第八章 十九世紀産業革命と社会の変貌/純丘曜彰 教授博士
1 蒸気機関の実用化
一八世紀に入ると、発明家たちによってさまざまな機械が創造されましたが、しかし、その多くは当初は水力を動力源とし、河川流域にしか作ることができませんでした。また、そもそも、機械を作る鉄工業も、木炭を燃料としており、溶鉱炉一基を稼働するために、一年でおよそ一キロ四方もの山林を伐採しなければならなかったのです。このように、最初の「工業」がいかにまだ農業的なものであったか、よく考えなければなりません。というのも、工業が本当に工業的になるには、まだまだ多くの条件の成立を必要としているからです。
産業革命の原動力となってくる蒸気機関はどうかと言うと、それはすでに一六九八年には早くも発明されてはいるものの、当初はあまりに効率が悪く、使いものになりませんでした。一七〇五年、ニューコメンによって改良されて効率は良くなっても、それほどの使い道はありませんでした。
しかし、展開の端緒は思わぬところから開けるものです。そのニューコメンの蒸気機関のボイラーを作っていた鉄工業者ダービーは、木炭ではなく、石炭を乾燥させてガスやタールを飛ばしたコークスの強い火力を溶鉱炉に使うことを考えたのです。とはいえ、それが常用されるまでには、その息子とともにさらに半世紀もの改良を重ねなければなりませんでした。しかし、このことは、それまでたかだか家庭用燃料でしかなかった石炭を工業燃料へと引き上げ、一気に需要を増やしました。そして、その石炭からできるコークスを使って作られた蒸気機関は、炭坑の地下水の揚水ポンプに利用されて、さらに石炭を増産できるようにしていったのです。
さらに一七六五年、ワットが蒸気凝縮器を独立させることで、蒸気機関の効率を飛躍的に高め、四年後には、その製造工場を設立しました。しかし、それも当初はいまだ手工業に近いものでした。というのも、いまだ充分な工作機械がなかったからです。一七七四年に、ジョン=ウィルキンソンによってようやく大砲やシリンダーを製作するための中ぐり旋盤が考案され、また、一七八二年に、ワットがさらに蒸気機関を複動回転式へと改良して後はじめて、蒸気機関が量産され、製粉や紡績などのさまざまな工業の原動力として応用されていくようになるのです。
2 近代量産主義の端緒
近代の開始を決定づけた綿繰機は、ホイットニー自身をとりたてて裕福にすることはありませんでした。むしろ、その六年後の一七九八年に、彼がジグ、すなわち、工作機械を正しく誘導するための補助機構を発明したことこそ、彼の人生の成功をもたらし、近代産業の量産主義を重ねて決定的なものとしました。というのは、このジグこそが、同一部品の量産を可能にしたからです。量産部品の互換代替性、これこそ、その後の世界を決定づける近代産業社会の哲学でした。
彼は、まずはじめにこの技術を使って小銃を量産することにし、アメリカ軍から一万丁受注の契約を結びました。しかし、なにぶんこのような大量生産など、歴史始まって以来のことです。工場の建設や調整に手間がかかり、二年以上かかってできたのは、わずか五百丁にすぎませんでした。それでもアメリカ軍は、その部品の互換代替性という発想を高く評価し、期限を延長した上に、その代金十三万四千ドルも先払とすることにしました。そして、アメリカがナポレオン戦争に対英参戦した一八一二年には、米軍との二度目の契約で一万五千丁もの受注を取り付け、ホイットニーは軍需産業の一大財産家へと成上がっていったのです。
そのしばらく前の一七九四年、混迷するフランス革命の中、いまだ急進ジャコバン派の砲兵士官にすぎなかったナポレオンは、予想されるヨーロッパ各国との長期戦のために、一万二千フランもの賞金を掲げて食料保存方法を公募します。これを聞いたパリの菓子職人アーペルはこの研究に没頭し、十年後の一八〇四年、真空の瓶詰工場を造り、皇帝となったナポレオンから先の賞金を得て、軍隊用食料の加工を始めます。そして、その後、一八四七年、金属の打抜き技術によって缶が量産され、主流は瓶詰から缶詰へと移っていきます。いずれにしても、この真空保存法は経験的なもので、その原理の解明は、十九世紀後半のパストゥールの研究を待たなければなりません。
