なぜ「日本兵1万人」が消えたままなのか…硫黄島は「風化の条件が揃った島」であるという現実

写真拡大 (全2枚)

なぜ日本兵1万人が消えたままなのか、硫黄島で何が起きていたのか。

民間人の上陸が原則禁止された硫黄島に4度上陸し、日米の機密文書も徹底調査したノンフィクション『硫黄島上陸 友軍ハ地下ニ在リ』が12刷ベストセラーとなっている。

ふだん本を読まない人にも届き、「イッキ読みした」「熱意に胸打たれた」「泣いた」という読者の声も多く寄せられている。

硫黄島は風化の条件が揃った島

遺骨収集団は、日を追うごとに団結力が増していく。過去2回も今回もそうだ。炎天下の野外や、地熱に満ちた地下壕で、土木作業に不慣れな人々による作業を安全に進めるためには、30分に一度の休憩は必要だった。団員は高齢者が中心という実情もあるが、40代の僕もこの休憩はありがたいと思うほど、作業は大変だった。この休憩時間は、団員間の歓談の時間でもある。それが絆を日増しに太くしている一因に思えた。

その休憩時間のたびに、僕が話しかけた人物がいる。その人は作業要員ではなかった。作業要員ではないから作業に加わらなくても良かった。しかし、遺骨収集現場でその人を見ると、ある時は収集団員と一緒に全身、土まみれになって地面を掘っていた。ある時は、汗だくになりながら土砂を運ぶバケツリレーの列に入っていた。

その人は、日本歯科大学の影山幾男教授。厚労省が、遺骨の鑑定人として収集現場に派遣する専門家の一人だ。鑑定人は、収容された遺骨を分析して、重複する骨の数や発見時の状況などから、遺骨の人数を判定することなどが主な役目だ。

にもかかわらず、影山教授は多くの時間、現場の団員の輪の中にいた。だからあるとき、理由を聞いた。

「私も遺族の一人なんです。叔父が硫黄島で戦死しました」。それが答えだった。

笑顔が絶えず、明るく弾んだ話し方をする人だったが、この時の声は神妙だった。所属する日本人類学会を通じて、厚労省が鑑定人の確保に苦心していることを知り、協力することにしたのだという。僕はすっかり興味を引かれ、休憩時間によく話しかけた。休みたい時もあったと思うが、いつも笑顔で対話に応じてくれた。

僕はかねてから、人骨の研究者から教えてもらいたいことがあった。それをある日の休憩時間に尋ねた。

「硫黄島では1万人が未だに見つかっていません。見つからない理由の一つとして挙げられるのが『風化』です。どれぐらいが土に還ってしまったと推測しますか」

影山教授は「結論を言うと、それは分からない、ですね」と前置きした上で、こう指摘した。

「ただ言えることは、硫黄島は、遺骨が風化する条件が揃った島だということです。具体的に言うと、土壌の影響を受け、雨の影響を受け、発掘する人がいない、ということです。遺骨収集数が格段に進んでいる沖縄と比較すると分かりやすいです。例えば土壌。硫黄島は酸性ですが、沖縄はアルカリ性の土壌も広く分布している。骨が触れると風化するのは酸性の土壌です。沖縄には住民がいることも大きいです。だから、遺骨の風化が進んでいない時代から遺骨収集を進めることができました。硫黄島は戦後、今に至るまで住民がいません。戦後すぐに島民の帰還が認められれば現状は大きく違ったでしょう。雨の影響とは、雨の酸成分のことです。酸成分に触れるほど風化は進みます。これは沖縄とも共通することですが、硫黄島は、大量の雨がもたらされる台風ルートに位置します。もう一つ加えるならば、火山活動による地熱の影響もあるでしょう。実のところ、人骨の風化に関する研究論文を私は見たことがありません。今後、研究が進み、どれだけの遺骨が現存しているのか少しでも解明に近づくことが期待されます」

西暦2148年

今回の収集団。捜索活動の最終日は2月14日だった。約2週間、団員26人が懸命に土を掘り、収容した遺骨は、影山教授の鑑定の結果、20体以上になるとのことだった。近年の収集団は、収集数が1ケタにとどまることが多かったことを思うと、一定の成果を挙げたと評価できた。

一方で、今も1万人の遺骨が見つかっていないことを考えると、余りにも少ないと感じざるを得なかった。僕はこんな仮定をして計算した。今後も遺骨収集は年4回というペースで続き、各収集団が今回と同じように20体を収容したとする。このペースで遺骨収集を続けた場合、すべての戦没者の帰還が終わるのは、125年後だ。西暦2148年だ。これで良いのだろうか。こうした実情を知る国民は、どれだけいるのだろうか。

