「石破首相は早くも変節した」と言われる。だが、筆者の主張する「社会資本・主義」への動きはすでに始まっている(写真:ブルームバーグ)

自民党の石破茂総裁は経済音痴であると悪口を言われる。「石破政権で株は暴落する」とハヤす人も多い。

間違いだ。

9月27日に行われた自民党総裁選挙の決選投票で、逆転で石破氏が勝った瞬間、株価は大きく変動、日経平均株価の先物価格は2000円を超える暴落となった。しかし、これはトレーダーの遊び、いわばイベントデイトレにすぎない。

石破政権誕生の意味とは?

それどころか、日本株式市場、日本経済、日本社会は、転換点を迎え、新しい発展段階に入るだろう。この事実には、私以外、誰もまだ気づいていない。石破氏本人でさえわかっていないだろう。しかし、これは、石破政権が成功した長期政権にならず、何もできずに短命に終わったとしても、歴史的な転換点になる。

なぜなら、これらの転換は、石破氏によって起こされたものではなく、社会が起こしたものだからだ。つまり、社会が変わることへマグマが溜まっていたところに、「石破政権誕生」という偶発的な事件が、これに点火したからである。

この結果、石破政権誕生という2024年は、分水嶺となる可能性がある。パラダイムシフト(物の見方や枠組みが転換すること)だ。

なぜか。

第一は日本政治のパラダイムシフト。それは、自民党総裁選において、初めて「好き嫌い」では決まらなかったことだ。

これまでは、ほぼ全員、仲間として好かれているかで決まった。安倍晋三氏は、政策はともかく、休日を過ごすにはいい友人であり、小泉純一郎氏も変人ではあるが、嫌われてはいなかった。岸田文雄氏もいい人だった。

実は、これは自民党総裁選だけのことではなく、日本のリーダーシップとは、ほぼ常に好き嫌いで評価されているのである。いいやつ、仲間内のアニキ分、そういう人がリーダーになっている。だから、チームのキャプテンであって、ヒエラルキー(階級)の頂点ではない。今回の総裁選は、小泉氏が脱落したことで、決選投票は、好き嫌いの観点でいえば、究極の選択となったが、違う要素で決まった。

実は画期的だった自民党総裁選挙

違う要素とは、「政策」である。当たり前に聞こえるが、これは画期的だ。初めてのことだ。リーダーは、政策は持たず、みんなの意見をよく聞く、という人が望まれてきた。プレゼンとしては主張を出しても、それはプレゼンだけのための政策であり、評価する側も、政策の中身ではなく、政策の「響き」で決めた。しかし、今回は「もし高市早苗総理となったら、外交が不安だ。日銀や財政が不安だ」ということで、拒否されたのだろう。これは、自民党総裁選では、近年にはなかったことだ。

さらに、世界的に右傾化する政治の世界で、自民党では、右が破れ、左寄りが勝った。これは世界のトレンドを反転させる動きである。また、ネットで強いほうが負けた。これも近年のトレンドに反する。世界中の有権者から、日本の政治リーダーの決定は羨まれる、21世紀の急激な政策論争の堕落を止める、反転の動きとなったのではないか。

これらをひとことで言うと、「正常化」である。日本において、久々に、政治リーダーが、「普通に」、良識的に決まったのである。21世紀の退廃した、政治、経済、社会、文化の中で、正常化へ逆行した、画期的な転換なのである。

株式市場は、今後、短期的だけでなく、中期的にも下落するかもしれない。しかし、これは、長期的には株式市場の真の発展となるのである。現在の株価は、膨張した持続不可能なものであり、金融緩和に依存した金融相場、ムードによる上昇である。

そして、株主への迎合で上昇した分、PBR(株価純資産倍率)の改善を目指すだけでは、企業の中身は何も変わらない。株主還元を増やし、これまでの企業が蓄積してきた消費者や社会からの信用を、来年の営業利益に置き換えることに邁進し、長期の持続性、発展性を二の次にすることで、株主の利益、評価を高めるだけに終わってきた。

「正常化」に向かい、膨張部分は剥落へ

これが、本当のファンダメンタル改善、企業の長期持続へと向かう可能性がある。これこそ、株式市場、企業価値最大化の「正常化」である。バブルやムードでもなく、プレゼンだけでもなく、真に中身で勝負となるのである。

