「人種差別にピンと来ない」日本人も、国外では人種差別を受けるという現実

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国外では、日本人も人種差別を受けるという現実

「日本人が人種差別の対象になる」と聞いて、ピンと来る人はどれくらいいるだろうか。

日本国内にいる限りは、日本人が人種差別の対象となることはほぼない。その理由はとてもシンプルで、日本では日本人が圧倒的多数派であるからだ。

では、日本人が多数派ではなくなる、むしろ圧倒的少数派となる海外の国や地域ではどうだろうか。

幸いにも、日本という国や日本人に対してネガティブな感情を持つ外国人は決して多くはない。むしろ、発展した経済や奥深い文化や独自の歴史、礼儀正しい人々……など、良いイメージを持たれる方が圧倒的に多い。

しかし、残念ながら「アジア系の外見である」という事実だけで、日本人が差別や偏見、嘲笑の対象となる場合も少なくないのだ。

筆者はこれまで四ヶ国に年単位で在住・長期滞在してきた。カナダ、フランス、ポルトガル、そして現在滞在しているジョージアとなるが、いずれの国にも差別は存在している。(というか、差別が全くない国など、この地球上に存在しない)

どの国でも実際に差別を受けた経験はあるし、思い出すだけで嫌な気分になる出来事もあった。しかしながら、今回はあえて「海外で日本人が受ける差別」というテーマに焦点を当てたい。特に、現在滞在しているジョージアという国で実際に受けた差別体験を基に、その背景について考察していく。

というのも、ジョージアでの差別は、いわゆる「欧米」とされるカナダ、フランス、ポルトガル三ヶ国のそれとは少し質が違うように思えてならないからだ。

「コロナ!コロナ!」と指をさされ…

筆者がジョージアに初めて入国したのは2020年の1月。そう、世界を震撼させた新型コロナウイルスの流行直前のことであった。

あの時期を海外で過ごしていた人なら多かれ少なかれ経験があるだろうが、当時のアジア系に対するあからさまな差別的態度は凄まじいものがあった。現地の人による心ない言葉や行動に、傷ついた人も少なくないのではないか。

当時のジョージアでも、アジア出身者に対する差別はあからさまで、ひどかった。それまで滞在していたアパートを「コロナが怖いから」という理由で追い出されたタイ人の友人がいたし、アジア系だからという理由だけで飲食店への入店を断られた日本人旅行者の話や、係員に手渡した紙のチケットを「消毒」と言われて目の前でライターの炎で燃やされた旅行者の話、地方部の村を旅行中の日本人が集団で暴力を受けた話まであった。

当時、筆者自身が受けた差別体験もある。市場で買い物をしている際に筆者を見た一人が「コロナ!」とこちらを指差して叫ぶやいなや、市場の人間全員が「コロナ!コロナ!」と大合唱するというもので、今考えるとなんとも幼稚で笑ってしまう。しかし、あのときの人々の侮蔑や悪意に満ちた表情は今でも鮮明に覚えている。

他にも、宿泊予約をしていた宿に行ったら、筆者を見た宿の人に「お前はここに泊まれない」と言われたこともある。明らかな旅行者風情の欧米人宿泊客がくつろいでいる目の前で、だ。

人種差別を受けた経験がある人なら分かってくれるだろうが、こうした体験は知らず知らずのうちに心をすり減らし、蝕んでいく。気持ちを強く持って差別に毅然と対応しようとしても、なかなか上手くいかないものなのだ。

筆者の場合は、ジョージア入国後すぐにコロナ禍という最悪のタイミングであった。人々の剥き出しの差別心を身近に感じながら日々を過ごしていたこともあり、入国から最初の二年間はどうしてもこの国が好きになれずにいた。

自分の中のそんな意識が少し変わったのは、2022年に入った頃。それまでの各種規制が撤廃され、コロナ禍がある程度過去のこととなった時期のことだ。

コロナ禍以降も、マイクロアグレッションとして差別は続く

コロナ禍というアジア系の人間にとって最悪の時期に比べると、2022年以降は、あからさまで直接的な差別を受ける機会は一気に減ったように思う。しかしながら、人々の心の奥底に根付く差別感情というものは簡単に消えるものではない。それまでの直接的な差別は、マイクロアグレッションという別の形で感じられるようになった。

「マイクロアグレッション」とは、言葉や行動などで直接される差別とは対照的に、加害者側には必ずしも差別感情や悪意があるわけではないにもかかわらず、被害者側は相手の言動や行動に悪意や差別意識を感じて心を傷つけてしまうことを指す。

身近な例を挙げるなら、結婚適齢期の未婚男女に対し「早く良い人見つけなきゃ!」などと親族がプレッシャーを与えることも、受け手によってはマイクロアグレッションと感じる場合もある。

