フランス民法や銀行だけじゃない…パリの街を巡りながらたどる「ナポレオンが残したもの」

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フランス第一帝政の皇帝皇帝に即位し、ナポレオン1世となったナポレオン・ボナパルト(1769−1821)。パリには、ナポレオンが残した有形無形のものがたくさん存在しています。

パリの街を巡りながら、たどっていきましょう。

【本記事は、『物語 パリの歴史』(高遠 弘美著)より抜粋・編集したものです。】

旧体制を葬り去った、ナポレオンのさまざまな施策

エジプト遠征から舞い戻ったナポレオンは、1799年11月9日、シエイエスらとともに、軍事クーデターを起こし、総裁政府を倒して統領(執政)政府を樹立します。これが名高い「ブリュメール(霧月)18日のクーデター」です。第一統領(執政)となったナポレオン政権の始まりでした。

1802年の終身統領(執政)を経て1804年に皇帝となるまでの間、ナポレオンが行った施策は重要です。そのおもなものをいくつか挙げてみましょう。

1800年 フランス銀行の設立

国内の貨幣統一と経済的安定のためでもありました。

1802年 レジオン・ドヌール勲章の創設

旧制度では軍人のみが受けた勲章がすべての人々に開かれました。

1804年 フランス民法典の施行

当初は「フランス人の民法典」という名前でしたが、その後、ナポレオン法典と名称が変わり、一般には「民法典」と言われることが多いものの、ナポレオン法典の名称がまったく廃されたわけではなく、現在に至ります。

言うまでもなく、ナポレオン自身の家父長制的側面が反映された規定などはその後、時代の変化に合わせ、大幅な書き換えを施されたところもありますけれど、基本的には各時代の民法はナポレオン法典をいわばバージョンアップしたものとして、200年以上フランスで用いられてきました。ナポレオン法典は近代市民社会を支える私法の規範となったのです。

ここで書いておかなければならないのは、そこに見られる先駆的な考えです。すなわち、「権利能力平等の原則」「私的所有権絶対の原則」「私的自治の原則」という近代私法の三大原則のほか、「国家の世俗性」「信教の自由」「経済活動の自由」といった、近代国家には不可欠な規範が謳われています。

1798年から1799年 エジプト遠征

学術的分野の重要性を理解していたナポレオンはこの遠征に、数学者のフーリエをはじめ、さまざまな分野の学者や藝術家167人を同行させます。近代エジプト学の幕開けを告げるロゼッタストーンは1799年に発見されたのでした。

シャンポリオンが1822年に解読したロゼッタストーンは現在、大英博物館にあります。ナポレオンのエジプト遠征の詳細な報告書『エジプト誌』(1809〜1828年)は建築、自然、博物誌等、多岐にわたる精緻な図録ですが、2002年に日本版が出ました。ヨーロッパにおけるオリエンタリズムの火を灯し、あまたの画家や学者たちに影響を与えたこの本は、開くたびに感動を覚える名著です。

その他、公共教育法や「民法典」と合わせてナポレオン五法典と言われる「商法典」「民事訴訟法典」「刑法典」「刑事訴訟法典」もナポレオンが関わった法律でした。メートル法を採用したのもナポレオンでした。

多くの伝説を残した男

1804年5月、皇帝となり、同年12月2日に、ノートルダム大聖堂で戴冠式を行いました。トゥーロン奪還で頭角を現してから10年あまりで皇帝に上りつめたわけですが、それから10年で皇帝の地位を追われます。第一統領となった年から数えると、実質的な政権期間はわずか15年しかありません。2000年以降、5年任期になりましたが、第5共和制のフランス大統領の任期は7年、しかも再選も可能ですから、2期務めたミッテランの14年とそう変わりません。それを考えるとどこか不思議な感じがします。

軍事的独裁者として領土を拡大するいわゆるナポレオン戦争を何度も引き起こし、数え切れないほどの犠牲者を生む一方で、法典の整備をはじめ数々の施策によって旧体制を葬り去ったナポレオンには伝説も多く遺されています。百日天下のあと、セント・ヘレナ島に流されて、1821年に世を去ったナポレオンの死因すら諸説あります(ただし、広く流布してきた砒素による毒殺ではなかったようです)。