だから、膨張している部分は剥落するだろう。短期のキャピタルゲインを目指すアクティビストも減っていくだろう。世界中でブームを探してバブルを作り、それに乗るファンドも減るだろう。だから、短期には株価は、今後も下がるだろう。しかし、それは企業にマイナス、経済にマイナスであるからではない。長期の経済発展、企業発展のための「正常化」なのである。

日本経済に関しては、それ以上の転換点だ。石破氏の演説、インタビューを聞いていると、キーワードは「守る」である。

国を守る。災害から守る。国民を守る。地方を守る。農業を守る。これは、一見、消極的で、拡大・バブル戦略のアベノミクスに比べ、辛気臭く聞こえる。経済成長よりも分配。パイの拡大よりも格差縮小と聞こえる。

しかし、その「政策」が選ばれたのだ。これまでなら、メディアにこのような議論は徹底的に叩かれ、そして、人々はその雰囲気に流され、石破総裁候補は失速していただろう。「守る」ことを、社会がいまや求めているのである。したがって、これは社会全体が選好する、新しい経済発展政策、パラダイムシフトなのだ。

新しいパラダイムとは何か。それは、「社会資本・主義」である。

「社会資本・主義」とは何か?

「社会資本・主義」というワードは「小幡造語」で、左寄りすぎるように聞こえるかもしれないが、違う。社会主義と資本主義のハイブリッドという意味ではまったくない。「社会資本」の主義、という意味であり、社会資本が社会・経済においてもっとも重要となる世界がやってくる、ということだ。

19世紀の「産業資本・主義」から20世紀の「金融資本・主義」そして、22世紀の「社会資本・主義」へ向けて、21世紀は移行期(混乱期)になるのである。

この「社会資本」とは、宇沢弘文氏のいう「社会的共通資本」をも含むが、もっと広く、かつ価値観的にニュートラルであり、1990年代に少し流行した”Social Capital”という概念のほうが近い。

つまり、経済発展は、需要の拡大によるものでもなく、供給サイドの生産力の拡大だけではダメで、社会という基盤がしっかりすることで初めて、真の地に足のついた経済発展が始まる、ということである。そのためには、需要政策でも生産性向上政策でもなく、何よりも健全な社会という土台を作り直す、という「経済」政策である。なぜなら、社会という土台がしっかりすれば、経済は長期的には持続的に自然と発展していくからである。

これは、長年の私の主張でもあるが、アメリカのマサチューセッツ工科大学(MIT)教授であるダロン・アセモグル氏は、現在の起きている大半のイノベーションは、一部の利害関係者が利益を独占することになっていて社会に望ましくない、だから、社会全体の豊かさをもたらす「正しい」技術革新のためには、政治による正しい方向付けが必要だ、と主張しているが(『技術革新と不平等の1000年史』)、この議論とも整合的である。

マルクス的な「経済という下部構造」という考え方とは逆であり、政府は、「正しい」方向へ社会を導くことにより経済の自律的な発展を促すのである。

そして、これは、経済至上主義、市場至上主義、金融至上主義と、どんどん倒錯してきた世の中を、社会至上主義(「社会主義」よりも本当の意味での「社会」主義)という正しい姿に戻す、つまり、これまた、膨張しすぎた近代資本主義社会の「正常化」なのである。

すなわち、政治・金融市場・経済の「正常化」へのパラダイムシフトが起きたのである。

さらに、現実的に言っても、石破政権の誕生は、日本の立て直しの最終局面、集大成となる可能性がある。すなわち、安倍氏の「デフレ脱却」、岸田政権の「新しい資本主義」、そして、石破氏の「社会資本・主義」として、3段階の日本経済発展政策は完結するのである。

「新しい資本」主義=「社会資本」主義

岸田政権の「新しい資本主義」とは何だったのか?という疑問を多くの人が持っただろう(そして今では忘れているだろう)。これを、「新しい」資本主義、と捉えるのではなく、「新しい資本」主義、と捉えなおすのである。