ところでまた、ミシンは、一八二九年、フランスのティモニエが発明しました。彼は、さっそくにフランス軍の大量の制服を受注して、そのために八十台の機械を揃え、生産を始めようとしますが、失業を恐れた仕立屋たちの暴力的な妨害を受けることになってしまいました。
しかし、こうして、同じ小銃を持ち、同じ制服を着、同じ瓶詰を食べる軍隊が登場してきます。そして、これこそ、その後の均質的な大衆の姿の原型ではないでしょうか。
このように、工場とは名ばかりの水車小屋の手工業から、煙突から蒸気機関の煙をもうもうと上げ、自動的に製品が量産されてくる今日のイメージの大工場の機械工業の入口へたどりつくころには、すでにもう十九世紀も半ば近くとなってしまっていました。イギリスは、たしかに産業革命の助走において、はるかに先んじてスタートしましたが、産業革命は、農業から工業への産業全体のシフトを要するために、すべての条件が整うころには、他の国々もすぐ後に追いついていたのです。たとえば、一七七六年のアメリカ独立宣言の時にはすでに、アメリカの溶鉱工場の数は、イングランドとウェールズの溶鉱工場の数を合わせたよりも多くなっていました。そして、逆に、一八世紀末のイギリスにおいても、動力機械による工場など、わずかに数えるほどしかなかったのです。
3 交通革命?:土木
戦争の中で、各国とも鉄の量産が本格化していきます。鉄の量産は、まず、土木を変えました。とくに意味を持ったのは、まさに未開の広大な大地を有していたアメリカででした。
マサチューセッツの鍛治屋ジョン=エームズは、一七七四年、棒鉄からシャベルを量産し始めました。その息子のオリバー=エームズは、一八〇三年、事業を拡大し、シャベルのほとんどすべてのシェアを握りました。そして、そのシャベルこそが、アメリカの運河を開削し、鉄道を建設したのです。さらに、その孫のオークス=エームズは、アメリカ横断鉄道の西半分であるユニオンパシフィック鉄道の建設業者のひとりとなり、その鉄道のために公有地から木材や石材などの建設資材を自由に調達する権利を得、一八六二年には、下院議員に当選することになります。
また、コネチカットでイギリス製の鋼鉄輸入店を開いていたコリンズ兄弟は、一八二六年、自分たちで鋼鉄の鍛造を始め、機械化によって月四万丁もの斧の量産を確立しました。そして、その斧がその後一世紀以上に渡って、アメリカの原野を、そして、熱帯のジャングルを切り開いていったのです。鉄、そこには、良くも悪くもアメリカの夢がありました。
そして、鉄は橋となりました。一七八一年、中ぐり旋盤を発明したウィルソンの設計、コークスを製鉄に利用したダービーの孫のダービー三世の製作によって、イギリスのブリストル海峡にそそぐセヴァン川に鉄橋を架けました。たかだか三〇メートルのものですが、それが世界最初の鉄橋で、町の名も「アイアンブリッジ」と変わったのです。また、一八〇〇年には、アメリカのペンシルヴァニアに世界最初の鉄鎖の橋が、さらに、一八二五年には、フランスのリヨン近郊に世界最初の鋼鉄ケーブルのつり橋ができました。一八二〇年にはトラス橋が考案され、三一年には現在のロンドン橋が完成しました。また、もう少し後のことですが、一八四九年、ハンガリーの二つの都市の間に鎖橋が架けられました。すなわち、ドナウをはさんだブダとペストの町です。今日、ドナウの宝石と呼ばれるブタペストも、その橋によってこそ作られたのです。
4 交通革命?:水運
鉄によって作られる蒸気機関は、その実用化のはるか以前から、馬に代わる新たな交通動力として着目され始めていました。ワットが機関を改良していた一七六五年には、早くもフランスのキューニョーが蒸気機関を動力とする自動車を発明しています。それは、人間の歩く程度の速さで大砲を牽引できましたが、一度に三〇メートルしか進めないしろものでした。一方、蒸気船は、アメリカで、一七八七年、フィッチとラムゼーがそれぞれ独立に発明しました。しかし、フイッチの船はオール式、ラムゼーの船はポンプ式で、実用にたるものではありません。その後、主流となっていく外輪式の蒸気船は、翌年スコットランドのサイミントンが発明したものです。また、この年、スティーブンズが蒸気船のための多気筒機関を発明し、一八〇四年には、スクリュー式の蒸気船も進水させています。
