プロデュースは高木 完さんとスチャダラパーのshincoさん。当時のキャッチフレーズは“西のスチャダラパー”という風に売り出してましたね。おかげさまでCDもたくさん売れて、その後はEPICソニーと契約してメジャーデビューすることになったんです」

◆海外でのレコーディング経験が大きな自信に

そして、2stアルバムはビースティ・ボーイズの活動拠点だったLAの「G-SON STUDIOS」でレコーディングを実施することに。ビースティ・ボーイズのメンバーと共に楽曲制作を行い、1995年に2stアルバム『XXX JAPAN』をリリースした。

脱線3の活躍は目覚ましく、お笑い芸人が所属する吉本興業の音楽部門初のアーティストとして契約を結んだ。

ビースティ・ボーイズとのエピソードについて、M.C. BOOさんに伺うと「同じカルチャーの中で意気投合し、お互いをリスペクトすることができた」と話す。

「今だと外タレが東京に来たら、渋谷や原宿に行くのが一般的になっていますが、実はビースティ・ボーイズが最初だったと思います。僕らの仲間内がやっている渋谷のレコード屋やスニーカーショップを案内したり、秋葉原の面白い場所へ連れて行ったりと、一緒に東京観光したんです。

そしたら後になってビースティ・ボーイズが、アパレルブランド『MILKFED.』の創設者で映画監督でもあるソフィア・コッポラ達に“東京の面白さ”を伝えたと思うんですよ。そこで生まれた映画作品が『ロスト・イン・トランスレーション』だったかなと、90年代カルチャーが脈々と受け継がれていくのは、すごく興味深かったですね」

◆「業界人が集う秘密の溜まり場」を青山に作ったことも

2000年代に入ると、M.C. BOOさんは東京へ上京し、DJやMCなどの音楽活動やイベントの主催をするようになる。並行して、デザインや美術のネットワークを駆使しつつ、アーバンカルチャーのアーティストが手がける作品をフューチャーした「アートエキシビジョン」を開催するなど、仕事の幅を広げていった。

その当時は、吉本興業がスノーボードやサーフィンなどのストリートスポーツに力を入れ始めた時期で、その周辺のクリエイティブやプロデュース、テレビ関係の仕事も、M.C. BOOさんが会社を立ち上げて担当するようになった。

「海外アーティストを招聘し、外資系ブランドの日本展開におけるクリエイティブ制作を請け負うなど、徐々にプレイヤーからプロデューサーへと軸足を移していきました。その頃から、自分の中で“MC”の意味の捉え方をテレビの司会進行のイメージが強くなった“マスターオブセレモニー”から、マーケティングの“マスターオブコミュニケーション”に変えたんです」

クリエイティブの案件で印象に残っているのは、タバコのキャメルをプロモーションする仕事だとM.C. BOOさんは言う。

青山に「CPFギャラリー」という“アーティストの溜まり場”を作り、ギャラリー兼制作スタジオ兼タバコ吸い放題スペースを3年半ほど運営していた。

Wi-Fiやコピー機の完備、ジュースやお酒などのドリンクコーナー、DJブースなど、CPFギャラリーに来れば仕事も遊びもできる空間だったそうだ。

「CPFギャラリーのクリエイティブとして、キュレーションからクラブイベントのブッキングなどを担当したんですが、今で言うインフルエンサーマーケティングのような取り組みをやっていました。国内外のアーティストや業界人を集めて、会員のメンバーになった人はスタジオでの作業やイベントの開催ができるようにしたんです。

ドイツとスペイン、そして日本の3カ国合同プロジェクトだったので、ベルリンに行ってDJイベントをやったり、毎月海外の人気DJを招聘して結構派手にプロモーションしていました」