「セックスの代償を払え」と迫られるのは女性だけ…妊娠した女性軍人が迫られた「退役か中絶か」という選択

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来たる大統領選挙に向けて、騒がしさを増すアメリカ。2024年9月現在のアメリカ合衆国連邦最高裁判事は、共和党大統領指名の保守派が6人、民主党大統領指名のリベラル派が3人と、非常に偏った構成になっている。連邦最高裁判事の指名権は大統領にあるため、大統領選の結果次第でこの比率に大きな影響が出るとして、期待と緊張が増している。

さて、民主党大統領候補のカマラ・ハリス氏、そしてハリス氏を援護するオバマ元大統領夫妻が、深く敬愛していた判事がいる。史上2人目の女性最高裁判事、故ルース・ベイダー・ギンズバーグ氏(通称RBG)である。彼女は、有色人種への差別を肯定する最高裁の判決を法廷で痛烈に批判した。この反対意見から大きなムーブメントが起こり、RBGはアメリカでもっとも有名な判事となった。

法曹としてはもちろん、妻、母、上司としても素晴らしく魅力的だった彼女の人生を伝える評伝『NOTORIOUS RBG』の日本語版『アメリカ合衆国連邦最高裁判事 ルース・ベイダー・ギンズバーグの「悪名高き」生涯』 が、RBGの4回目の命日を迎えるこの9月に出版となる。本書の中から、RBGの若手時代を紹介する。

※本記事は『アメリカ合衆国連邦最高裁判事 ルース・ベイダー・ギンズバーグの「悪名高き」生涯』(光文社)から一部抜粋し、再構成したものです。

前回記事:『女性を大切に尊重するのではなく、むしろ檻に入れて閉じ込めてきた…女性差別を正当化してきた「伝統的な精神」』

妊娠した女性軍人は「退役」か「中絶」の二択

スーザン・ストラック空軍大尉は、空軍で看護活動に従事していた。自分をフェミニストだと思ったことはない。かといって、「女性はこうあるべき」とされるような行動をするタイプでもなかった。ベトナム行きを志願したのもその一例だ。一九七〇年に妊娠がわかったとき、軍が示した選択肢は退役か中絶かの二択だったけれど、彼女はそのどちらも拒否した。

皮肉なことに、中絶は当時まだアメリカ合衆国のほとんどすべての場所で禁じられていた。一九六九年には過激なフェミニストたちがニューヨークの教会の地下室で中絶についての体験を語るという前代未聞の会合を開き、世間に大きなショックを与えたくらいだ。

ただし、軍の基地では例外的に中絶が可能だった。けれどカトリック教徒として育ったストラックは、子どもを産み、養子に出すつもりでいた。そのために必要な日数の疾病休暇も貯めてある。ストラックは解雇通知を無視し続け、ついにはこれに異議を申し立てた。そうして、アメリカ自由人権協会(ACLU)に助けを求めたのだ。

RBG(ルース・ベイダー・ギンズバーグ)はこの機会を逃さなかった。生殖に関わる自由は平等の条件なのだと認める判決を一歩ずつ獲得するため、まずは中絶を望まなかった女性の裁判から始めて、これを足がかりにしていこうと考えたのだ。中絶を禁止する一方で、軍に都合のいいときにはそれを許す国の政策の偽善を、彼女は感じずにはいられなかった。

このときACLUの他の弁護士たちは、もっと直接的に国の中絶禁止を攻撃する訴訟に取り組んでいた。同じ開廷期に最高裁で審理されていた「ドウ対ボルトン」裁判と「ロー対ウェイド」裁判だ。七年前の「グリズウォルド対コネチカット州」裁判で避妊禁止を無効とする最高裁判決を導いた弁論を意識して、「ロー対ウェイド」裁判と「ドウ対ボルトン」裁判の弁論趣意書では、中絶を平等の問題としてではなく、プライバシーの権利にかかわる問題として主張を展開していた。でもRBGの考えは違っていた。彼女が「ストラック対国防長官」裁判で最高裁に提出した弁論趣意書には、その点が明確に示されている。

一九七二年十二月四日、ストラック裁判の上訴趣意書を最高裁に提出したその日に、RBGは悪いニュースを知った。グリズウォルド訟務長官が敗北が近いことを察し、妊娠した女性を自動的に除隊させる方針を変更するよう空軍を説得したのだ。事件は争訟性を失ったものとして棄却されてしまった。けれど、RBGはこの事件を手放すつもりはなかった。彼女はノースダコタ州のマイノット空軍基地に異動させられていたストラックに、裁判を継続する道はないかと尋ねた。

ストラックは「自分はパイロットになるのが夢なんです」と答えた。それで、二人は大笑いした。女性パイロットだなんて―当時としてはあまりにも大胆すぎて、裁判で訴えたとしても、男性たちには理解さえできないほどに大きすぎる夢だった。

