「土地は女性と同じく、所有されるべきものである」…かつてアメリカの教科書に当たり前のように書かれていた「衝撃の一文」

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来たる大統領選挙に向けて、騒がしさを増すアメリカ。2024年9月現在のアメリカ合衆国連邦最高裁判事は、共和党大統領指名の保守派が6人、民主党大統領指名のリベラル派が3人と、非常に偏った構成になっている。連邦最高裁判事の指名権は大統領にあるため、大統領選の結果次第でこの比率に大きな影響が出るとして、期待と緊張が増している。

さて、民主党大統領候補のカマラ・ハリス氏、そしてハリス氏を援護するオバマ元大統領夫妻が、深く敬愛していた判事がいる。史上2人目の女性最高裁判事、故ルース・ベイダー・ギンズバーグ氏(通称RBG)である。彼女は、有色人種への差別を肯定する最高裁の判決を法廷で痛烈に批判した。この反対意見から大きなムーブメントが起こり、RBGはアメリカでもっとも有名な判事となった。

法曹としてはもちろん、妻、母、上司としても素晴らしく魅力的だった彼女の人生を伝える評伝『NOTORIOUS RBG』の日本語版『アメリカ合衆国連邦最高裁判事 ルース・ベイダー・ギンズバーグの「悪名高き」生涯』 が、RBGの4回目の命日を迎えるこの9月に出版となる。本書の中から、RBGの若手時代を紹介する。

※本記事は『アメリカ合衆国連邦最高裁判事 ルース・ベイダー・ギンズバーグの「悪名高き」生涯』(光文社)から一部抜粋し、再構成したものです。

前回記事:『「男性のみなさん、わたしたちの首を…」判事たちを圧倒したアメリカ史上2人目の女性最高裁判事が「引用したことば」』

女性と黒人の立場

さかのぼること十年前の一九六三年。このころのRBG(ルース・ベイダー・ギンズバーグ)はまだそこまで闘いに明け暮れてはいなかった。シモーヌ・ド・ボーヴォワールの『第二の性』を読んで感銘を受けたものの、その思いはスウェーデンで得た民事訴訟法以外のほとんどの学びと同じように、ひとまず棚上げされていた。

あるとき、RBGが授業を行っていたコロンビア大学の教授が、ラトガース大学が女性の教職員を探していると教えてくれた。コロンビア大学ではちょうどそのころ、唯一在籍していた黒人教授が職を去っている。ロースクールに女性と黒人の常勤教授がいないことも、特段問題視される様子はなかった。アメリカ全土でみても、終身在職権をもつ女性のロースクール教授はたったの十四人。そしてラトガース大学には、そのうちの一人がすでに在籍していた。やがてRBGはその一人であるエヴァ・ハンクスとともに《ニューアーク・スター・レッジャー》紙に取り上げられ、「教授用ローブ、二人の女性に」と題された記事で経歴を紹介されることになる。記事は冒頭で二人を「スリムで魅力的」と紹介し、「その若々しい容貌から学生と間違えられそうだ」とおおげさに書き立てた。

「あなたには、給料の良い旦那さんがいるでしょう」

ラトガース大学では、最初は一年契約で民事訴訟について教えることになった。給料は安かった。なにしろうちは公立大学だし、それにあなたは女性だから、とウィラード・ヘッケル学部長は言った。「大学側からこう言われました。『我々としては、あなたにA氏と同じくらいの給料を払うわけにはいかない。彼には子どもが五人いる。でもあなたには、給料の良い旦那さんがいるでしょう』」。RBGは慎重に名前を伏せつつ、そう振り返る。「だから、わたしはこう尋ねました。『でも、独身男性のB氏の給与もわたしより高いようですが』。すると返ってきた答えは『そうですね』でした」。

会話はそれで終わってしまった。RBGはじっとおとなしく口をつぐんで、マンハッタンのペンシルベニア駅からニューアークまで電車通勤をする毎日を送り、「海外における民事判決および仲裁裁定の承認と執行」といった論文をいくつか執筆した。そして、二年目の契約を勝ち取った。

ここでサプライズが起こる。以前、(夫の)マーティーが精巣がんの手術を受けたあと放射線治療を始める前の段階で、二人は医師からこう告げられていた。このわずかな期間が、二人目の子どもをつくれる最後のチャンスになります、と。でも、そのころ夫婦はロースクールとまだ小さな我が子の世話で大わらわで、そのうえマーティーがいつまで生きられるかもわからなかった。もう一人子どもを産むなんて、とても考えられなかった。娘のジェーンが十歳になるころには、ひとりっ子も悪くないものだということをジェーンにどうにか納得してもらえそうな感じにもなっていた。

ところが一九六五年の初め、RBGは自分が妊娠していることに気づく。「どうか教えて」、担当の女性医師はRBGの手を握って尋ねた。「ほかに誰かいるのね?」。そんな相手はいなかった。検査をした結果、マーティーにはまだ精子をつくる機能が残っていることがわかったのだ。

妊娠は「倫理および管理上の資格を欠く」行為?

