認知症の人は「家に帰りたい」という帰宅願望が強く、施設や医療機関から脱走してしまうことがある。どう対処すればいいのか。現役介護士のたっつんさんによる『認知症の人、その本当の気持ち 意味わからん行動にも理由がある』(KADOKAWA)より、介護施設に入所してから毎日「帰る!」と言って聞かなかった女性(84)のエピソードを紹介する――。

■夕暮れ時に響く、終わらない「帰らなあかん」

足立さん(84歳)は介護施設に入所して1週間。夕方になると、そわそわと落ち着かなくなり、「うちへ帰らなあかん」という言葉が口癖のように繰り返されます。

施設の介護スタッフたちは、プロとして、あらゆる言葉を尽くしました。

「足立さん、ここが今日から足立さんのおうちですよ」
「外はもう暗いから危ないですよ。今夜はここに泊まっていってください」

しかし、どんなに丁寧に説明しても、足立さんの決意は揺らぎません。「あかん!」「帰らな、あかんのや!」と、その声は切実さを増すばかり。この「説得」と「拒否」の不毛な応酬に、介護スタッフたちの心にも「またか……」「何を言っても無駄だ」という無力感を少しずつ蓄積させていったのです。

©Tattsun,Natsu kitagawa 2025
『認知症の人、その本当の気持ち』より - ©Tattsun,Natsu kitagawa 2025

■「帰りたい」なら、一度帰ってみる

この膠着した状況で介護士のたっつんさんは、一つの「賭け」ともいえる提案をします。それは、これまでの対応とは180度異なる、まさに逆転の発想でした。

他のスタッフが「どうしたら『帰る』と言わなくなるか?」を考えている中、たっつんさんは、その問い自体を一度手放しました。そして、足立さんの訴えを丸ごと受け入れてみることにしたのです。

ある日の夕方、いつものように「帰らなあかん」と訴える足立さんに、彼はこう声をかけました。

「おうちまで送っていきますよ」

ここには認知症ケアの極めて重要な哲学が隠されています。それは、「否定しない」という姿勢です。相手を頭ごなしに否定し、こちらの要求を押し付けても、反発や混乱を招くことに繋がりかねません。大切なのは、まずその人の世界に寄り添い、その感情を肯定すること。たっつんさんの提案は、まさにその実践でした。

彼は「帰りたい」という足立さんの“感情”を受け止めたのです。その瞬間、足立さんとたっつんさんの関係も変わり始めました。

■「疲れたら一緒に施設に帰る」散歩を続けたら…

こうして、不思議な二人の「家路」が始まりました。家に帰れると信じて、迷いながら歩き続ける足立さんと、その少し後ろを、彼女の安全を見守りながら静かについていくたっつんさん。やがて、たっつんさんの付き添いを心強く感じたのか、足立さんの表情には、それまで見られなかった穏やかな安心感が浮かんでいました。

2時間ほど歩き続けた頃、さすがに疲れた足立さんは、公園のベンチに腰を下ろしました。「大丈夫ですか?」と優しく声をかけるたっつんさん。表情がすっかり落ち着いた足立さんとともに施設へ帰りました。

この不思議な散歩は、一日だけでは終わりませんでした。たっつんさんは次の日も、その次の日も、夕方になると「帰らなあかん」と言う足立さんと散歩に行きました。

そして、3日目のこと。決定的な変化が訪れます。

夕食前に散歩から戻ることができたので、たっつんさんはこう言いました。

「夕食の準備、手伝ってもらえませんか?」

すると、足立さんは、満面の笑みでこう答えたのです。

「ええよ♥」

©Tattsun,Natsu kitagawa 2025
『認知症の人、その本当の気持ち』より - ©Tattsun,Natsu kitagawa 2025
©Tattsun,Natsu kitagawa 2025
『認知症の人、その本当の気持ち』より - ©Tattsun,Natsu kitagawa 2025

■家に帰りたいのではなく、自分の役割を取り戻したかった

次の日も夕食の準備があるから帰ろうと促すと素直に「そうやな」と答えた足立さんは、「うちへ帰る」とは言わなくなりました。

足立さんの「帰らなあかん」という言葉の、本当の意味。彼女が帰りたかったのは、物理的な「家」という建物ではなかったのかもしれません。彼女が取り戻したかったのは、家にいた頃の自分の「役割」だったのではないでしょうか。

つまり、彼女の言葉を翻訳するなら、こうなります。

「(もうすぐ夕食の時間だわ)うちに帰って、(家族のために)ご飯の支度をしなければならない」

長年、妻として、母として、家族の食卓を守り続けてきたこと。それが彼女の生活の中心であり、自己肯定感の源泉であり、人生そのものでした。「夕食の準備」というキーワードが、彼女の心に深く刻まれた「主婦としての誇り」のスイッチを入れていたのでしょう。施設での生活は、その最も大切な役割を彼女から奪ってしまっていたのかもしれません。

■「主婦としての誇り」を取り戻したら「帰る」と言わなくなった

謎が解ければ、答えはすぐに見つかります。

北川なつ、たっつん『認知症の人、その本当の気持ち』(KADOKAWA)

たっつんさんは、足立さんの「主婦としての誇り」、ひいては「人間としての誇り」をこの施設の中で再び輝かせる方法を考えました。

足立さんに食事の準備を手伝ってもらうことにしたのです。それは、かつて彼女が毎日こなしてきた、得意な仕事でした。

生き生きと立ち働く足立さんの姿は、もはや「介護される高齢者」ではなく、誰かのために尽くす喜びに満ちた、一人の自立した女性でした。

やがて、食器棚の横のフックには、彼女専用の可愛らしいエプロンがかけられるようになります。それは、彼女がこの場所で新しい役割と居場所を見つけた、何よりの証でした。そして、あれほど毎日繰り返された「うちへ帰らなあかん」という言葉は、いつの間にか聞かれなくなっていました。

これは、「家族のために」から「ここにいる人たちのために」と思いを変換できたからでしょう。現在の環境で可能な、新しい役割を見つけ出す手助けをする。それもまた一つの認知症ケアとなるのです。

©Tattsun,Natsu kitagawa 2025
『認知症の人、その本当の気持ち』より - ©Tattsun,Natsu kitagawa 2025

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たっつん介護福祉士
介護の仕事を18年以上続けている現役の介護福祉士。主に、在宅での生活が困難とされる方が入居する特別養護老人ホームでの入居者の方々との印象深いエピソードをSNSにて発信し、多くの共感を得て人気となった。介護の仕事の面白さを伝えるために日々発信を続けている。
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北川 なつ(きたがわ・なつ)
漫画家、介護福祉士
漫画家で、ケアマネジャー、介護福祉士、ホームヘルパーの資格も持つ。介護施設での勤務経験をきっかけに、認知症のある人やケアをする家族・周囲の人たちの日常を漫画やエッセイで描き続けている。著書に『親のパンツに名前を書くとき』(実業之日本社)、『新装版 認知症のある人って、なぜ、よく怒られるんだろう?』(実業之日本社)、『犬がとなりにいるだけで』(実業之日本社)などがある。
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(介護福祉士 たっつん、漫画家、介護福祉士 北川 なつ)