今回の最後の収集現場。それは現地作業員がショベルカーで深さ約2メートルまで土を掘った際、骨片が出てきた場所だった。捜索作業は2グループに分かれて行われた。

一つのグループはショベルカーが掘った深さ2メートルのくぼみに入って、シャベルなどで土中に遺骨がないかを捜した。もう一つのグループは、くぼみの近くの土砂の山を担当した。この土砂はショベルカーが掘った土砂が積み上げられた山だ。山の高さは2メートルほど。この土砂の山に遺骨が含まれていないかをチェックした。僕は後者のグループに加わった。

作業最終日であり、疲れはピークにきている。団員の中には、もう十分に体を動かせない人もいた。一方で、作業のペースを落とすどころか、むしろペースを上げ、土の中に骨片がないか目を皿にして遺骨を捜す団員もいた。その一人が、「くぼみ」の方を担当していた戦没者遺族の楠明博さんだった。

2年前の遺骨収集団で「じいちゃん、どこにいるんだよ」と言いながら作業していた、あの人だ。「山」にいる僕は、その背中を時折、見た。執念が、背中から伝わってきた。

その理由は、間もなく僕も気付いた。これまで見つかったのは、骨のかけらばかり。頭や肢体など主要な骨が揃わないと「1体」と鑑定されないのだ。「0体」という鑑定結果になってしまうのだ。つまり、この現場には記録上、戦没者はいなかったということになるのだ。それは、忍びないことだった。作業終了時間までわずかとなった。僕も加わった「山」のグループは捜索が終わり、シャベルなどの道具の片付けに入っていた。僕は、作業を続ける「くぼみ」のグループを眺めた。「あ、あった!」の声がした。団員の一人が影山教授に骨片を手渡した。「頭骨の一部ですね」と影山教授は言った。そして、タイムオーバーとなった。

手を休めなかった楠さんに声をかけた。

「お疲れ様でした。最後の最後まで土を掘っていましたね」

「いつもどこが引き際かと悩む。今日も心の中で何度も話しかけましたよ。『じいちゃん、どこにいるんだ、声を聞かせて』って……」

引き際──。これは国も同じだと思った。国の動きを見ていると、いつ遺骨収集事業の幕引きを図るのか、時期を模索しているように感じる。それが2年後の「終戦80年」になるのか、22年後の「終戦100年」になるのか、それとも僕が単純計算した「125年後」になるのか。ふとそんなことを考えた。

最後の頭骨の一部が見つかったことで、この現場の捜索活動は今回の収集団で終了とならず、次回の収集団に引き継がれることになった。この現場から「1体」を本土に帰せるかどうかは、2023年度の「イッシュウ」の団員たちに託されることになった。作業終了後に宿舎で行われたミーティングで、団長からそう知らされ、良かったな、と僕は思った。

一方で、ふと疑問が浮かんだ。例年だと、イッシュウが行われるのは7月だ。7月以降の半年間は概ね2ヵ月ごとに遺骨収集団が派遣されるのに、7月以前の半年間は遺骨収集が行われないのはなぜだろう。半年間、この現場は手つかずの状態となる。その間、暴風雨などにさらされれば、見つかる遺骨も見つからなくなってしまうのではないか。

その理由とみられる情報を在島中、現地に駐在する関係者が教えてくれた。

「FCLPが行われるからです。例年だと5月です。この前後、硫黄島はアメリカになる。米軍の兵士や関係者が大勢やってきて滞在するんです。収集団員が宿泊する場所がなくなる。だから毎年、この時期は、遺骨収集が行えないのだと思います」

FCLPは、米軍厚木基地(神奈川県)の空母艦載機による「陸上空母離着陸訓練」のことだ。住民生活に支障をきたすレベルの騒音を伴うため本土では行えず、硫黄島で実施されてきた。

日本側戦没者の帰還よりも、米軍の訓練が優先されているのだ。

つづく「「頭がそっくりない遺体が多い島なんだよ」…硫黄島に初上陸して目撃した「首なし兵士」の衝撃」では、硫黄島上陸翌日に始まった遺骨収集を衝撃レポートする。

「頭がそっくりない遺体が多い島なんだよ」…硫黄島に初上陸して目撃した「首なし兵士」の衝撃