督の言葉だった。

 「野球の技術的なこととかは、あまり覚えていないんですよ」と苦笑いしつつも「でも野球や生活に対する取り組み、姿勢ですよね。そういう部分でかけられた言葉はハッキリと覚えています。先のことを考えるのではなく、一日一日、全力を尽くして、次の日を迎えよう。それが結果的に先につながっていく、と」

 果たして自分は日々、全力を尽くしているのだろうか?穏やかな日常に安穏としてはいないか?様々な疑問が頭の中を駆け巡った。そのタイミングで松山さんからの電話はかかってきた。

 立ち上がったばかりの新しい会社。現在、社員は2人しかおらず、社長の松山さんが既卒、副社長の安井さんが新卒の就職支援を担当する。大好きな野球も、穏やかな日常も全てに一区切りを付けて、ビジネスの世界の荒海に飛び込んだ。今後の目標については「ないです」と言い切る。あえて目標は持たない。そこには、やはり恩師の言葉に影響された信念がある。

 「一日一日、全力で取り組んで、新しい日を迎えたいので。高校野球だったら“甲子園優勝”が一つ、天井のような目標にはなるんですが、会社ってどこまでいっても天井がない。なので、最終目標となったら“どこまでも行く”ですね」

 信頼できる友と歩む道。成功も失敗も、2人の働きが決める。もう自分に疑問を持つことも、諦めることもない。今日という日を必死に生き抜き、新しい1日を迎える。高校野球の頂点を知る男は「見えない頂点」に向かって、全力で走り始めた。