苦難のなか『源氏物語』を「ロシア語訳」したロシア人女性がいた…彼女の日記が、私たちに伝えること

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新しい視点をくれる

『源氏物語』は、今年の大河ドラマ『光る君へ』のテーマとなり、日本中の注目を集めています。

じつはこの物語、いまから100年ほど前にアーサー・ウェイリーというイギリスの東洋学者によって初めて英語に全訳され、『ザ・テイル・オブ・ゲンジ』と題されたその書物は、イギリスをはじめヨーロッパやアメリカで大反響をもって迎えられました。

そして21世紀のいま、そのウェイリー訳『ザ・テイル・オブ・ゲンジ』をあらためて日本語に翻訳し直したのが、毬矢まりえさん、森山恵さんのお二人です(二人は姉妹)。

毬矢さん、森山さんは、英訳をさらに日本語訳するなかでさまざまな発見をします。その発見をまとめ、これまでになかった角度から『源氏物語』の読み方を教えてくれるのが、『『レディ・ムラサキのティーパーティ らせん訳「源氏物語」』です。

本書では、さまざまな国の文学者たちが『源氏物語』と向き合う姿も紹介されています。

たとえば、ロシアの日本文学者であるタチアーナ・L・ソコロワ=デリュシーシナ。彼女ははじめて、『源氏物語』をロシア語訳していますが、彼女の日記から、毬矢さん、森山さんは、翻訳をつづける勇気と、そして新しい視点を授けられます。

この「新しい視点」は、デリュシーシナが、光源氏と関係をもつ女性の一人、末摘花(すえつむはな)の美徳を指摘したところから得られます。

源氏物語は英訳ののち、ウェイリー訳から各国語への重訳も含め多言語に翻訳されているが、ロシア語にはじめて個人全訳したのは、タチアーナ・L・ソコロワ=デリューシナという日本文学者。複雑な国情のなか『源氏物語』を愛し、守り抜いた人である(翻訳の底本は古典原典だが、谷崎潤一郎、与謝野晶子、円地文子訳のほか、アーサー・ウェイリーとサイデンスティッカーの英訳も参照したと記している)。彼女の源氏日記はわたしたちの心に寄り添ってくれるもので、翻訳中に読み返しては勇気をもらった。

デリューシナが『源氏物語』翻訳を手がけたのは、一九七六年から一九九〇年にかけての十四年間。後半はペレストロイカが進み、ソビエト連邦が解体へと向かう時期である。日記には日常のさまざまな困難も記される。立ちはだかる官僚主義、インフレ、市場の混乱。ときには砂糖、ときには石鹼が払底する。ジャガイモ、バターや牛乳のための長い行列。日本への渡航や出版計画は幾度も頓挫する。「『源氏物語』は印刷所に眠っており、何の動きもない。紙がないのだ。徐々に活字になった姿が見られるという望みを失いつつある」。わたしたちも「この源氏をほんとうに出版してもらえるだろうか、四巻完結できるだろうか」と折々不安に襲われたが、彼女に比べたらこれくらい、と奮い立った。

日記には日本文学への深い理解と、プルーストを思わせる流麗な文体があった。モスクワ郊外の豊かな自然描写、彼女の繊細な内面世界、源氏物語からの引用が美しく編み合わされ、日記文学としても心を打つ。「私の心の中で鳴り響く声─記憶の声や十四年以上常に私の道連れであった紫式部の声」に耳を澄ませながら「私は、私の魂がその呼びかけに呼応した思いを綴ってきたのだ」と書かれている。ここにもわたしたちと同じように千年前の紫式部と対話しながら『源氏物語』と生きるひとがいる、と共感と大きな喜びを覚えた。

そのタチアーナさん(と、わたしたちは親しみを籠めて呼びかけていた)の日記にも、容姿にとどまらぬ末摘花の側面が描かれていた。それは信じて「待つ」姿である。

清書した後「蓬生(よもぎふ)」の巻を手直しした。訂正個所はずいぶんな数になる。この巻は一番好きな巻のひとつ。できるだけよくしたい。(……)

待つということは、最も内面豊かで、最も多彩な人間の感情の一つだ。

もちろんこれまでにも末摘花の美徳は、多々指摘されてきただろう。けれどタチアーナさんの「一番好きな巻のひとつ」との記述によって、わたしたちも改めてこの場面に目を向けることとなった。

ゲンジに置き去りにされた姫君は、「蓬生」でもコミカルなままである。ゲンジがいつかは帰ってきてくれる、とただ思い込んでいる。周囲の者も─おそらくは読者も、ここまでなんの便りもなく捨て置かれているのだから、まさかと思う。けれど彼女は曇りなく信じているのである。そのうえ末摘花は困ったことに、なにがなんでも受け継いだ家屋敷をそのまま保とうとしていたのだ。すでに崩壊寸前だった邸は実際に崩れだし、庭は目も当てられぬ有り様となる。

長年、無惨に放置されてきた御殿の敷地は、いまや完全なジャングル(密林)と化していました。庭の小道にはキツネが巣穴を作り、趣きのあった植え込みは、暗く湿った禁断の森。そこから夜となく昼となくフクロウが鳴くのが聞こえて来るのです。人間の気配はもうなく、雑木林は絡みあうように茂り、薄暗く日の光がかすかに差すばかりでした。この荒廃のただなか数人の侍女がなんとか暮らしていましたが、彼女たちも、敷地には木の霊や妖怪(ツリー・スピリットやモンスター)が棲みついて跋扈(ばっこ)していると言って憚(はばか)りません。

この荒れ放題の庭が、帖タイトル「蓬生」の由来である。

こんな邸に住むのは御免とばかり、残っていた数少ない侍女たちも逃げるように辞めてゆく。けれどプリンセスは、ぽつねんと取り残されても頑なに動かない。孤独でなんの慰めもない。そして「音泣(ねな)きがちに、いとゞおぼし沈みたるは、たゞ山人(やまびと)の赤き木の実ひとつを顔に放たぬと見え給ふ御側目(そばめ)」、つまり泣き濡れる末摘花の鼻は、またもや真っ赤に染まる。

イギリスの東洋学者・ウェイリー、そしてロシアの日本文学者・デリュシーシナ……さまざまな国の人々とのかかわり合いのなかで、『源氏物語』という作品が豊かになっていく様子は、じつに感動的です。本書にはほかにも多数、源氏物語が豊かになっていくプロセスが紹介されています。

さらに【つづき】「源氏物語の「光源氏」が、「英語」ではどう訳されているかご存知ですか? その「意外な答え」」の記事でも、『源氏』の意外な側面について紹介します。

源氏物語の「光源氏」が、「英語」ではどう訳されているかご存知ですか? その「意外な答え」