蒸気機関が最初の実用化された乗物は、一八〇七年のフルトンの蒸気船でした。その外輪式のクラーモント号は、政治家リビングストンの資金で制作され、イギリスのワット商会の機関を搭載し、アメリカのハドソン川のニューヨークとオルバニーとを三二時間で航行する定期便となったのです。また、ヨーロッパでも、イギリスはスコットランドのクライド川で、ヘンリー=ベルがコメット号の運航を始めます。しかし、このコメット号はわずか三馬力しかなかったことからも、当時の蒸気船がどの程度のものだったのか、想像がつくことでしょう。しかし、その後、数十年のうちに、とくにアメリカの川や湖の各地で定期蒸気船が就航するようになり、顧客競争をするほどになります。
外洋においては、一八〇九年、スティーブンスの作った外輪船フェニックス号がモージス=ブラウン船長によってニューヨーク沿岸の航行し、その十年後の一八一九年、同船長によってアメリカの外輪帆船サバンナ号がジョージア~リバプール間の大西洋横断に成功してはいます。しかし、サバンナ号の約四〇日の航海中、機関を動かしたのはわずか八十時間あまりでしたし、九〇馬力もの機関の爆発を恐れてか、乗客はひとりもいませんでした。実際の外洋定期運航は、イギリスの世界最初の鉄製船で蒸気機関を積んだアーロン=マンビー号が一八二二年からロンドン~パリ間に就航したのが最初でしょう。しかし、これも油や鉄を運ぶ貨物船でした。
むしろ、この時代の外洋の花形はなんといっても大型高速帆船です。産業革命とともに世界をまたにかけて始まった三角貿易で、この大型高速帆船が、中国茶を英国へ、英国綿製品をインドへ、インドアヘンを中国へ運んでぼろもうけするようになっていったことは有名でしょう。しかし、この大型高速帆船が実際に最も活躍したのは、ホイットニーの綿繰機によって急成長したアメリカ南部の綿花をイギリスの紡績工場に運ぶ仕事でした。そして、このルートの確立によって、アメリカ南部の奴隷需要も一気に急増し、そして、ここでも大型高速帆船は活躍したのです。イギリスでもアメリカでも、十九世紀初めには名目上は奴隷貿易を禁止していますが、その奴隷船はいまや軍艦よりも速く、各国とも黙認せざるをえません。このように、アメリカは綿花を売って奴隷を買い続けたのです。
5 交通革命?:陸運
ところで、アメリカにおいて、フルトンとリビングストンがすでにニューヨーク州内の蒸気船の二十年間独占権を握ってしまいました。これに遅れをとったスティーブンズは、やがて内陸の鉄道をめざすことになります。そして、一八一五年、彼はニュージャージ州から最初の鉄道敷設許可を取り付けます。そのころ、すでにイギリスでは、ジョージ=スティーヴンソンがキリングワース炭坑の石炭鉄道に蒸気機関車を利用し始めていました。そして、彼は、鉄橋などの最新土木技術を駆使して、一八二五年、ストックトン~ダーリントン間約四五キロの市街鉄道を開通させました。そのアクティヴ号が牽引する列車構成には、客車六両、貨車六両の他に、労働者用貨車が十四両も含まれていたことは注目すべきでしょう。鉄道は、娯楽のためではなく、その最初からまさに大衆の乗物として運行されたのです。ロンドンの乗合馬車が走り始めたのが、その四年後の二九年であることから見ても、このことは驚くべきことです。そして、その二九年には、同じイギリスで、早くも乗合蒸気自動車が登場してしまっているのです。
アメリカでは、一八二八年、メリーランド州でボルティモア=オハイオ鉄道建設が始まります。とはいえ、それは、当初はまだ、鉄路を馬車が走る予定でした。そして、一八三〇年、鉄道の歴史的な勝負が行なわれました。すなわち、その前年に、かのホイットニー小銃の廃材からボルティモア=オハイオ鉄道の工場で組み立てられたクーパーの親指サム号が、馬車と競争したのです。最後の瞬間に滑車のベルトがはずれ、おしくも親指サム号は敗れたものの、この競争は、あきらかに汽車の勝利を示していました。そして、ボルティモア=オハイオ鉄道には、馬車ではなく汽車が走ることになったのです。