では「新しい資本」とは何か。それは株主資本ではなく「社会資本」である。株主資本だけでなく、社会資本をも重視する政策、それが「新しい資本主義」であったのだ。

社会資本は英語ではまさにSocial Capitalである。日本の学界では、アカデミックな意味でのSocial Capitalは「社会関係資本」と訳すのが多数派のようだが、ここではアカデミックよりももっと広くSocial Capitalを捉え、社会資本としている。1990年代の議論では、これには、人々の信頼、社会における関係性、そして民主主義を含む社会の制度が含まれるとされた。

そして、この社会資本が充実している国ほど経済成長する、という実証分析が流行した。ロバート・バロー ハーバード大学教授をはじめ、多くの経済学者が、民主主義が経済成長をもたらすという実証研究を行ったが、それは、この議論の一部だったのである。

Social Capitalの研究でもっとも有名なのは、政治学者であるロバート・パットナム ハーバード大学教授の“Making Democracy Work: Civic Traditions in Modern Italy”というイタリアの地方政府の南部と北部の比較分析、およびアメリカ社会を題材とした『孤独なボウリング――米国コミュニティの崩壊と再生』という著作である。フランシス・フクヤマの『TRUST』もこの流れに含まれる。

「社会資本」の定義はあいまいで、広いものだが、学問的な厳密性はともかく、現実の経済政策に関して言えば、すべての人々が安心して暮らせる社会、これこそ、「社会資本」である。そして、これを支えるための法制度そして政策、それが「社会資本・主義」政策である。

イシバノミクスの潜在的可能性

イシバノミクスは、以下のように体系化できる潜在的可能性がある。

この「社会資本」の確立、修復、安定を政策の目標とする。国家を地政学リスクから守ることで、安心して経済活動に専念できる。災害から国土を守ることによって、安心して生活ができる。安定した消費、生産活動ができる。インフレという価格変動リスクから生活者、中小生産者を守る。健全な消費、生産活動につながる。将来のリスク、不安、不確実性も減るから、設備投資、人的投資もできるようになる。そのためには、社会不安が減り、将来の見通しへの不安が減ることが必要である。

さらに、今後、世界は外交的にも、自然環境的にも、予期せぬ困難にいつ直面するか、わからない。20世紀最高の歴史学者の一人だった、ウィリアム・マクニール シカゴ大学名誉教授は『戦争の世界史』の中で、17世紀から19世紀にかけての欧州勢力の脅威に対してアジア諸国の中で唯一日本だけが有効な対策を講じることができたのは、民族的に等質な社会であり続けたために、社会の存亡の危機感から一体感を維持できたから、としている。

彼によると、他のアジア諸国は、支配層と被支配層が異民族であったために、有効な対処ができなかった、としている。

民族という表現、捉え方は、私は妥当とは思わないが、含意としては、社会の一体感が存在すること、現在のアメリカのように、分断されていないこと、他の欧州いや世界中の国に置いて、社会が格差などにより分断されている中で、日本では格差が拡大していると言っても、相対的にはましなほうであり、そのことが、今後、大きな予期せぬ危機に対して、社会が一致団結して跳ねのける可能性を残している、ということになる。

だからこそ、これ以上、格差を広げない、格差社会だという人々の認識を定着させない、解消させるための政策は、長期的には、経済発展にとって必要不可欠のものなのである。だから、今年や来年のGDPの数字上の拡大よりも、企業の長期的な潜在力、人々への投資、そして、社会への投資が、より重要だ、ということになる。だからこそ、社会資本・主義政策は、真の経済発展戦略となるのである。

もっと具体的に言えば、株式市場だけが盛り上がっても、社会資本の充実とはならない。バブル的な不安定さは、それを望む人もいれば望まない人もいる。

それは、社会資本にならない。年金、介護の不安のないこと、財政の安定、物価の安定、これらがあって初めて、貧しい人も、ハンディキャップのある人も、前向きに経済活動ができる。

真の経済発展を目指すために必要なこと

だから、真の経済発展を目指すためには、遠回りのように見えても、間接的に見えても、社会の土台、社会資本を充実させなくては、始まらない。

そして、日本は、これまで充実した社会資本を蓄積してきた。新しい時代に即した、社会資本の充実も必要だが、その前に、これまで蓄積して豊かだと思われてきた社会資本が磨耗し、修復が必要になっている。傷んでいる地方、傷んでいる人口社会、傷んでいる家庭、コミュニティ、そして政治。これらを修復することこそが、社会資本の土台を強くすることである。

