伴侶を失った人間の精神的危機に対し、公的な救済措置としてその配偶者の記憶を複写した「代替伴侶」が、最大10年間の期限つきで貸与される近未来。離婚したある男女は、自分たちの「代替伴侶」同士が仲よく夫婦として暮らしていることを知り、衝撃を受ける。白石一文の最新小説『代替伴侶』は、そのようなSF的設定で夫婦というもののあり方を問い直す。(円堂都司昭/10月4日取材・構成)

参考:「なにが歴史的事実かという議論になると、限りない泥沼に陥っていく」 慶應大教授に聞く、歴史学のプロセスとその意義

いずれ人工子宮を使えるようになるかもしれない

――『代替伴侶』は、国連が「地球人口爆発宣言」を発した近未来が舞台です。世界的に人が増えすぎたため、持てる子どもの数が厳しく制限されている。同時に、血のつながった子どもがいる「生物学的な夫婦関係」が「戸籍上の婚姻関係」に優越すると法的に定められた社会になっています。そのため、主人公の隼人は、別の男性との子を妊娠した妻・ゆとりと離婚せざるをえなくなり、彼女の「代替伴侶」を貸与される。この小説は、どのように発想したんですか。

白石:以前、新潮社で『ファウンテンブルーの魔人たち』(2021年)という近未来小説を書きました。同作では深く立ち入りませんでしたけれど、生殖医療について調べたら、動物段階では人工子宮がかなり実用性のあるものとして開発されている。人間に関しては、とり出した生殖細胞を体外受精させて母体に戻しますが、本人でも代理母でも負担がかかります。でも、いずれ倫理基準を変更すれば、人工子宮を使えるようになるかもしれない。

 今、男女関係ってけっこう刺々しいじゃないですか。お互いのあら探しのバトルフィールドになっていて、こんなことをしていたら男性と女性が生活をともにすることはなくなり、男島、女島みたいに分かれていくのではないか。その際、繁殖をどうするのか。デパートなどで卵子と精子を買い、子どもをデザインして人工子宮で育てるようになるのか。

 出産や結婚は、ライフイベントと呼ばれるでしょう。人生におけるイベントと目されていて、進学や就職と同列になっている。でも、女性の場合、肝心な時期に出産や結婚があるから、それをどうマネジメントすればいいかが大きな課題になる。例えば旅行や留学のように、一定期間を妊娠や出産に費やすという感じ。結婚も、そうしたイベントの延長線上でとらえるようになってきたでしょう。出産の負担は大きいし、キャリア形成の大事な時期に当たると、本人のほかのライフイベントを疎外してしまう。だから、適当な時期に保存した受精卵を人工子宮で育てるというのが、現実化するかもしれない。

 そうなると、男性と女性が結婚し、一緒に暮らし経験をともにする意味があるのか。「男は男、女は女で暮らせばいい。もともと話もあわないしね」となるのか。でも、そんなはずはないでしょう。人間関係ってやっぱり、話のあわない人同士が結婚という契約を交わし、否応なくともに暮らし、なにかが広がったり困ったりするなかで得るものが、確実にあると思います。『代替伴侶』という小説は、それをめぐる思考実験なんです。僕はもう恋愛や結婚の現役世代ではないし、結婚は以前に失敗しているので、あらためて考えてみようかと、この小説を書きました。

――生殖が、本作を構想する出発点になったんですね。少子化対策のために妊娠や出産を強制するディストピアSFはわりと書かれていますが、『代替伴侶』の世界では、日本は少子化、世界的には人口爆発という状況で子どもを持つことが重視されるのが興味深い。

白石:『代替伴侶』では、子どもを作ることに強力な制限がある設定になっています。そのうえで「代替伴侶法」という妙な法律がある。今の日本は少子化だから設定をリアルに受けとめてもらえない気がしますけれど、僕は結局、日本は外国人を流入させるとみているんです。アメリカやヨーロッパで移民が大ごとになっていますが、日本も受け入れざるをえないでしょう。今の林立するタワー・マンション群をメンテナンスしていくには、人を入れるしかない。そうしないと資金の回収も建て替えもできない。エレベーターが壊れてシステムを変える際だって莫大なお金がかかるはずで、外国から稼げる人に入ってもらって経済を回すしかないんです。ただ、日本は言葉の障壁が大きすぎるから、インカムをつければ相手の言葉がわかるような同時翻訳機なんかを国家予算で開発すればいい。