このボルティモア=オハイオ鉄道は、もうひとつの重要な勝負を秘めていました。すなわち、その建設が始まった一九二八年には、同じく大西洋と五大湖とを結ぶチェサピーク~オハイオ運河もまた開削が始まったのです。いずれにしても、この交通路の間には、アパラチア山脈につながるアレゲニー台地が広がっていました。そして、この台地を越える運河と鉄道の競合は、十八世紀的な水運と十九世紀的な陸運の最後の決戦となっていきました。そして、結果はあきらかでした。一八三〇年、鉄道ははやくも第一区間を完成し、四二年には台地上のカンバーランドまで達したのに対して、運河はそれに八年も遅れたのです。もとより財政難の重なっていたその運河は、そこでもはや放棄されてしまいました。
また、一九三〇年、蒸気船から機関車に転向したジョン=スティーブンズの親子が、T型線路、犬釘、接続板などを開発し、線路の標準化を図りました。そして、イギリスでも、三〇年には、工業都市マンチェスターと港湾都市リヴァプールとの四十五キロを結ぶ鉄道が営業を始めています。このように、一九三〇年、この年に鉄道の時代が始まったのです。そして、その後、フランスは三二年、ドイツ、ベルギーでは三五年、カナダでは三六年、ロシアでは三八年、オランダ、イタリアでは三九年と、次々、各国で鉄道が開通していきます。
鉄道は、経済構造そのものにおいても一大変革をもたらしました。すなわち、それは、一資本家が手がけるには、あまりに巨大事業だったのです。すでに十八世紀末以降のアメリカにおいて、五千人以上もの投資家による有料道路や有料運河が建設されて始め、ナポレオン戦争後は、アメリカ政府もこの民間プロジェクトに協力すべく、陸軍工兵隊を従事させたり、無償で用地を払い下げたりして、官民一体の富国強兵策が採られていました。こうして、一八二五年、ニューヨーク株式取引所がオープンしますが、その名柄は、ほとんどがこの種の公共事業株でした。そして、その後、この株式会社制度を引き継ぎ、大いに発展させていったのが、鉄道だったのです。株式会社制度は、鉄道とともに育ったと言っても過言ではありません。もっとも、鉄道そのものは、その後、その軍事・経済的重要性から国有化されることも多くなっていきました。
このように、十九世紀初頭に、鉄の量産をきっかけとして、湖川・運河では蒸気船が、外洋では高速大型帆船が、内陸では汽車鉄道が活躍し、世界中に交通網が建設されるようになっていったのです。ただし、産業の中心は、あくまで綿製品などの半農半工的なものであり、いわゆる工業社会とはほど遠いものでした。
6 最初の世界不況
このような鉄によるめざましい国土の変貌の一方、社会も大きく変質を遂げつつありました。というのも、ナポレオン戦争によって、産業革命の様相は一変してしまったからです。戦争も終わって、軍隊の大量の需要もなくなった今、各国ともに、完全に物資の生産過剰となってしまったのです。加えて、何十万人もの除隊者が、失業者として帰国してきました。そして、なにより、気候のせいか、戦争のせいか、この時期、ヨーロッパの人口そのものが爆発的に急増してしまいます。アメリカはただちに二五パーセントもの関税をかけて、自国の産業の保護に乗り出しました。それでも、次第に不況は深刻化していき、三七年、綿花輸出業者の倒産をきっかけに、金融恐慌となって数万人もの破産者を出し、さらにその不況は、ヨーロッパにも広がっていったのです。
産業革命は、イギリス一国で進行し、そこだけが世界の工場であったうちは、まだ幸せでした。ナポレオン戦争後、アメリカもフランスも、そして、後にはドイツもロシアも、同じように世界の工場たるほどの生産力を獲得してしまいました。この生産過剰は、イギリスやフランスでは弱小な農家や手工業者を没落させ、都市の賃金労働者に変えていきました。それも、戦後の労働力の供給過剰によって、むしろ劣悪な労働条件に落ちていったのです。そして、このことは、国民一般の購買力を低下させ、さらに多くの弱小な農家や手工業者を没落させていきます。
彼らは、もはや田舎では生活できませんでした。そこには、もはや土地も職もないからです。そこで、全財産を処分して旅費を都合し、徒歩で、また、ようやく整備された鉄道などを使ってとりあえず都市へ出てきます。しかし、都市でも状況は似たようなものでした。しかし、もはや彼らは帰ることもできないし、帰る所もないのです。こうして、曲がりくねった狭い路地、悪臭と汚水、窓ガラスもなく傷んだアパート、このようなセントジャイルズの「貧民窟」が、まさに繁栄を誇るイギリスの首都ロンドンの真ん中に出現したのでした。
