超スピード出世だが…大関昇進を果たした「大の里」に落胆した理由と「横綱になる日」

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ちょんまげ大関の誕生

大の里は入幕して5場所で大関に昇進した。

スピード出世である。

過去、スピード出世というと、私は、北の湖と千代の富士の二人をおもいうかべる。

入幕してからのスピードではなく、関脇に上がってから、そのまま大関、横綱へと一気呵成に昇進していった、というポイントでいえばこの二人になる。

北の湖は、昭和47年(1972)一度入幕したあと十両陥落があり、5月に再入幕をして、それから9場所(一年半)で関脇に上がった。9場所中負け越しが3回。

それが昭和48年(1973)11月場所である。

関脇でまず10勝、ついで14勝で優勝、2場所で大関になる。

大関では10勝のあと、13勝で優勝、13勝(優勝同点)で3場所で通過、すぐに横綱になった。

あっという間だった。

昭和48年11月場所に「新関脇」になって、昭和49年9月場所で「新横綱」である。

新関脇から新横綱まで所要5場所、一年かかっていない。

とてつもなく早い。

その北の湖が大横綱の風格を見せているころ、威勢のいい若武者という気配を漲らせて千代の富士が登場してきた。

スターが誕生した瞬間

千代の富士は、いちど入幕(昭和50年)したあとに怪我をして低迷の時代が長く、昭和53年(1978)1月場所に再入幕するもまた十両陥落、再々入幕が昭和54年(1979)7月場所であった。

そこから7場所で新小結、10勝して新関脇になったのが昭和55年(1980)11月場所である。新関脇でも11勝、明けて昭和56年1月場所、14勝で関脇で優勝した。新関脇から2場所で大関になった。

大関は11勝、13勝、14勝(優勝)と3場所で通過。

新関脇から5場所で横綱になった。

昭和55年11月場所に「新関脇」、昭和56年9月場所「新横綱」になったのだ。

北の湖と同じスピードである。

千代の富士でもっとも記憶にのこっているのは、関脇時代の優勝である。

千秋楽に横綱北の湖に敗れて14勝1敗で同点、大横綱と優勝決定戦となったが、この時点で優勝20回の北の湖と、優勝0回の関脇千代の富士ではまず無理だろうとおもって見守っていた。でも千代の富士が勝った。出し投げだったとおもう。北の湖が膝をついた。日本中が沸いた。

まさにスターの誕生、という瞬間であった。

私は「起点としての新関脇」をポイントに見ている。

初めて関脇に上がり、そこで停滞することなく、そのまま一挙に「横綱に昇りつめる」というところが大事だとおもっているのだ。関脇に一度あがっても陥落するのは勢いに欠ける。関脇も大関もただの通過点にすぎないというスピードで出世するのがダイナミックなのだ。

このダイナミックなスピード感をもう一人あげるのなら、大鵬幸喜になる。

新関脇から7場所で横綱になった大鵬

北の湖より13年前、昭和36年に横綱になっている。彼の出世を私はリアルタイムでは見ていない。私は昭和33年生まれなので、気がつくとこの人はずっと横綱だった。

そのぶん、彼のスピード出世について、当時からたくさん聞かされていた。小学生のころにはすでに何度も聞いていたので、いまや自分で見たような気分になっている。

大鵬は昭和35年初場所に19歳で新入幕、初日から11連勝するも12日目に小結の柏戸に下手出し投げで敗れる。新入幕ながら12勝。

翌場所は7勝8敗と負け越すが、次の場所に11勝して小結に昇進、そこでも11勝して、昭和35年9月場所には「新関脇」となった。

関脇1場所めで12勝、関脇2場所目は13勝2敗で優勝する。

入幕して6場所で大関に昇進した。昭和36年1月。

ただ大関になってから半年3場所、10勝、12勝、11勝と優勝争いの先頭には立てず、やっと7月場所に13勝で優勝、つづいて9月場所も決定戦で勝ち抜いて連続優勝した。

昭和36年11月場所に新横綱となる。

新関脇から新横綱になるまで7場所だった。

入幕からでも11場所、2年かからずに横綱になっている。

入幕から横綱まで、というスパンでみるなら、やはり大鵬幸喜がもっともすごいとおもう。(年齢でのスピードと、「初土俵」からのスピードがときどき取り上げられるが、スタートが同一でないので、その比較にほとんど意味がないと私はおもう)