わが国でも頼山陽以降、ナポレオンに触れた著作家は多く、思想家鶴見俊輔の父、鶴見祐輔もその一人ですが、彼が著書『ナポレオン』に記したナポレオンの言葉「余の辞書に不可能の文字はない」を知らない方はいないのではないでしょうか。この出典は諸説あるようですが、調べてみると、1813年の部下への手紙で、あえて現代語ふうに直訳すると「それは可能ではないと貴君の手紙にありましたが、それはフランス的(フランス語的)ではありません」となる一節がそれに当たるようです。

ナポレオンゆかりの場所

英国とヨーロッパ諸国の通商を禁じた「大陸封鎖令」、マレンゴやウルムやアウステルリッツ(フランス語では「オーステルリッツ」)やイエナでの大勝、トラファルガー、ワーテルローその他の敗戦、ロシア遠征失敗、エルバ島から脱出したあとの「百日天下」、そしてセント・ヘレナ島での幽閉と死。ナポレオンについては書くべきことは数え切れないほどあります。

ここでは、アンヴァリッドと軍事博物館のほかにパリに残るナポレオンにまつわる記念物や都市整備について書いておきます。建築や土木工事は時間がかかるため、ナポレオンの治世のうちに完成しなかったものも少なくないのですが、それでもナポレオンが抱いた構想の実現と言っていいでしょう。

エトワール(現・シャルル・ド・ゴール)広場の中央に建つ凱旋門は、1806年、戦勝記念のためにナポレオンが建設を命じました(完成は1836年)。ルーヴルのガラスのピラミッドから西北に100メートル足らずのところに建つカルーゼルの凱旋門も同じ年に、やはりナポレオンの戦勝を記念して建設が始まり、こちらは2年で建てられました。

1871年のパリ・コミューンでチュイルリー宮殿が焼失してからは、ルーヴル、カルーゼルの凱旋門、コンコルド広場のオベリスク、シャンゼリゼ大通り、エトワールの凱旋門、1989年にできたデファンス地区の新凱旋門まで、ほぼ一直線で結ばれました。凱旋門の上に登って、シャンゼリゼ大通りの方角に目を向けると、それがまさにパリの背骨であるかのように思われます。

次に改めて行われたのが、ノートルダム大聖堂の前庭の拡張です。そのためには隣接する病院の一部取り壊しも必要でした。ノートルダム前の広場はその後も拡張されていますが、そうして広くなったことがノートルダム大聖堂そのものの偉容を生み出しています。

また、シャトレにあった大きな要塞はセーヌ両岸の交通を阻碍していましたが、それも取り壊され、パリが左岸と右岸ともに都市として発展してゆく礎となりました。ポン・ヌフのすぐ西にあって、ルーヴルと学士院を結ぶ鉄橋ポン・デ・ザール(藝術橋)や、練兵場のシャン・ド・マルスとシャイヨー宮のある丘を結ぶイエナ橋、ノートルダム大聖堂の裏手からサン・ルイ島を結ぶサン・ルイ橋や、ジャルダン・デ・プラント(国立植物園)と右岸を繋ぐオーステルリッツ橋もナポレオン時代に作られ、両岸の往来を楽にしました。それらはセーヌの護岸工事とも関係していました。

パリに限らず、フランスでは、道路名と番地だけで住所が決まります。慣れるとこの上なく便利な仕組みですが、これが運用されたのが1805年のことでした。

リヴォリ通りを整備し、アーケード附きの大きな建物が建てられたのもナポレオンの時代です。

運河建設も忘れることはできません。それまで水のインフラが整っていなかったパリの水事情を飛躍的に改善したのが、ナポレオンが建設を命じた全長百キロメートル近いウルク運河とそれに繋がるサン・マルタン運河です。サン・マルタン運河は映画『北ホテル』や『アメリ』の舞台ともなりましたから、日本でもよく知られているでしょう。水は運河だけではなく、パリの各所にある噴水、噴泉にも関係していて、人々の暮らしに役立っています。

ナポレオンの治世を経て、パリは今のパリに大きく近づいたと言えそうです。人口も帝政時代に急増します。革命時には減少した人口は1814年には、70万人に達しました。