イギリスでは、すでに一六〇一年に「救貧法」、すなわち、貧者を救済する「慈悲深い」法律が制定されていました。それは、つまり、教区内に住む貧者はその教区が扶養する、というものでした。しかし、それは近代以前の、社会の固定した近世にこそふさわしい法律でした。近代になってこのように多くの貧者が都市に流入してくるようになって何が起こったかと言えば、都市の人々は、とにかくこのような扶養義務を生じるような流入貧者を少なくとも自分の教区には住まわせないように奔走したのです。つまり、流入してきた貧者を買収し、ひそかに他の教区へと追放し、その扶養義務を免れようとしたのです。もちろん、たしかに都市では地方よりは労働力を必要としていましたが、しかし、教区に定住させないために、一年奉公という古くからの慣習の方が放棄されてしまいました。つまり、せいぜい短期にしか雇用しなくなってしまったのです。このようにして、貧者の誰ひとりこの救貧法で救済されることなく、それどころか、この法律のためにかえって安定した定住も就職もできず、結局は「貧民窟」に暮し、日々仕事を求め歩くしかありませんでした。
一方、工場主、商店主、家主などの中には、この産業革命周辺の製造・販売・賃貸等に関与することで、小銭を貯める人々も出てきます。これに応じて、ナポレオン戦争の前後に、イギリス、次いで、アメリカで貯蓄銀行が、また、フランスでは供託局がいくつかできます。一七九九年、イギリスのバッキンガムにできた最初の貯蓄銀行は、「最大多数の最大幸福」を唱えた弁護士にして哲学者のジェレミー=ベンサムの助言に基づくものでした。もちろん、銀行は、アムステルダムでは一六〇九年に開行し、イギリスでも、イングランド銀行が一六九四年にはできていますが、これらは基本的に通貨の交換ないし保証のためのものです。人々の小銭を預金として受け付け、代わって投資して利子を付ける銀行は、ようやくこのころ普及していったのです。
父親の仕事の失敗で小学校も卒業しないままに靴墨工場で働かなければならなかったこともあるチャールズ=ディケンズは、やがてロンドンの新聞通信員となり、一八三六年、二四歳で小説を書き始めます。さらに、彼は、『オリバー=ツイスト』を雑誌に連載し、読者の支持を得、社会派の小説家としてのゆるぎない地位を獲得します。その小説の主人公オリバーは、ロンドンの貧民窟の純心な孤児であり、その翻弄される運命とともに、犯罪者ビルや娼婦ナンシー、盗品流しのフェイギンなどを通じて、貧民窟に暮す人々の姿をせきららに描写し、政府の救貧法の欺瞞を暴きました。
さらにまた、四三年、彼は『クリスマスキャロル』で、小市民の商売人スクルージを描き出します。クリスマスに食べるものも着るものもない人々ための寄付を求める紳士に、このスクルージは「監獄があるじゃないか」と答え、「怠け者のための金のゆとりなんて、わしにはないんだ。施設の維持費は、わしだって出してるんですぞ。」と開き直り、「施設に行くくらいなら死んだ方がましだなどと言うなら、死んであり余る人口を減らしてくれても結構だね。」と言って追い返します。それでも、紳士が「でも、あなたは問題がおわかりでしょう。」と言葉をはさむと、スクルージは「それは、わしには関係ないこと。自分のやっていることがわかっていたら、他人のことなんか口出ししている暇はないんだ。」と得意げに言い返すのです。小説に誇張されているとはいえ、これが、小金を持つ小市民たちの誰もの心にひそむ本音の一端だったことでしょう。多少の金もまた、この時代には心の貧しさを深めるだけでした。
7 新大陸アメリカ
アメリカでは、戦後の大量の余剰国民が、西部という広大な未開拓地へと向いました。それゆえ、英仏ほどのひどい社会問題は生じませんでしたが、しかし、それだけに、ようやく芽ぶき始めた北部の産業は、英仏のような安い労働力を得られず、いつまでも国際競争力がつきません。また、南部も、再開したイギリスへの綿花輸出に、いくら奴隷を輸入しても追いつかないほどだったのです。だから、アメリカでは、ヨーロッパでは解放が進むのに逆行して、奴隷を非合法に増やし続け、南北戦争直前には四百万人ともなり、南部の人口の三分の一以上を占めるほどになります。