セックスの代償を支払わされる女性たち

ストラック大尉の裁判棄却から六か月後、「ロー対ウェイド」と「ドウ対ボルトン」の二つの裁判で判決が出た。六人の裁判官が、「憲法が認めるプライバシー権には、女性が自身の妊娠を継続するか否かを決定する権利も広く含まれる」との判断を示し、五十の州の中絶禁止法すべてを無効としたのだ。

RBGはその後何年も、歯に衣着せぬ物言いで、この裁判でのハリー・ブラックマン判事の判決理由を批判しつづけた。「女性が一人で決められるとでも思っているんでしょうか」と、彼女は軽蔑を込めて言った。「ドクターと相談しなければならないんですよ。そこには、立派なドクターと、その助けを必要としているちっぽけな女性という構図があるのです」。

しかも、一気にすべてを片付けてしまったこの判決は、一歩一歩ゆっくり進むというRBGの方針に反するものだった。彼女は、人の意識を変えさせるためには、ゆっくり進む以外に道はないのだと確信していた。

最高裁の選んだ道は、RBGが判事たちを説得して納得してもらいたいと考えていた論点から遠ざかっていくものだった。それも、もう後戻りできない道だ。もし中絶をプライベートな選択とするならば、他の医療と同じように公的な保険で中絶費用を負担してもらえる理由があるだろうか?

最高裁の答えは、「ノー」だ。ロー裁判から七年後、最高裁は、国が中絶費用を負担するのを禁止する決定を支持した。では、女性がストラック大尉のように妊娠継続を望んだ場合は?

彼女が差別されずに働き続ける権利は、プライバシーの権利で守ってもらえるのだろうか?

その答えは、すぐに明らかになった。

妊娠可能性を理由に女性を差別するのは当然⁉

雇用主たちは長いこと、女性が妊娠するかもしれないという理由で、女性を雇ったり昇進させたりするのを拒否してきた。妊娠した場合の休暇は有給ではなかったし、出産後に仕事に戻ることを希望しても復職の機会は与えられなかった。

そういう扱いが、女性には神に与えられた役割があるのだという根拠のない社会通念を創り出してきたのだとRBGは主張した。まさに、リード裁判やフロンティエロ裁判で無効とされた法律がそうだったように。

「そのような考えは、女性には肉体的な制約があり、社会の中でしかるべき場所があるのだという固定観念に根差している」、RBGは一九七〇年代に扱った妊娠関連の一連の裁判の一つで、最高裁に提出した意見陳述書の中でそう述べている。さらに、「このような雇用方針は、女性の特性や妊娠をとりまく現実を無視している」と訴えた。

妊娠中も子育て中も働き続けることを余儀なくされている女性がたくさんいることは、考慮されていなかった。「女性が妊娠したら、家にいて、赤ちゃんの世話をすればいい。すべてはすばらしいじゃないか。彼女には支えてくれる夫がいるのだから、そういう考えです」と、RBGは一九七七年に語っている。

「しかし、これらの裁判に原告として登場した女性たちに、夫はいませんでした。彼女たちは自分一人で自分を支え、生まれてくる赤ちゃんを支えなければならなかったのです」。妊娠した女性は、収入の有無にかかわらず、社会生活から退場すべきだと考えられていたのだ。

RBGはまた、妊娠した女性がどのような扱いを受けるかという問題は、性の営みの問題にも関わっていると考えていた。セックスをした証拠は、女性の身体だけに現れる。そして、女性だけがその行為の罰を受けるのだ。RBGは、妊娠したために名誉除隊ではなく単なる除隊となった女性軍人の弁護士に助言した手紙の中で、次のように書いた。

「もちろん、名誉でないと考えられたのは、『妊娠したこと』ではなく、そこに至る行為でしょう。それには二人の人間が必要ですが、性的関係をもったという理由で除隊になる男性は(おそらく、女性も)いません」

受け入れ難い最高裁の判断

最高裁は頑なに、この論拠のいずれも認めようとはしなかった。一九七四年の「ゲドゥルディグ対アイエロ」裁判では、妊娠を就業不能保障の対象にしていないのは、必ずしも女性への差別とはいえないとし、妊娠するのは女性だけとはいえ、すべての女性が妊娠しているわけではないのだから、と説明した。

別の事例では、ゼネラル・エレクトリック社の女性従業員たちが会社を相手どって裁判を起こした。同社の従業員給付制度が妊娠を就業不能保障の対象から除外していることを不当だとして訴えたのだ。かつてこの会社では、女性は結婚したら退職させられていた。

会社側の弁護士は最高裁の法廷で、真顔でこう述べた。「結局のところ、望んで妊娠したんでしょう。それにもし働きたかったら、今は『昼休みに日帰りで受けられる処置』も法的に認められています」。彼は、中絶をほのめかしたのだ。