 日本人の少子化を止めるのはもう難しいですが、地球人口はどんどん増えているから、どこかで人口調整も起きるでしょう。小説のようなこともありうるのではないか。短い作品なので実験的に書いたんですけれど、一所懸命子どもを作ろうとしていたカップルが、夫とは別の男性との間に妻が子を作ったことで離婚する。結局、妊娠って、しばらくしてテストをすればわかるけど、する時にはわからない。彼女だって妊娠するとは思わずやっちゃったのかもしれない。作中世界では、子どもができたら、新たな命を迎え入れるために父母ではない男女は別れなければいけない。そこまで仲が悪くなったわけではないけど、法律という外的要因があって、従わなければ殺されてしまうんです。

 男にとっては手ひどい裏切りだから、復讐しようと思う。この苦しみを、同じ目を「代替伴侶」に味わわせてやろうと欲する。でも、人間とほぼ同等の「代替伴侶」は元妻と同じ記憶を持ってはいても、彼女が裏切ったわけではない。しかも、「代替伴侶」はあらかじめ裏切らないようにプログラムされていて、しかも命はあと10年しかない前提です。この小説について取材してくれたある女性は、「私を裏切った男をもう1回派遣しろといっても、よけい気分が悪くなるだけ」といっていました。彼女は生理的に許せないという意見でしたけど、男は案外そうでもないのではないか。自分が好きになったのと同じ姿の女性が裏切らなくなって戻ってくるなら、まあいいかなという人はいると思う。初恋の女の人を思い出すのは男だけだとかよくいうけど、そういう感じですよね。

子どものいない夫婦は、夫婦の完成形ではないか

――私は結婚していて子どもはいないのですが、作中の「良い家庭を持つことと良い夫婦でいることは違う」という言葉が印象的でした。

白石:世のなかって、子どもを作ることがやはり善だみたいな、一定程度の理解があるでしょう。繁殖は善だという動物的な感覚がある。だから、「私たち夫婦は子どもがいなくて、世のなかに貢献できなくてすいません」みたいな顔をしつつ、こっそり楽しんでいる人はいっぱいいると思うんです。僕はかつての妻と別れて、今の人と一緒にいるようになってから25年経ちます。子どもはいないですけど、ずっと仲はいいですね。正直なところ僕も昔はいろいろありましたから、二度とそういう過ちはしないと決めているのもあるんですけど、二人でいて楽しい。

 でも、夫と妻が密に一緒にいるとか、自由にどこかへ出かけたり、共通の趣味を持つといったことが、世の夫婦の多くはできていないのではないか。子どもがいたら、かなり事情が違ってくる。いろんな意味で相互理解を手放すと思うんです。子どもは圧倒的に可愛いだろうし、家族でい続ける根拠にもなるでしょう。でも、夫が妻を、妻が夫をよくみているかというと難しいでしょう。僕は、みていないと思う。

――『代替伴侶』には、子どもを持つことは夫婦にとって挫折であり、それによって夫婦である意味を見失うという発言も出てきます。

白石:子どもは子どもで、将来はつがいになるわけでしょう。そうやって人間の繁殖の経験を繰り返す。でも、子どもがいると、男女間の本当の愛情や理解、伴侶が死んだ時に本当の悲しさを味わうといったことが、なんとなく先送りされてしまう。だから、子どものいない夫婦は、夫婦の完成形ではないかという気がするんです。

 今は少子化だから、昔みたいにリスクヘッジで子どもを5人くらい作るなんて戦略は絶たれている。ゆえに少ない子の教育に力を入れ、磨きあげようとするけど、子どもがついてくるわけもなく、ほとんど失敗するでしょう。子どもによる恩恵は、なくなってきている。親もそのへんは心得ていて、子どもがいても将来、自分を介護してくれる、経済的に支援してくれるなんて期待はしなくなっていると思います。では、なぜ高コストの子どもを持つのか。1人くらいの子を持つ体験をしたいというのは、ディズニーランドなどでアトラクションに乗ってみたいという願望に近い気がします。子どもを作ろうというモチベーションは薄まっているし、今の若い人たちが結婚しなくなるのは当然でしょう。先進国化していけば、これからの中国もそうだろうし、アフリカもインドも少子化していくと思います。