ヨーロッパの人々にとっては、新大陸アメリカそのものが、格好のフロンティアでした。高い船賃をなんとか都合できた人々は、都市よりもアメリカをめざしたのです。また、ナポレオンによって自由主義の洗礼を受けながら、その運動の挫折してしまったドイツなどからは、中産階級以上の人々も、自由の夢を賭けて、少なからずアメリカへ亡命していきました。また、このころから、もとよりアジア各地に進出していた中国人華僑のアメリカ移住なども始まります。
とくにこの時期に注目を引くのは、アイルランド移民です。国土のやせたアイルランドでは、南米から輸入されたじゃがいもによって、どうにか生活が可能になり、人口が百年で五倍にも増えていました。ところが、このころ、そのじゃがいもがいっせいに病気にかかってひどい飢饉となってしまったのです。彼らは、もはや新大陸をめざすしかありませんでした。一八四〇年だけでも二十万人以上がアメリカに渡っています。かのケネディ大統領の祖先も、このようなアイルランド移民船に乗ったひとりでした。そして、彼らが、新大陸においてもカトリックの伝統を引き継いでいくのです。
こうして、南北戦争までに、さまざまな国からアメリカへの移民は総計数百万人にも達することになります。そして、彼らは、できたばかりの鉄道に乗って、広大な土地西部へと向いました。こうした新大陸内外の移動には、四八年、西の果て、カリフォルニアで金が発見されたことでさらに拍車がかかりました。いわゆるゴールドラッシュです。
しかし、言うまでもなく、アメリカは、所有者なき土地であったわけではありません。詭弁と物資と実力で、インディアンを西に追いやればこそ、そこに所有者なき自由なフロンティアが作られたのです。その罪悪感は、やがて、アメリカ人たちに、土地を奪われたイギリスとインディアンが東西両面から攻めてくるという脅迫妄想を生み出しました。そして、その妄想は、イギリスがナポレオン戦争に参戦して大陸封鎖を試みたことにより現実味を増し、一八一二年にはついに、アメリカは対イギリス・インディアン戦争を開戦してします。これは、インディアンの側にしてみれば、まったく突然の悪夢としか言いようのない悲劇でした。いくら誇り高く勇敢なインディアンでも、戦争として武装した何万もの兵隊がいきなり押しかけてきたのでは、太刀打ちできません。このために、彼らは、大河ミシシッピー以西に逃れなければなりませんでしたが、その逃亡の間に一万四千人のうちの四千人もが死ぬことになってしまいました。
そして、その後も、犯罪者が被害者を殺して口を封じるように、政府は、土地を求める移住者の声に従って、何億ドルもの資金を投じて繰り返しインディアンの土地を侵略しました。そして、その侵略は、ジェロニモ率いるアパッチ族を八六年に降伏させるまで続き、その後もなお、第一次大戦の始まる一九一四年まで、彼らを囚人として留置したのです。しかし、移民の増え続けるアメリカは、西部の広大な土地の必要性を、その罪悪感ゆえの脅迫妄想で自己完結的に最後まで正当化してしました。これは、後に見るように、運命説と陰謀説とからなる大衆的発想の典型的な一例と言うことができるでしょう。
8 平等で険悪な社会
さて、産業社会において、工場では、次第に水力や蒸気による機械化が進み、また、流れ作業として分業化されていることもあって、そこでの作業は、婦人や子供でもできる体力も技能もいらない単純反復労働になっていきます。そして、ここでは、誰もがみな、性別も年齢も関係なく均質で代替可能な「労働者」となるのです。
では、その雇用者の方は、個性豊かな生活を送ったか、というと、そうでもありません。彼らにしても、とりあえず作っている商品と言えば、繊維とか、鉄鋼とか、鉄道とか、きわめて種類が限られていました。そして、技術の進歩は、今日に比べればきわめて緩やかでしたから、他人との差別化など図りようもありません。ましてや、ようやく登場しつつあった金融資本家の扱う商品ときたら、それは貨幣であり、誰が持ってもまったく同じ価値と意味を持つものにきまっていました。
ヨーロッパ産業社会のような悲惨さはないとはいえ、アメリカにおいても、事情は似たようなものでした。つまり、誰もがただ畑を耕す「農民」になったのです。ここでは土地は有り余っており、誰も小作になる必要はありませんでした。たしかに、新興の産業家や大地主も生れましたが、ヨーロッパのようにぞんざいに使用人を扱えば、奴隷でもない限り、次の日には、みな自分の農園を作りに出て行ってしまったでしょう。
