「結核患者を寺で預かってくれ」…大阪・釜ヶ崎の労働者と向き合う”覚悟”が試された僧侶の”決断”

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1960年代ストリップの世界で頂点に君臨した女性がいた。やさしさと厳しさを兼ねそろえ、どこか不幸さを感じさせながらも昭和の男社会を狂気的に魅了した伝説のストリッパー、“一条さゆり”。しかし栄華を極めたあと、生活保護を受けるに至る。川口生まれの平凡な少女が送った波乱万丈な人生。その背後にはどんな時代の流れがあったのか。

「一条さゆり」という昭和が生んだ伝説の踊り子の生き様を記録した『踊る菩薩』(小倉孝保著)から、彼女の生涯と昭和の日本社会の“変化”を紐解いていく。

『踊る菩薩』連載第104回

『ギャラは「100万円」だったはずなのに…講演嫌いの「人気作家」が格安で引き受けた理由とは』より続く

「実践者としての僧」戸次

頭の中だけの思想では、人助けはできない。街を歩き、全身で世の中と交流するなかで、宗教者としての役割が見えてくると戸次は信じていた。

「僧侶は自分たちで世界を狭くしているところがあるんです。私はそこに反発していた。地域住民の感覚を持っていることが必要だと思っていた。さまざまな経験をしている人と会い、いろいろと学びたかったんです」

そんな思いを抱いて、反靖国・反天皇制連続講座に出席したとき、出会ったのが稲垣だった。彼は「釜ケ崎と天皇制」と題し講演していた。

戸次は当時、釜ケ崎という街になんとなく差別意識を抱いていた。多くの人が持っているであろう、「あそこに住んどる人らにも問題はあるんやないのか」といった感覚である。稲垣の講演を聴いた後、自らの足で釜ケ崎を歩き、屋台でコップ酒を傾けた。

そして、この街の実像を知ると、ほとんどの人は決して怠けているわけではなかった。さまざまな事情から、この街に流れ着いた者が多く、話してみると、気のいい者ばかりだった。自分より他者を優先しているうちに、この街に住み着くようになった人が少なくなかった。

劣悪な結核患者の状況

「あの街には優しい人が多い。ホームレス風の人と隣同士で飲んでいると、『兄ちゃん、身体大丈夫か。身体だけは大切にせなあかんで』って気を遣ってくれますもん。自分のほうがよほど大変やのに」

日雇い労働者たちと交流を深めた戸次に80年2月、難問が持ち込まれる。稲垣からこう相談されたのだ。

「結核患者を預かってもらえんやろか」

釜ケ崎の労働者と本気で付き合う覚悟はあるのか。それが試される局面だった。

衛生環境や栄養不良からこの地域では結核が広まり、患者は約1700人になっていた。稲垣は「釜ケ崎結核患者の会」を作り、患者が差別されずに治療してもらえるよう病院と交渉し、治療後の生活保護受給のため行政と掛け合っていた。

結核と診断された労働者は、大阪市民政局によって府内の公立・私立病院5ヵ所に入るよう指導される。そのなかには行政からの助成金をピンハネするだけで、ほとんど回診もせず患者を放置している病院があった。

患者は病院に提出した要望書で、

1週間に最低2度の回診

1ヵ月に1度の病状説明

血沈検査や尿検査の結果説明

薬の副作用を防ぐための検査実施

ガードマンによる身体検査や物品検査の廃止

トイレでの専用げたやちり紙の設置

などを求めた。どれも至極当たり前の要求である。そうしたことさえ書面で求めざるを得ないほど、釜ケ崎の患者は劣悪な状況に置かれていた。

患者を「食いもの」にする病院から、20〜30人を「脱出」させる計画を稲垣は立てた。そして、患者を預かってもらえないかと、戸次に相談したのだ。

実践者の覚悟

戸次は母、妻と一緒に稲垣から説明を聞いた。預かるのは結核を患った日雇い労働者である。家族は「うーん」と考え込むばかりで、断りたがっているのがひしひしと伝わってくる。泉大津は保守的な町である。檀家に知られたら反対されるのは目に見えている。戸次は自問自答する。

「寺はこんなことに利用する場所ではないやろ」

「寺だからこそ、困っている人たちに開放すべきや」

彼の頭には、断る理由とそれを打ち消す意見が交互に浮かんでくる。

普段、反差別の側に立ち、労働者と寄り添うふうを装いながら、心底では、困っている人を救うのを躊躇しているのか。援助を求めてきた人を門前払いした場合、背中に五寸釘を刺された感覚を味わうはずだ。そして、その傷は一生ついて回る。迷った彼はとりあえず一週間程度、本堂を提供すると決めた。

病院は患者が外に出ないよう、病棟にカギをかけていた。それを開けて患者たちが逃げ出したのが3月8日深夜だった。当初約30人が脱出する計画だったが、病院側の警戒が厳しく、抜け出せたのは7人にとどまっている。

本堂でそれぞれ簡単に自己紹介した後、患者は眠りに就き、翌朝7時半からの勤行にはそろって参加した。

その後、府医療対策課や地元保健所から担当者が寺に来て、病院での実態を聞き取った。見慣れぬ男性たちがいることに不信を抱いた住民のなかには、「連合赤軍に寺が占領された」と考えた者もいたらしい。

ほどなく7人は別の施設に移っていった。南溟寺での滞在は6泊7日になった。これをきっかけに戸次は釜ケ崎の労働者たちの信頼を得る。そして、身寄りのない人が釜ケ崎で亡くなると、葬式で経をあげてきた。彼は釜ケ崎の人々についてこんな感想を持っている。

「あそこの人を、人生の敗残者のように見るのは一面的ですね。生きやすいので、あそこで暮らしている人が多い。自分たちのやっていることは文化的で、あそこで生きている人は肉体労働しかできない落ちこぼれと考えるのは、実態を知らない者による偏見であり、差別意識の表れです。

人にはそれぞれ、自分に合った生き方があると釜ケ崎は教えてくれる。人の生き方や考え方は同じではない。あそこの人たちと交流するとそれを認識できます」

『「宗教弾圧だ!」...仏教界騒然!″過激派集団”の拠点として寺を捜索してきた検察に住職がした″復讐”とは』へ続く

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