妊娠していると知った喜びは、仕事に対する不安とごちゃまぜになっていた。ラトガース大学との契約は春学期の末に更新されることになっている。RBGは、以前にオクラホマ州の社会保険事務所でおかしたのと同じ過ちを再びくり返す気はなかった。彼女は義母のクローゼットを頼ることにした。イヴリン・ギンズバーグは服のサイズがRBGよりワンサイズ大きいのだ。出産予定日は九月なので、目に見えてお腹が大きくなってくるのは夏季休業に入ってからだろう。この作戦はうまくいった。RBGは春学期の最終授業を終え、翌年の契約を手にして、それからようやく同僚の教授たちに妊娠を打ち明けた。第二子のジェームズは九月八日に無事生まれ、ギンズバーグ教授は何ひとつ変わったことなどないという顔で学生の前に戻ってきたのだった。

でも、変わっていたものもあった。彼女の授業を受けていたロースクールの学生の一人は、フリースピーチ運動〔訳注:一九六〇年代に起こった言論の自由を求める学生運動〕のメンバーになっていた。「彼は毎日わたしの授業の直前になると、木に登って枝に腰かけ、こちらに向かってあざけるようなジェスチャーをたびたび投げかけてきました」とRBGは回想している。彼女がラトガース大学で教えはじめたころには、どの学年の座席表をみても女子学生は五、六人ほどだった。それが、ベトナム戦争のため戦地に赴く男子が増えたことで、ロースクールに占める女子の比率も上がっていく。

大学の外に目をやれば、高等教育を受けた中産階級の女性たちが家庭での役割に不満を抱く姿を年代を追って論じた『新しい女性の創造』が大きな反響を呼び、ペーパーバック版初版は百万部を売り上げていた。一九六四年に制定された公民権法には、雇用における性差別の禁止が盛り込まれた。もっとも、その経緯はほぼ偶然といえるくらいぎりぎりのもので、議員のあいだでは「かかあ天下」を揶揄するたくさんの軽口が飛び交ったのだけれど(エマニュエル・セラー下院議員はこんなジョークを飛ばしている。「我が家で最後に物を言うのは夫のわたしですよ。『わかったよ、おまえ』ってね」)。

「女性だから」と拒否された人々からの大量の手紙

RBGがボランティア弁護士として登録していたアメリカ自由人権協会(ACLU)のニュージャージー支部には、女性たちからの手紙が殺到していた。女性の弁護士ならうまく対処できるんじゃないかと依頼を受けて、RBGはそれらの手紙に一通一通律儀に目を通した。

リプトン社に勤めているある女性は、家族を健康保険の扶養に入れようとしたところ会社から拒否された。扶養家族がいるのは既婚男性だけ、というのが会社側の考えだったからだ。プリンストン大学の夏季工学プログラムへの参加を断られた女子もいた。ニュージャージー州ティーネックで一番のテニス選手は、女子だからという理由で大学代表チームに選抜されなかった。

なかには、RBGにとって身につまされる手紙もあった。目に見えて妊娠したとわかる体つきになったとたんに、あるいはそうなる前に解雇された教師たちからの手紙。学校側はそれを「産休」と呼ぶけれど、実態は任意でもなく、給与も支払われず、出産後に復職できるかどうかも学校側の裁量しだいだ。妊娠したことで名誉除隊処分となった女性軍人もいた。再入隊しようとしたところ、妊娠は「倫理および管理上の資格を欠く」行為にあたるとわかったという。

こういった問題はずっと以前からあって、どれもけっして目新しいものじゃない。ただ以前と違うのは、それに対して声を上げるべきだと考える人が出てきたことだ。RBGは、これまでそんなふうに考えたことはなかった。

新たにロースクールに入ってきた女子学生たちは、RBGより十歳かそれくらい若い世代だ。彼女たちは不満の声を上げるよりも、さらに一歩進んだ行動を起こしていた。新入生のなかには、学生非暴力調整委員会(SNCC)で公民権運動に加わっていたミシシッピ出身の女子学生たちもいた。彼女たちは弁護士が先頭に立って人々を導く姿を見て、ロースクールを目指した。そうして入学した先で、「女性は前に出ず周りに合わせろ」という空気を目の当たりにしたのだ。そのころ、大学は渋々ながら女性の席を増やしはじめていた。特に、一九六八年にジョンソン政権が政府補助金の停止にあたる条件のリストに性差別を加えてからは、その動きがさらに進んでいた。

RBGはそんな学内の女子学生たちの姿を感嘆の目で見ていた。波風を立てるのを恐れていた自分の世代と彼女たちは、なんと大きく違うことだろう。一九七〇年に数人の学生がRBGのもとにやってきて、ラトガース大学史上初となる女性と法律に関する授業をしてほしいと頼んできたとき、彼女は喜んでそれをオーケーした。女性の地位に関する判決と法律論評誌の論文のすべてに目を通すのに、一か月とかからなかった。それだけ判例が少なかったのだ。当時よく使われていた教科書には、こんな一文が書かれていた。「土地は女性と同じく、所有されるべきものである」(ちなみにこれは土地所有権に関する教科書で、女性のくだりはただの比喩だった)。

図書館をあとにしながら、RBGははっきりと悟っていた。おとなしくすべてを受け入れていた自分とは、今日でさよならだ。それには、これまでラトガース大学に許してきた「レディース割引」を拒否することも含まれていた。RBGは他の女性教授たちと力を合わせて、大学を相手取って賃金差別を訴える集団訴訟を起こした。そして、勝利を勝ち取った。

次回記事『最高裁に初めて「性差別を違法と判断」させたルース・ベイダー・ギンズバーグ判事の戦い方』へ続く。

最高裁に初めて「性差別を違法と判断」させたルース・ベイダー・ギンズバーグ判事の戦い方