しかし、ヨーロッパにおいても、アメリカにおいても、このようにして成立した近代人たちは、たとえまったく同じ仕事をしていても、まださまざまな経歴を引きずった寄せ集めであり、工場や産業やタウンごとに新たな共同体を築くのには、まだしばらく時間がかかります。いや、それどころか、生産過剰に、同じ工場や産業やタウンの中でも、出身地や元の身分、宗教などによる激しい対立があったのです。
たとえば、「人種のるつぼ」と言われるアメリカにおいても、アイルランド人はカトリックであることをやめませんでしたし、中国人はチャイナタウンで中国語を話し、また、黒人は解放されてもあくまで奴隷扱いで、インディアンは居留区に押し込められました。他人が向上すれば自分が没落してしまう、だから他人を差別する、このように均質な人間ほど他人を差別したがるもの、いや、差別しなければ自分であり続けられないもののようです。そしてまた、それは、誰もが、スクルージのように「自分のやっていることがわかっていたら、他人のことなんか口出ししている暇はないんだ。」と考えている「孤独な群集」の時代の始まりでした。
9 技術企業家
その他大勢の労働者や小市民がこの近代の恒常的革新に翻弄される中、この恒常的革新の波に乗り、波を作った人々は、すでに国際的に活躍をするようになっていました。当時の技術先進国であるイギリスは、一八二五年まで技術者の出国を、一八四二年まで機械や設計図の輸出を法律で禁止していましたが、およそ効果はなく、二五年には二千人以上のイギリス人技術者が国外で働き、四十年の正規の機械輸出だけでも六十万ポンドを越えるほどでした。このように海外でも活躍した技術者の中には、優れた企業家も多く含まれ、たとえば、中ぐり旋盤を考えたり鉄橋や鉄船を作ったりしたウィルキンソンなどもその一人です。また、イギリスのアークライトの工場で修業した技術者サミュエル=スレーターは、二一歳の時にアメリカへ密出国し、かの地での工場生産の基礎を築きました。彼は、記憶を頼りにアメリカでアークライト紡績機を再生したのです。
一方、大陸諸国の企業家たちも、こぞってイギリスへと技術研修に渡航し、また、おおいにイギリス人技術者を工場や学会に招聘しました。また、このような技術吸収には、政府も富国強兵のために協力しました。その第一が、工科学校の設立です。
フランスでは、革命戦争中にあって、生産のための技術者や軍隊のための砲工兵の不足の解消はまさに緊急の課題でした。そこで、国民公会政府は一七九五年、「エコール=ポリテクニーク(理工科大学校)」が設立されます。その資金の不足は、ルーブルの絵画を売却して調達されました。技術というものが、当時それほど必要とされていたのです。そして、その学校の開校直後の名前が「公共事業中央大学校」であったように、いわゆる数学や化学、力学などの理科系学科よりも、むしろ、機械学、土木学、鉱山学などの実学の方が重視されていたのです。そして、この大学校を頂点に、各地に初等中等の技術教育機関が整備され、国家的に技術者の養成が図られました。
このフランスの技術教育制度は、同様に技術を吸収する必要のあったドイツのプロシア王国やザクセン公国においても模範とされ、後に工科大学となるベルリン工業学院以下、各種の工業学校が設立されました。そこでは、フランスのように自主的にイギリスの先進技術を吸収しうる技術企業家は未発達であっただけに、この国家主導の技術普及の意義は、より大きなものとなっていました。
フランスのエコール=ポリテクニークは、その後、十八世紀の貴族学者たちのアカデミーに取って代って、科学革命以後の蓄積した知識を体系化し、先進科学の中心地となって、数学者ポアンカレや物理学者カルノーら、十九世紀の大科学者たちを次々と輩出します。しかし、それよりはるかに重要だったことは、このような工科学校が、フランスにおいても、ドイツにおいても、鉄道業などに進む多くの技術企業家たち、政府や軍隊の中枢を担う多くのテクノクラート(技術官僚)たちを生み出していったことです。そして、このような技術企業家や技術官僚こそが、十九世紀の社会と政治と経済を切り開いていったのです。
