天皇が「崩御」したとき「皇后」はどんな反応をしたか? 女官が目撃していたこと

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「いつもほおえんでおいで」になった

山川(旧姓:久世)三千子は、明治天皇とその妻・昭憲皇太后に仕えた「女官」です。彼女は1909(明治42)年に宮中に出仕し、1914年に退官するまでの足掛け6年間、天皇家の「内側」の奥深くをつぶさに目撃しました。

彼女の当時の経験は、『女官』という書籍として1960年に実業之日本社から公刊され、世間に衝撃を与えたとされます。現在この貴重な記録は、『女官 明治宮中出仕の記』(講談社学術文庫)として読めます。

現在、日本の皇室は、あとつぎの問題などによって、岐路に立たされているとでも言えそうな状況です。日本の市民も、皇室について知識をたくわえておくべきタイミングかもしれませんが、本書は大いにその参考になります。

同書を読んでいると、皇后(=明治天皇の妻・昭憲皇太后)の置かれた立場の難しさについて考えさせられるようなシーンに出くわすことがあります。同書からそうした部分をご紹介しましょう。

まず山川は、皇后(山川は「皇后宮様」と呼びます)について、その性格を以下のように振り返っています。

〈大勢いる女官たちにも、すこしのわけへだてもなく、いつもほおえんでおいでになって、お言葉はすくなく、こちらから伺わなければ、あれこれとあまりお指図は遊ばしませんが、女官たちの気性も皆よくご存じのようでございました〉(63頁)

〈私が出仕した時は(中略)たいへん人手不足の時でございましたので、先輩たちからゆっくり指導を受ける暇もなく、まだ品物の名さえしかとわからぬながらに、一本立のような形にさせられて、まごまごしておりました。すると誰もいない時に、

「わからぬことがあったら、他に人のいない時なら何でも教えてあげるよ」

との、おやさしい言葉を戴きました〉(63-64頁)

また、〈誰かが或る雑誌に書いていたように、ただただ無感情でおいでになるのではなく、この大世帯のために、苦しくとも無理に、そのように装っておいでになるのだろうと存じました〉ともしています。

涙さえ見せない

そのうえでとりわけ注意を引くのは、明治天皇が崩御したときの皇后の様子を振り返った部分です。その反応は興味深く、皇后が置かれた立場の難しさについて示唆を与えてくれる記述となっています。

〈話は明治天皇崩御の時のことでございます。女官全部が一人一人、皇后宮さまに御挨拶申し上げました時は、「本当に恐れ入った御事で」と、はっきりお答えになって、あまり涙さえお見せになりませんので、私は何か不思議なような気が致しました。そして数時間後、お召替えのために御休所(ご自分のお部屋)へお供いたしました時、

「私の悲しいのは誰よりも一番でしょう。しかし私が泣きくずれていては、後のことがどうなると思いますか」

と、仰せになって、ハンカチーフをお顔にお当てになりました。

それを拝見して私は何とお答えの仕方もなく、ただ深く頭を下げておりました〉

〈この陛下はご幼少の頃からの御内定で、特別のご教育をお受けになり、お年も若くて初めから皇后宮様に(中略)おなりになりましたので、御責任も重く、すべてに控え目がちのご性質も手伝って、何事もお言葉として出るまでは、ずいぶんよくお考えになるご様子でございました〉(67〜68頁)

感情をあらわにしては周囲に迷惑がかかるので、なるべく心の動きを内に内にしまいこもうとする……一般的にはなかなか知り得ない、皇后という難しい立場の一端が垣間見えるようです。皇族の、こうした人間的な側面についての知識は、わたしたちが皇室について考える際にも重要なヒントになるかもしれません。

なお、そのほかにも山川がつぶさに見ていた「天皇家の内側」のさまざまな事情については、「知られざる天皇家の「闇」をあぶり出した、ある女官の手記」などの記事でも紹介しています。

知られざる天皇家の「闇」をあぶり出した、ある女官の手記