 そうなると、男と女が、あるいは同性でもいいですけど、出会って長年人生をともにしていくことにどれくらい価値があるのか。小説を書いた僕から伝えることがあるとしたら、誰かと一緒にいるのはやはりいいということです。子どもを作らないなら結婚する必要はないというけど、逆なんじゃないか。むしろ、子どもはいない方がいいというくらいでなければ、互いにパートナーでいる必要がないのではないか。

 僕には別れた妻との間に子どもがいますけど、家とか跡を継いでほしいとは思いません。そういう考え方は、くびきでしかないですよ。

伴侶が死んだ時に一番特別な感情を持てたらいい

――『代替伴侶』では、離婚した男女の「代替伴侶」同士が、夫婦として暮らし続ける。それによって、本人たちがありえたかもしれない別の人生を知ることになります。

白石:その時に彼らはどう思うかという思考実験です。結婚って、やはり軽いことではないでしょう。恋愛と結婚は似て非なるもので、子どもが欲しいから、家を継がなければいけないからと、結婚する人もいる。ただ、多くの人は、恋愛が称揚された時代だからたまたま結婚したのではないか。あまり考えて結婚していないように感じるんです。友だちや知りあいから結婚相手を紹介されても、なぜこの人と? やめた方がいいのにということがありませんか。僕と前の妻もそうだったかもしれない。自分でも首をかしげるような道だったんですけど、わりといろんな人が普通に結婚して、普通に生きているような顔をしながら、けっこう理由がわからないまま結婚を続けている人が多いようにみえる。だから逆に、その理由をみつけるために長く続けた方がいい気がするんです。

 同じ生殖の適齢期で、同じ国に生まれた人、近い経済圏でいた人がくっついたのは偶然だといってもいいけど、ひょっとしたら運命的なものがあって、あらかじめ決められた同士が一緒になるみたいなことがもしかしたら現象として起きたのかもしれない。伊達に神に誓っていないというか。そうであるならば、本人たちが気づかなくても理由があるはずだから、つきつめていけばいいのにと思う。

 いろんな人といろんな関係を持って、それぞれがモザイクのように面白い世界だという風には、人間はなかなか思わない気がするんです。やっぱり、お互いへの信頼がある程度根づいた特定の関係でなければ、感覚や思考を広げられない気がします。常に満ち足りないものを感じてしまうというか、故郷を作れないというか。

 だけど、間に子どもができちゃうと、この子のために頑張れるとなって、そこに理由を求めるようになる。この小説を書いていたら、子どもがある種の疎外要因だという感覚がありました。主人公の元夫婦は、子どもを持ちたいというモチベーションや衝動によって、本来なら一緒にいた方がいいのに別れてしまった。つまり子どもが、ある種の夾雑物だった。夫婦をクローズアップすると、そういう見方もできるのではないでしょうか。

――「代替伴侶」は、決して相手を裏切らないようにプログラムされていると同時に、自分が代替であり、命に期限があることを自覚できないようになっています。そこに切なさを感じます。夫婦はいずれ相手の最期に直面するということを象徴的に表現しているように感じました。

白石:夫婦に子どもがいなくても、一緒にいればいろいろなことがあるでしょう。そんななかで、歳をとっていくとどちらかが死ぬ。関係が停止する。すごく仲がよくなった人と死に別れるわけです。悲しいのか寂しいのか嬉しいのかほっとするのか、いろいろあるでしょうけど、それはこの世に生を受けて、あくせく生きてこないと得られない、人間しか得られない感覚なのではないか。それを得るために僕たちは生きているというか。それは、けっこう人間の醍醐味なんじゃないか。伴侶が死んだ時に一番特別な感情を持てたらいいのに、それを夫婦で得られないのはもったいないと思うんです。

――『代替伴侶』を書き終えてみて、あらためて考えることはありますか。

白石:もう僕が持っていた引き出しの中身は、スカスカです。歳をとってきたので思考実験的な小説しか書けない。今の若い人のこととかわからなくなって、なかなか接する機会もないし、女性のことももうわからない。だから、もう1回リセットして、人の話、女性の話を聞いて書いていこうかなとちょっと思っています。

(円堂都司昭)