10 企業の成立
イギリスにおいて、産業は、資本と技術とを同時に持つ技術企業家が主導的でしたので、そこでの資本は、利潤の再投資を基本とするものでした。そして、とくに、ナポレオン戦争後に世界の工場として国内が全般的に繁栄するに至って、次第に、産業全体の社会的分業が発達していきます。すなわち、諸製造業が少数品種・大量量産でコストダウンを図る一方、仲介業、運輸業、小売業、金融業、保険業、など、製造周辺業務が独立の事業として外化されてくるのです。これらの事業は、いずれもたいていパートナーシップに基づく個人経営的なものでしたが、しかし、このような社会的分業は、いずれの業種においても量的効果を発揮してコストを引き下げ、イギリス産業の国際競争力をますます強いものにしていきました。
一方、イギリスに出遅れたアメリカやフランス、ドイツでは、これに対抗するために、当初からの大量の資本投下を必要としていました。しかしながら、そのような大量の資本を投資できる大企業家など、いまだ存在していなかったのです。この資本の不足を解決するには、ひとつには、外国資本を誘致することです。こうして、イギリスからアメリカやフランスに、イギリスやフランスからドイツに、資本が導かれていきました。資本の不足を解決するもうひとつの方法は、国内資本をかき集めることです。すなわち、それは、株式会社制度などです。とくに巨大な資本を必要とする鉄道などの公共事業は、先にも見たように、株式会社制度の普及に大きく貢献することになります。
こうして、アメリカでもどうにか企業が成立しますが、イギリスのような社会的分業が可能なほど国内経済が成熟しておらず、製造業者は、運送や小売など、その周辺業務まで一手に担うことを余儀なくされたのです。とはいえ、人々の生活は、いずれも開拓民のそれであり、そこで必要とされているものは、先述のシャベルや斧のように、どこでもほぼ同一でした。このため、彼らもまた、イギリスの産業同様、それぞれに少数品種・大量生産によるコストダウンが可能になったのです。
これに対して、フランスやドイツでは、さらに条件が良くありませんでした。都市部はともかく、地方部では、それぞれの地方ごとに市場が分立閉鎖的で、ましてや、ドイツでは、農民層が貧しく、市場たりえるものではありませんでした。このような状況では、製造周辺業務の社会的分業も、少数品種・大量生産もできたものではありません。もちろん、このような国々でも技術企業家は生れてはいましたが、その不足は、商業者や金融業者が企業家として事業投資することで補わざるをえませんでした。しかし、それは、現場での技術の発展を促進するものではなく、せいぜい、かつてからの問屋制工業の延長のようなものでしかありませんでした。
また、このように事業投資する商業者や金融業者すら不足するドイツでは、まず、事業投資する銀行そのものも、株式会社として資本をかき集めて設立される必要がありました。また、国家として必要不可欠な鉱山業や鉄工業などは、やむなく技術官僚によって国営で管理運営されましたが、このことがまた、事業の自由な発展を阻害する原因ともなっていました。
このようにして、各国の経済状況に合せて、それぞれ独自の企業形態が成立してきます。すなわち、イギリス的な技術企業家の個人単一事業企業、アメリカ的な株式会社の大量製造販売企業、フランス・ドイツ的な商業者・金融業者・銀行・国家の投資事業企業です。言うまでもなく、国際市場が成立し、事業が拡大するにつれて、やがて個人企業家の再投資程度では資本は不足するようになってしまいます。こうして、時代は、株式会社や金融資本の時代へと移っていきます。産業革命は、たしかに個人的な技術企業家に始まりましたが、近代に入って、個人の役割はもはや次第に終わりつつあったのです。
Amazon.co.jp: 近世ヨーロッパの思想と社会(改訂版): 哲学とメイソンリーの時代 : 純丘 曜彰: 本
純丘曜彰(すみおかてるあき)大阪芸術大学教授(哲学)/美術博士(東京藝術大学)、東京大学卒(インター&文学部哲学科)、元ドイツマインツ大学客員教授(メディア学)、元東海大学総合経営学部准教授、元テレビ朝日報道局ブレーン。