だから、困難や苦労に直面している人、社会、弱者を助けることが、経済発展につながるのである。地方創生は、地方で育ち、基礎的な人格形成をした人々が、都会という大舞台に出て活躍し、経済的富を獲得し、社会にも生み出す。

しかし、それには、地方社会、という社会資本がしっかりしていなくては、大都会での経済的成功、そして、大都市の経済発展という果実は実らないのである。

各地方社会という多様性を維持した社会インフラなしの大都会だけでは、果実だけを獲ろうとする「クリームスキミング」は持続不可能になるのである。だからこそ、経済発展を取り戻すためには、地方創生政策で地方社会を立て直す必要があるのである。

需要増大に依存しすぎて、膨張を続けて、1990年のバブル崩壊からの大停滞となってしまった日本経済の回復を、アベノミクスは需要を補うことで助けた。目先の痛みをなくすことで、本質的な経済の力を回復しよう、という体質改善に向かうことができた。

しかし、それは異次元緩和第1弾となった2013年から2014年で完了したのだが、やめることができずに、長期に継続しすぎてしまった。その修正と、本質的な経済の供給力改善に取り組み始めたのが、岸田政権、新しい資本主義だった。

新しい資本主義では需要サイドから供給サイドに焦点が移った。生産性向上、賃金上昇、すべてうまくいったともいえないが、少なくとも、日本経済の本当の問題点の認識が広まったということで功績は大きい。

「石破政権の課題」とは何か

そして、第3段階として、需要サイド、供給サイド、という部分的なものではなく、市場経済という一部ではなく、社会全体の問題に取り組むことで、真の経済発展を目指す道へ日本経済を立て直すのが、これからの石破政権の課題である。

株式市場に関していえば、バブル的なブームで勢いをつけて、どん底から抜け出したアベノミクスによる株価上昇、岸田政権の株主重視に経営者の舵取りのバランスを変えることによって、株主たちに評価されるようにした、株価上昇戦略、PBR(株価純資産倍率)改善によるさらなる日本株ブームは、それはそれでいいが、その先が重要なのである。

つまり、この第1のバブル的な勢い(ホップ)、株主へのプレゼンだけを改善した第2段階(ステップ)ときて、第3段階は、本質(ジャンプ)である。つまり、バブルでも、株主へのプレゼンでもなく、実体経済における主体としての企業、雇用、賃金、利益、そして、社会に貢献し、社会資本の充実を側面で支援するような企業を生み出す、要は、ファンダメンタル的な企業の発展の段階に入ったのである。

これはひとつ問題がある。本質を追求すると、それは短期的なブームを作り出して短いタイムスパンでキャピタルゲインを狙うトレーダーたち、長期投資家といいながら、結局は株価が上がってキャピタルゲインを得るために売却して儲けるファンド投資家に支配されている21世紀の株式市場においては、企業価値を、真の意味で充実、発展させる経営者との利益の食い違いは解消されないからである。

いや、昨今の状況(高市トレードや石破トレードに見られるような、そして、その乱高下が、経済政策の本質的な価値や実体経済をあらわしていると勘違いしているほとんどのメディアや有識者)からすれば、食い違いは、本質に企業や政府が取り組めば取り組むほど、拡大する可能性がある。

したがって、イシバノミクスでは、株価は、現在の膨張している水準からは下落するであろう。しかし、それこそが、長期的な発展の始まりとなるサインであると、私は見ている。 

実は、ここまでの部分は、石破総裁誕生のサプライズの動揺が世間を埋め尽くしていた、9月28日に執筆した。

石破政権で実現しなくても、パラダイムシフトは起きる

その後、10月1日に石破内閣総理大臣が誕生し、解散が発表され、就任記者会見があった。そこで示されたもの、石破氏が首相として打ち出し始めたものは、「社会資本・主義」ではなく、ただの「新しい」資本主義に後退してしまったようだ。

ほぼすべての経済政策は、これまでの政策の継続である。さらに、植田和男日銀総裁との会談後の取材で「個人的には現在、追加の利上げをするような環境にあるとは考えていない」、と金融政策にも具体的に言及した。従来どおりのオールドパラダイムであるだけでなく、最悪の間接的介入だ。