驚くべきことに、一九七六年十二月七日、最高裁判事の過半数がこれに賛成した。レンキスト判事の執筆した多数意見には、妊娠は特別で、人種や性別とは異なり、しばしば「自発的で、希望によるもの」であると書かれていた。メッセージは明白だった。行為をしたら、代償を払わねばならない。―ただし、その支払いを求められるのは女性だけだ。

ウィリアム・ブレナン判事とサーグッド・マーシャル判事は、反対意見の中で、ゼネラル・エレクトリック社は「スポーツによるけが、自殺未遂、性病、犯罪遂行中または喧嘩で発生したけが、選択的な美容整形」に起因するいわゆる「自発的な」就業不能については除外していないことに抗議した。

ゼネラル・エレクトリック社の判決がでたその日のうちに、RBGは妊娠した従業員を差別から守る次の策を練るためミーティングを招集した。「彼女はさまざまな人をまとめることのできるリーダーでした」と、フェミニストでRBGの同僚弁護士だったジュディス・リヒトマンは振り返る。

「わずか二年で、このひどい悪臭を放つ―クソのような、と言ってもいいかな―判決をひっくりかえしたのです」。一九七八年十月、議会は妊娠差別禁止法を可決した。妊娠した従業員を他の一時的に就労不能となった従業員と同様に扱わなかった場合、雇用主は女性差別をしたとみなされることを明確にする法律だ。

一部のフェミニストは、妊娠を「スポーツによるけが」や「選択的な美容整形」とは本質的に異なるものと認めさせるべきだと考えた。でもRBGは、妊娠を特別なものとすることは逆効果になると主張して譲らなかった。

彼女は、性別による区別のない従業員管理が広がれば、雇用主が女性だけを差別の標的にするのは難しくなるだろうと考えた。自分自身の経験とクライアントの事例から、RBGは確信していたのだ。女性に恩恵を与えているように見えるあらゆることが、逆に女性の不利益につながるのだと。

性差別がすべての人を苦しめることの証明

すべての顧客の中で、RBGが最も深い交流をもったのが、スティーブン・ワイゼンフェルドだった。彼の妻は出産時に亡くなり、彼は一人で子どもを育てていた。この事案を最高裁で争うことは、「性差別はすべての人を苦しめる」と示すことのできるチャンスだ。

RBGの注意を引くきっかけとなったワイゼンフェルドの投書によると、彼が「専業主夫をしていた」あいだ、妻ポーラは教師として学校で働き、社会保険料を払ってきた。しかし、妻の死後に社会保障給付金(いわゆる「母親手当」)を受けられるのは、夫を亡くした妻の場合だけだった。

ワイゼンフェルドの訴訟代理人としてRBGが作成した最高裁への弁論趣意書には、「この法律には、経済分野における女性の努力をおとしめるために、この国でいつも使われてきたおなじみの固定観念が反映されている」と書かれている。

彼女は、さらに次のように主張した。「女性の被保険者の稼ぎ手としての立場は過小評価され、残された夫の親としての立場は無視されている。被上訴人は、父親であり母親ではないというだけの理由で、給付金を受け取ることができなかった。受給は、彼が幼い息子を自分の手で育てるために必要なものだ。

子どもには、世話をしてくれるもう一人の親はいなかったのだから」。それから彼女は論点を変える。幼い息子のジェイソン・ポールは、「父親を亡くした子どもたちを対象にする一方、母親を亡くした子どもたちは対象からはずすような」法律のもう一人の犠牲者なのだ、と。

RBGはコロンビア大学でのイベントに向かっていた運転中、たまたま切り替えたラジオのニュースでこの件の勝訴を知った。「聞いたその瞬間に思ったのは、『気をつけて、事故を起こさないようにしないと』でした」と、彼女はその日、記者に語った。

「大学に着くと、玄関ホールを駆け抜けて、この訴訟を手伝ってくれた学生たちにキスをし、喜びを分かち合いました。ふだんのわたしは、めったに感情をあらわにしない人間なのですが」。RBGは友人の一人に、思わず泣いてしまったとも語っている。

「伴侶に先立たれた親が、家に留まり子どもの世話をできるようにするという目的を考えると、法律が男女を区別しているのはまったく非合理的である」と、判決でブレナン判事は書いた。女性の権利には懐疑的なレンキスト判事も、この法律を無効とするほうに一票を投じたと語っている。理由は、それが子どものためにならないからだった。

少なくとも、彼は半歩を踏み出したのだ。RBGは、この訴訟について次のように書いている。「ワイゼンフェルド裁判は、男女均等という指針に向かう進化の一歩でした。その指針とは、伝統的な考えは残しつつも、同時に、人間としての可能性を最大限に発揮したいと願う男女が、その行動を通じて新しい伝統をつくりだしていけるよう、人為的な制約を取り除くことを求めていくものです」

「男性のみなさん、わたしたちの首を…」判事たちを圧倒したアメリカ史上2人目の女性最高裁判事が「引用したことば」