中村憲剛「S級ライセンス取得までの3年半」を語る(前編)

 中村憲剛氏が18年にわたる現役生活にピリオドを打ち、ユニフォームを脱いだのが2020年の終わり。その年の10月31日に40歳となり、節目を迎えてから第二の人生を歩み出した。

 川崎フロンターレでは司令塔としてチームを束ね、ピッチ外でも広い視野で国内外のサッカーを観察している中村氏。そんな姿に、ファン・サポーターは引退前から将来の監督像を期待してきた。

 ピッチの外に活躍の場を移して3年半──。43歳になった中村氏が、ついにJFA(日本サッカー協会)公認S級コーチ(S級ライセンス)の資格を取得した。その長かった苦労の道のりを、あらためて本人に語ってもらった。

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中村憲剛氏のスーツ姿もすっかり見慣れた photo by AFLO

── まずはS級ライセンスの取得、おめでとうございます。長い戦いでしたね。

「ありがとうございます。取得するまでに3年半。今、思うとめちゃくちゃ大変でした。この3年半は常に何かに追われている日々で、負荷もかかりましたが、そのぶん、とても成長したと思います。この期間は、引退したあとに自分からは絶対に選ばないようなことばかりをやっていたので」

── たとえば?

「レポートを書くことだったり、指導実践を考えて打ち込むことだったり、課題を提出することだったり、多岐にわたりました。そういうのは自分から望んでやれることではなく、講習会に参加し、強制的にある程度それをやらなければならない環境に身を置くことでしかできないことでした。

 そういう意味では、現役が終わった直後、少し刺激がなくなったところで講習会からいろんな刺激をもらって、負荷もかかって、段階を踏みながら成長させてもらったなと感じています」

── 憲剛さんは現役時代にも取得できるB級ライセンスを取得していなかったそうですね。つまり、引退後にゼロからスタートしたわけですか。

「そうです。C級からのスタートでした。C級は引退してすぐの1月中に指導実践とテストを受けて取得し、それを皮切りに、B級、A級、S級と1年ごとに受講させていただきました。

 その大変さに『現役中にB級まで取っておけばよかったな』と思う反面、現役中にそこまで考えられない選手もおそらくたくさんいると思うので、そういう人たちに対して、引退後に条件付きではありますが、『最短3年でS級が取得できる』というパスウェイもあると自分が証明したかったという想いがありました。

 代表選手に限られる部分もありますが、(※B級取得者がA級を受講するためには1年以上の指導実績が必要となるが、日本代表で20試合以上の出場歴がある場合は免除される)、A級まではスピード感を持っていけるし、A級で成績がよければ、1年の指導経験を挟まずに次の年にS級にもチャレンジできる可能性があります。

 そういう引退後のキャリアの築き方もあることを自分が見せられればと思い、最初からそこを目標に邁進してきました」

【1年間ずっと指導実習をやっている感覚】

── 引退後は解説者をやりながら、ご自身のサッカースクールやフロンターレの仕事もあり、中央大学のテクニカルアドバイザーもして、JFAのロールモデルコーチもやりつつライセンスを取得されたわけですけど、いったい、どのような生活を送っていたのでしょうか。

「何よりもまずは、ライセンス受講を最優先にしていました。その年の講習会のスケジュールをまず押さえて、そこに被らないところでいただいたお仕事を受ける形でした。

 昨年はS級のスケジュールに時間がかなり割かれたうえに、レギュラーで行なう仕事や指導もありましたので、受けられるお仕事と、解説のように担当する両チームの過去の試合を見る時間を捻出することが叶わず、残念ながら受けられなかったお仕事もありました」

── ざっくりとした質問で申し訳ないですけど、何が一番大変でしたか?

「日常の仕事と並行してやることが、本当に大変でした。ライセンスだけに集中できたら、あそこまでは苦労はしなかったと思うんですけど、生活がありますからね。プレゼンも大変でしたし、ミーティング用の映像を作ることも大変でした。あと『間の学習』も大変でしたね」

──『間の学習』とは?