ほかには早い出世となると、たとえば朝青龍も早かった。

早かった朝青龍と双羽黒

朝青龍明徳。

平成13年(2001)1月場所に新入幕。

4場所めに小結に上がり7勝8敗と負け越して平幕に落ちたが、そのあと10勝、次も10勝で平成14年初場所に新関脇となった。

関脇で8勝、11勝、11勝、12勝と4場所いて、平成14年秋場所に新大関となる。

大関では10勝、14勝(優勝)、14勝(優勝)で3場所で大関を通過した。

新関脇から7場所かかって新横綱で、大鵬と同じスピードである。

ちなみに双羽黒も早かった。

双羽黒のことを覚えている人がどれだけいるのだろうかとおもってしまうが、北尾の名前で大関まで取っていた。横綱に昇進するときに双羽黒に改名して、そのあと8場所しかいない。

双羽黒は入幕して4場所勝ち越して、5場所目に関脇に上がる。ここで負け越して一場所だけ平幕に落ちるも、すぐに大きく勝って、昭和60年(1985)9月場所に再び関脇となる。11勝、12勝とあげて2場所で関脇を通過、昭和61年(1985)1月から大関となる。

大関では、10勝、10勝、12勝、14勝と勝って、4場所で通過。

昭和61年9月場所に横綱双羽黒となった。

再関脇から6場所経過して、ちょうど1年で横綱となった。早い出世である。

ただし、一度も優勝していない。

その後8場所横綱であったが、ついに一度も優勝することなく、昭和62年の年末に親方と揉めて、廃業となった。

昭和63年(1988)正月元日のスポーツ新聞は、全紙「双羽黒廃業」の大見出しが踊っていて、その新聞を読みながら初詣に向かったのをよく覚えている。

曙太郎も、関脇2場所、大関4場所の6場所通過で横綱になっているので早いのだが、一気ではない。

平幕に二度落ちていた曙

入幕5場所め(平成3年5月場所)に新関脇となるが負け越し、平幕に落ちて、小結に上がるも負け越して平幕に落ちて、というのがあって、平成4年3月場所に再び関脇に上がってから、ここからは横綱まで6場所であった。

つまり新関脇から一気、というわけではない。最初の関脇から横綱になるまでは11場所かかっているので、私は圧倒的なスピード出世という印象を抱いていない。

あと新関脇から横綱まで10場所以内は2人。

輪島が関脇4場所、大関4場所の8場所。

白鵬は関脇2場所、大関7場所なので9場所かかっている。

このあたりが「関脇になってからあっという間に横綱になった」という力士たちである。

そして大の里である。

令和6年の成績(入幕後の全成績である)

1月場所(新入幕)で11勝4敗。

3月場所、前頭5枚目で11勝4敗。

5月場所、小結で12勝3敗で優勝。

7月場所、関脇で、初日から連敗したのが響いて、9勝6敗。

9月場所、関脇で、13勝2敗で2度目の優勝。

場所後、大関へ昇進。

大の里はすぐにでも横綱になるのではないかとおもっているのだが、さて、どれぐらいで大関を駆け抜けることができるだろう。

もっとも早ければ、来場所から2場所優勝すれば令和7年1月場所終わりで(つまり3月場所から)横綱に昇進できる。

でも、そんなに簡単にはいかないだろう。ふつういかないはずである。

過去の例でも入幕してから「負け越したことなく横綱になる」というのは、あまり、ない。

記録上はある。

大の里に落胆した理由

たとえば天明寛政年間の、実質二代目横綱である小野川の記録は、残っているぶんでは入幕してから横綱になるまで負け越していない。

戦争中から戦後にかけて活躍した横綱の東富士もそうである。

ただ、一場所10日、年2場所だけという「一年を二十日で暮らす」時代の記録はあまり比較しても意味がない。

一場所15日、年6場所となってからは、「入幕してから一度も負け越すことなく横綱になった力士」は存在しない。

大の里には可能性がある。

でもねえ、9月場所、千秋楽に阿炎にあっさり敗れたのなどを見ていると、そう簡単ではないとおもう。阿炎に勝てば関脇で14勝で優勝となって、北の湖と千代の富士とまったく同じだと強く期待していたのだが(あまりに勝手な期待でもあるが)あっさり負けて、かなり落胆した。

少し大関で時間をかけてこそ、しっかりした横綱になるのではないかということで、来場所から大関に5場所在位、一年後の令和7年9月場所から新横綱大の里というあたりがいいとおもうがどうでしょう。聞かれても困るか。

令和7年中には横綱になって欲しい、なるはずだ、と期待している。

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