しかし、もっとも重要な後退は、「地方創生は経済成長の起爆剤」という表現である。イシバノミクスの唯一の目玉、地方創生が、そのようなバブル的で膨張的な発想の延長線上にあっては、何の意味もないし、そもそも大失敗に終わる。

地方を「守る」という表現に示されていたように、社会の基盤が壊れつつある現状を、止血し、修復し、地道に立て直すこと、これこそが、現在、日本社会が求め、結果的に持続的な経済発展を可能にするものであり、「社会資本・主義」となりうるのである。

選挙のための、アジテーションフレーズだとしても、180度違う表現は実を表している。これはイシバノミクスが、「社会資本・主義」という新しい時代を切り開くきっかけになる可能性を腐らせる、不胎化させるものである。

しかし、前述したように、これは、石破氏が生み出したものではなく、社会の動きが高まっていることによるものであり、2024年にパラダイムシフトが起きなくとも、今後21世紀前半のどこかでは起きることになるだろう(本編はここで終了です。この後は競馬好きの筆者が、週末のレースなどを予想するコーナーです。あらかじめご了承ください)。

競馬である。

今週はついに、フランス、凱旋門賞。日本競馬界の悲願である日本調教馬による優勝。これを私も全力で祈りたい。そして、世間では、矢作芳人調教師、藤田晋オーナーのシンエンペラー(以前のこの連載でも触れたコンビ)がついにそれを実現するのでは、という期待が高まっている。

2つの心配はあるがシンエンペラーの凱旋門賞勝利を祈る

しかし、私は、2つのことを心配している。

期待が高まったのは、シンエンペラーの前走、アイリッシュチャンピオンステークス(以前の連載で触れた)で大善戦の3着だったことだ。

展開は向かなかったにもかかわらず、実力は1番であることを示した、ということで、フランス現地でもオッズは2〜3番人気になっている、というような状況だからだ。

シンエンペラーは、兄が凱旋門賞馬ソットサスで、父はSiyouni(シユーニ)というフランス生産馬で、まさに凱旋門賞向きであると思われていることからも、これまでの日本調教馬とは違う、と思われてきた。

しかし、この人気というのが危険なのである。今度は徹底的にマークされる。そこへ、鞍上は「チーム矢作」の坂井瑠星騎手、というのが心配なのだ。

私は坂井の大ファンであり、日本で1、2を争う騎手だと思っている。しかし、凱旋門賞は、「なんとしても日本馬には勝たせまい」、という雰囲気があるのも事実である。欧州の騎手たちはあうんの呼吸で徹底的にシンエンペラーを封じ込めるだろう。人気となっていれば、それは勝負としても正しい戦法になる。矢作氏は、坂井で勝たないと意味がないというようなことも思っておられるらしいが、それはわかるが、リスクは高まる。

2つめの心配は、以前にも書いたが、アイルランドのサーフェス(馬場)は、固めで日本馬向き、アイリッシュチャンピオンステークスは、スピード競馬になりやすく、日本調教馬にもなじみのある質のレースであることで、実際、今年もそうだった、ということだ。

凱旋門賞は、まったく違う。じりじりとしたスローペースながら、精神的にスタミナを使うレースである。長い直線の前、さらにフォルスストレートと呼ばれる、最後の直線と間違えてしまうようなその前の直線、その前までも息の詰まるようなスローでの消耗戦が行われるのである。

サーフェスも含めて、アイルランド調教馬でディープインパクト産駒のオーギュストロダンは、アイリッシュチャンピオンステークス2着の後、現在のパリロンシャン競馬場の馬場状態を見て、回避し、ジャパンカップに直行を決断した。

ということは、シンエンペラーは血筋はロンシャン向きでも、日本の競馬で育った以上、凱旋門賞という競馬のスタイル(サーフェスだけでなく)に最適とは言えず、アイリッシュチャンピオンステークス時より馬の状態は上がっていても、パフォーマンスは落ちる可能性がある。

まあ、心配は尽きないが、とにかく全力で応援しよう。6日の日曜日夜(日本時間23時20分予定)。単勝。勝利以外、意味はない。好走は要らない。

※ 次回の筆者はかんべえ(吉崎達彦)さんで、掲載は10月12日(土)の予定です(当記事は「会社四季報オンライン」にも掲載しています)

(小幡 績 : 慶応義塾大学大学院教授)