「S級は1年を通して5つのモジュール・合計80時間で構成されていましたが、そのモジュールとモジュールの間にも自分で提携した大学で指導実践を毎回、必ず行なっていました。それが『間の学習』ですね。

 そこにJFAのチューターの方が足を運び、チェックしてくださいます。時にはほかの受講者とコンビを組んでやる時もあって、その方の現場をチェックしにいくこともありました。

 僕の指導実践は、自分がテクニカルアドバイザーを務める中央大でやらせていただいたのですが、中大の週末の試合を見たうえで、何が課題だったのか、理想のイメージはどうだったのか。次の週に行なわれる指導実践のテーマを中大の監督と相談して決めて、そこからその設定されたテーマに沿った映像を編集・作成し、指導実践当日の練習前のミーティングで選手たちにそれを見せながら説明して、ミーティング終了後にその日のテーマに基づいた練習に入っていく。

 要は、プロの流れとまったく同じ形でやるんです。だから、モジュールだけをがんばればいいのではなくて、『間の学習』でも同じことをやるので、1年間ずっと指導実習をやっている感覚でした。なので、常にライセンス関連で行なうことが頭から離れませんでした。忘れていい時がひと時もないくらい」

【ミシャは「全部見せる」と言ってくれた】

── 憲剛さんも映像編集をやるんですか?

「もちろんやりました。監督になった時にそれができないと、滞ってしまいますからね。映像編集だけではなく、監督に必要な資質は多岐にわたっていて、話術(スピーチ・プレゼン)の講義もありましたし、メンタルトレーニングの講義もありました。プロの監督になるための集中講座でしたね。

 講師陣もかなり豪華でした。野球の栗山英樹さんや、ラグビーのエディー・ジョーンズ監督、Jリーグで監督をやられていた方もいましたし、最高峰の方たちのお話を聞けたのは本当にありがたかったです」

── 国内研修では札幌に行ってミハイロ・ペトロヴィッチ監督の指導を学んだり、海外研修ではカナダにも行かれましたね。

「どちらも大きな学びの時間になりました。札幌を選んだ理由として、ミシャ(ペトロヴィッチ監督)のスタイルは現役時代から興味がありましたし、研修可能かどうかのおうかがいを立てた時に、ミシャが『全部見せる。いつでもウェルカムだ』と言ってくれたからなんですね。

 ミシャは広島から始まって、浦和、札幌と、クラブの規模だったり、選手層だったり、地域性を含めてそれぞれの背景や環境の違うチームを率いても、多くの人たちに『ミシャのスタイル』として評価されるサッカーをするじゃないですか。それはやはり、ミシャの指導法だったり、指導論がちゃんと確立されているからだと、僕は対戦相手として対峙した時にリスペクトを含めずっと思っていて。

 そこをフルオープンにしてくれるならば、これ以上にない学びの時間になるなと。1週間の期間ではありましたけど、実際にミシャのチームがなぜミシャのスタイルになってくのか、その理由がトレーニングと試合を通してよくわかりました」

── カナダに行ったのも、すべてを見せてくれるからだと、以前のインタビュー(『S級ライセンス取得の海外研修先にカナダを選んだ理由』)で言っていましたよね。

「トレーニングから試合をすべて見ることで、点が線になっていく感覚です。毎日の取り組みは、すべてがつながっているんです。

 でも、その一部だけでも見られないと、どこと、どことがつながっているかが推測になってしまうし、それだと正確にはわからなくなるじゃないですか。だけど、全部見させてもらえれば、ああなるほど、あのトレーニングがここでこう生きて、試合でこの現象が起きていくんだなと理解することができる。

 だからチーム選びの前提条件として、国内も、海外も『すべてを見せてくれるチーム』を選ばせていただきました」

【書いて残すことが自分の財産になる】

── 研修後に提出するレポートも充実したものになったのではないでしょうか。

「かなり(笑)。パワーポイントで200枚ぐらい書きました。JFAの方からも『こんなに書いてきた人はいない』って言われました(笑)」

── さすがですね(笑)。

「適当に済ませられない性格なんですよ。国内研修の時も70枚くらい書きましたから。見やすくするためにちょっと文字の級数を大きくしているんで、その分の枚数が増えているんですけど、それでも200枚超えはいないですって言われて(笑)。

 でも結局、書いて残すことが、自分の財産になるわけです。だから余すことなく書きたいし、 書くことで自分のこれからにつながっていくんじゃないかなと思って、そこも全力で取り組みました」

(後編につづく)

◆中村憲剛・後編>>「最初からガチガチに守る発想はない」


【profile】
中村憲剛(なかむら・けんご)
1980年10月31日生まれ、東京都出身。久留米高校から中央大学に進学し、2003年にテスト生として参加していた川崎フロンターレに加入。2020年に現役を引退するまで移籍することなく18年間チームひと筋でプレーし、川崎に3度のJ1優勝(2017年、2018年、2020年)をもたらすなど黄金時代を築く。2016年にはJリーグ最優秀選手賞を受賞。日本代表・通算68試合6得点。ポジション=MF。身長175cm、体重65kg。