ジョージアでのマイクロアグレッションは様々な場面で感じられるが、最も気になるのは「欧米系の白人とその他人種での扱いの違い」かもしれない。

欧米人と一緒にレストランなどへ足を運べばすぐに分かるが、ジョージアの人々の欧米人に対する態度と、私たち日本人をはじめとするアジア人や黒人、アラブ人など有色人種に対する態度は、決して同じではないことも少なくないのだ。

いくら現地の言葉を学ぼうが、現地の文化や歴史を知ろうと努めようが、ジョージアのことなど何も知らない欧米人のいち旅行者の方が「白人である」というだけの理由で手厚くもてなされ歓迎される。こうした状況を経験するたびに、なんだか虚しさを感じてしまう。

とはいえ、ジョージアの人々も意識的に白人とその他人種で態度を変えているわけではないように思う。多くの場合は無意識に、人種によって態度が切り替わってしまうのかもしれない。

「白人とそれ以外の人種で態度が変わる」という点について、筆者が強く感じるのは、ジョージアの人々の欧米に対する憧れや、劣等感のような感情だ。

ジョージアの微妙な立ち位置

はじめに「ジョージアでの差別や偏見は、欧米諸国のそれとは質が異なる」と書いた。

筆者が以前滞在していたカナダやフランス、ポルトガルは歴史的に白人が多数派の社会で、植民地となった経験や大国による統治を受けた経験がない国々だ。言い換えれば、少数派として差別を受ける側に立つことが少なかった人々の国であると言える。

こうした国々では、近代に根付いた人権意識や人種間の平等主義により、「人種やバックグラウンドで人を差別するのはいけないことである」という社会的通念が広く浸透しており、それに従わない人は「差別主義者」としての烙印を押されることとなる。近年でこそ移民問題や自国第一主義の台頭によって方針転換しつつある国も出てきてはいるが、基本的には「ヒエラルキーの上位に居て差別をされることがない白人が、その他の人種を差別することは許されない」という点は変わらない。

一方のジョージアでは少し事情が異なる。この国の圧倒的多数派はジョージア人であるが、彼らが「差別を受けることがない欧米人」であるかどうかは微妙なポイントであるためだ。

地理的にも歴史的にも、ヨーロッパ圏でもアジア圏でも中東圏でもないという微妙な立場にあるジョージア。オスマン帝国やペルシア帝国、ロシア帝国など、長い歴史の中で常に周辺の大国による支配を受け続けており、いわば「虐げられる側」であった。

近代に限っても、ソ連時代から現在に至るまで、多くのジョージア人がモスクワやサンクトペテルブルクなどロシアの大都市に出稼ぎに出ている。ロシアに出稼ぎに出たジョージア人はロシア社会においては明らかな少数派であり、偏見を持たれたり差別を受けることも少なくないと聞く。

このように、ジョージアの人々はジョージア国内では他民族より優位に立てるが、一歩外に出れば差別を受ける対象となり得る。この微妙な立ち位置から生まれた、欧米やロシアなど近隣の大国に対する劣等感のようなものが、筆者には感じられてならない。同時に、その劣等感の矛先が、ジョージアでは少数派であるその他の有色人種に向けられているようにも。

商店で、筆者の前に並んでいたロシア人に満面の笑みで対応していたのに、筆者の番になると途端に無表情になり、無言でお釣りを投げ渡してくるような店員に出くわすたび、そう思わずにいられなくなる。

今回はテーマ上、ジョージアで筆者が経験した差別や、人々の差別的意識や行動の背景に関する考察に焦点を当ててきた。これだけを見ると、「ジョージアでは差別が横行していて、アジア人は居づらい国」と思われてしまいそうだが、無論そんなことはない。ジョージアの人々の圧倒的多数は、どこの出身であろうが人種が何であろうが温かく迎えてくれるし、懐の広い人もたくさんいる。

実際、ジョージアに来て最初の二年間で経験した差別や偏見だったり、それ以降も日々遭遇するマイクロアグレッションに対するネガティブな気持ちは、この国で出会った美しい心を持つ人々との思い出によって見事に塗り替えられた。

道端で差別用語を連呼して嘲笑してくる若者グループもいるし、そうしたことがあるとやはり最悪な気分になる。「ああもう、本当にここで暮らすのは嫌だ」と思っていたら、道端の露店のおばさんにジョージア語を褒められて野菜をおまけしてもらい「もう少しここで頑張ってみようかな」なんて思えたりもする。

海外生活とは、良いことと嫌なことが交互にやって来ては、それに対処する気持ちが浮き沈むことの繰り返しなのだ。「嫌なことがあれば次は良いことがある」と、今では割り切って考えるようにしている。

世界中どこへ行こうとも、悪い人もいれば良い人もいる。差別や偏見がこの世界から消えてくれるのが一番ではあるが、まだまだそれは難しいだろう。

私たちにできることは、たとえ嫌な思いをしても挫けないほどの強い心を持つことと、一人の嫌な人の存在で全体を判断しない寛大な心を持つこと。それしかないのかもしれない。

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