上皇と美智子さまの「結婚」に抵抗していた「反対勢力」が、力を失っていった理由

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明仁天皇(現在の上皇)と、美智子皇后(上皇后)のこれまでの歩みを、独自の取材と膨大な資料によって、圧倒的な密度で描き出した『比翼の象徴 明仁・美智子伝』(上中下巻・岩波書店)が大きな話題を呼んでいます。著者は、全国紙で長年皇室取材をしてきた井上亮さんです。

この記事では、1958年11月、美智子さまが皇太子妃となることが発表されたあと、それまで結婚に反対していた人々が、どのように変化していったかを、『比翼の象徴』の中巻より抜粋・編集してお届けします。

ミッチー・ブーム

美智子と両親は十一月二十九日に皇居の義宮御殿、清宮御仮寓所で婚約者としてのあいさつをしたあと、秩父宮、高松宮、三笠宮邸を訪れた。翌日は明仁皇太子の姉たちの嫁ぎ先の東久邇、池田、鷹司家と良子皇后の実家の久邇家、そして北白川家を回った。北白川家ではかつてのお妃候補ナンバー1だった肇子が出迎えた。肇子もすでに婚約が決まっていた。

三十日の新聞には「ミッチー・ブーム」という見出しが登場している。美智子の行く先々で、彼女を一目見ようと黒山の人だかりになるほか、ファッションも注目され「ミッチー・ライン」なるニューモードが流行し始めているというもの。ミッチー・ラインは銀座の洋装店が命名したもので「金茶、クリーム系の色で七分そで、えりぐりを大きくして胸は大きなV字型、ウエストを細くしめ、ヒダを少なくフレヤーをペチコートで強調するアフタヌーン。それにミンクのストールをかけ、頭はグレーのプリンセス・ハット」なるものだという。

日本のファッション・デザイナーたちは競って「プリンセス・ルック」をデザインするようになる。記事では産まれたばかりの赤ん坊に「美智子」と名づける親の話なども紹介している。

十二月一日夜は美智子の婚約を祝って、地元の品川区五反田の商店会、町内会による提灯行列が行われた。二千に近い人々が「奉祝 美智子さんおめでとう」と書かれた電飾プラカードやブラスバンドで池田山の正田邸に押しかけ、バンザイを連呼。まるで戦勝祝いのようなお祭り騒ぎになった。

この年の読売新聞の読者が選ぶ十大ニュースでは、皇太子妃決定がほぼ満票の一位だった。「一九五八年はさまざまなブームの年だった。いわく裕次郎ブーム、長嶋ブーム、それに電気ガマとフラ・フープ。だが“ミッチ旋風”はこれらのもろもろのブームを一気に吹っ飛ばしてしまった」と書く新聞もあった。

報道陣が殺到

五日、明仁皇太子は東宮仮御所で秩父、高松、三笠の各宮妃に美智子を紹介した。翌六日、皇太子と美智子は婚約内定後、初めてテニスをした。二人がテニスをするのは八月の軽井沢以来だった。東京ローンテニスクラブには二人の写真を撮ろうと報道各社が殺到した。

八日に築地の料亭で小泉(信三)の招きによる宴会があった。正田富美子と入江、黒木、戸田ら侍従、保科女官長と松平信子らが参加した。小泉は反美智子派との融和を策したとみられるが、松平らの内心はどうだったか。このような会合や秩父宮妃らと美智子を会わせたことなど、「反対派」との融和策について、入江は田島道治宛ての書簡で「このやうにして回を重ね行くにつれ何とか相成るべきも、又同時に逆に何とか相成にくとも発生すべく、八方に気を配らねばならず、当分側近に奉仕するものはもとより全般的に骨の折れることに御座候」と書いている。

そしてこのあと、入江の日記には不穏な記述が連続して見られる。

「美智子さんの教育に呉竹寮を使ふことを昨日お上はいゝとおつしやつたのに皇后さまはいけないとおつしやつた由。まだモヤモヤがあるらしい」(十二月九日)

「十六日に美智子さんも交へてお文庫でお催しになつたらと女官長を通じて申出たが早過ぎるとのことで駄目。何が早過ぎるのか全然分らない。無意味な不愉快な底流を感じる」(十二月十一日)

「なほ松平信子、宮崎白蓮が中心となつて今度の御婚儀反対を叫び愛国団体を動かしたりした由。併(しか)し大体取静めたとのこと」(十二月二十二日)

宮崎白蓮とは大正天皇の生母・柳原愛子(やなぎわらなるこ)の姪で歌人でもある柳原白蓮のことで、このとき七十三歳。松平とともに反美智子勢力の中心となる。白蓮は孫文を支援した宮崎滔天の長男・龍介と駆け落ち事件を起こすなど、大正期を自由奔放に生きた女性だが、このときは守旧派として立ちふさがった。

松平、白蓮らが動かしたという愛国(右翼)団体は十二月六日に後楽園ホテルで集会を開いていた。この場に出席した白蓮は「皇太子様ともあろうものが、高が粉屋の娘にほれて騒ぐとは外国に聞えても恥しい。皇后様は皇后様と崇められる様なお方でなければ私共は皇后様とは載(ママ)けない」と発言したという。

しかし、反対派が大勢力となることはなかった。宮中でも入江ら侍従は美智子に好意的であったし、民間出身の皇太子妃に難色を示していた元首相の吉田茂は、田島道治に対して美智子を絶賛するようになっていた。それでも田島はこのバックラッシュ(反動)の激しさを見て、妹の清宮の結婚相手は華族が望ましいと裕仁天皇に進言している。

十二月九日、明仁皇太子と美智子の新居となる予定の東宮御所のくわ入れ式が建設予定地の大宮御所跡で行われた。新御所は東京工業大学の谷口吉郎教授の設計で、鉄筋コンクリート二階建て、建物の総面積は三千八百六十四平方メートル。表公室、奥私室、事務室、車庫の四棟に分かれており、屋根は銅板で大きな窓や長いひさしをつけ、梁や柱を際立たせるなど、現代建築のなかに日本調を生かした建物にした。皇太子の要望で育児室も設けられた。総工費は二億二千三百万円で、翌年末に工事が完成する予定だった。

この東宮御所建設工事の入札では間組が一万円で落札して物議をかもした。奉祝のつもりだったが、あまりに非常識という批判が強まり、建設省が同社に辞退を勧告。一万円の落札は取り消され、間組を含む建設会社七社の共同工事となる一幕があった。

美智子は十二月十八日、母校の聖心女子学院と聖心女子大学にあいさつ回りに出かけた。在校生が拍手で出迎え、口々に「おめでとう」と祝福した。美智子はブリット学長を訪ね、結婚のあいさつをした。

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