実はルイ・ヴィトンの「脅威の成長」の立役者は日本人だった…伝説の経営者が明かす「仕事の流儀」

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ラグジュアリーブランドを日本に根付かせ、ルイ・ヴィトンを日本で大人気ブランドに育て上げた人、秦 郷次郎氏(87)。1976年からルイ・ヴィトン ジャパンの立ち上げに関わり、81年には初代の代表取締役社長に就任、その後はLVJグループの代表取締役社長も務めた。

始まりは“偶然”だった。大学を卒業と同時に米国に留学、日本人では当時まれなMBA取得後、ニューヨークの公認会計事務所(ピート・マーウィック)のコンサルティング部門で働いていた秦氏は、ルイ・ヴィトンとの関わりができるまで、ルイ・ヴィトンの名前さえ知らなかったという。しかし偶然訪れたチャンスをつかみ、ルイ・ヴィトン ジャパンの社長に就任すると、全世界の売上の3分の1以上を日本市場が占め、日本人女性の40%がルイ・ヴィトンのバッグを持つほどまでに成長させる。ゼロから始めたブランドビジネスをどのように成功に導いたのか。ブランドビジネスの要諦とは何なのか。

2006年にルイ・ヴィトン ジャパンの社長を退任後、秦氏は「秦ブランドコンサルティング(株)」を設立し、現在はニューヨークに暮らす。“外”から日本を見つめるようになった秦氏に、一時帰国のタイミングで話を伺った(前後編でお届けします)。

取材・文/砂田明子

「ルイ・ヴィトン」を初めて知ったのは、同僚とのランチだった

──秦さんとルイ・ヴィトン ジャパンの歩みはそのまま、ルイ・ヴィトンの日本における成功の歩みに重なります。まず、ルイ・ヴィトンとの出会いからお伺いできますか。

私はアメリカで働いた後、1967年に、当時勤務していた公認会計事務所(ピート・マーウィック)が東京にコンサルティング部門を開設するというので、6年ぶりに日本に帰ってきました。そのころ花形だった会計システムの電子計算機化のコンサルティングをしながら、日本市場に進出する外国企業のコンサルティングにもかかわるようになっていきます。

政府の調査団のメンバーとしてパリを訪れたのは、1976年のことでした。このとき、パリには、偶然、ニューヨークで働いていたときの同僚が住んでいたのです。懐かしいなあ、ランチでもしよう、ということになりました。

その彼が、これもたまたまですが、人材開発コンサルタントとしてルイ・ヴィトンに関わっていました。それで、相談をもちかけられたのです。最近、大勢の日本人客が、パリのマルソー通りにあるルイ・ヴィトンの店に来るようになった。そのなかには明らかに業者と思われる客が多くいて、ヴィトン・ファミリーが対応に困惑している。日本のお客さんや市場について、意見を聞かせてほしい。ついては、ファミリーの当主であるアンリ・ルイ・ヴィトン氏に会ってくれないか、ということでした。

ルイ・ヴィトンの店は世界にパリとニース、2店舗だけの時代でした。そしてこのときまで、私はルイ・ヴィトンの名前も製品も知りませんでした。

──初めて接したルイ・ヴィトンはいかがでしたか?

別世界でした。マルソー店の一角にあるアンリ・ルイ・ヴィトン氏の部屋に入ったときの感動を、今も鮮明に覚えています。壁一面に、アンティークのトランクがはめ込まれていて、一歩足を踏み入れた瞬間に、ルイ・ヴィトンの歴史と伝統の重みを感じました。何の知識もない、まっさらな状態だっただけに、ラグジュアリーブランドの根幹みたいなものが私の中に沁み込んできたのでしょう。この会社は違うなと直感し、その場で仕事の提案をしました。

──そこからルイ・ヴィトンとの関係が始まります。偶然のランチがその後のビッグビジネスにつながったわけですね。

仕事をするつもりでアンリ・ルイ・ヴィトン氏に会ったわけではありません。元同僚に頼まれたから会ったわけですが、新しいクライアントを開発するのはコンサルタントの仕事の一つですから、チャンスになるかもしれない話には乗ろうという気持ちは持っていました。それからパリには政府の仕事で来ていて、自由な時間が限られていたので、すぐに会いに行ったんですね。ランチの翌日には、アンリ氏に会っていました。このスピードもよかったかもしれません。

「あなた、本当に日本人?」と問われるほど、非常識だったビジネスモデル

──ルイ・ヴィトン社との最初のコンサルティング契約は「50万円」+実費くらいのものだったと著書(『私的ブランド論』)に書かれています。スモールスタートで信頼を得て、ルイ・ヴィトン日本参入への本格的なコンサルティングを開始したわけですが、秦さんがこのとき構築したビジネスモデルが、その後のルイ・ヴィトン躍進の礎になりました。

それまで、海外ブランドが日本に進出する方法としては、日本の代理店などと組んで進める広い意味での合弁事業が一般的でした。秦さんはこの合弁事業ではうまくいかないと判断し、独自のビジネスモデルを作り上げていきます。とくにポイントになったのは以下の2点です。

1.日本での販売先となる百貨店(小売店)と、パリのルイ・ヴィトン社が直接商品を取り引きする

2.ルイ・ヴィトンの日本支店が、百貨店をはじめとする取引先とマネジメント契約を結ぶ

いわば直営方式にすることによって、ルイ・ヴィトンのブランド価値、スートーリー、サービス、価格、在庫などをルイ・ヴィトン ジャパンが守り、<ものづくりから販売まで>をコントロールしていくことになったわけですが、長い間続いてきた仕組みを壊すときは反撥や抵抗がつきものです。どのように新しいビジネスモデルを実現されたのでしょうか?

日本でルイ・ヴィトンを売るにあたって代理店を入れないとか、百貨店の売り場をルイ・ヴィトン社が直接管理するなんて、「日本では絶対にできないよ」と、百貨店の人に言われました。「あなた、本当に日本人?」と、面と向かって言われたこともあります。それくらい、当時の非常識だったということです。

しかし私は、日本の流通や小売業を調査して、非常に遅れていると感じていました。時代遅れの不合理な仕組みを変えるのは当然だし、それが消費者のためになると思ったのですが、そう発想できたのは、「外部」の人間だったからだと思います。

──流通や小売業界の「外部」の人間でもあり、アメリカに留学し、アメリカで働いていたという点で、日本を「外部」から眺める視点も持っていらっしゃった。

それからもうひとつ、私は高知生まれですから、根っこに「いごっそう」精神があるんです。いごっそうとは土佐弁で、頑固者とか、気骨があるといった意味ですね。いごっそうだから、やれないと言われたらやりたくなるし、人がやっていないことをやりたくなる。この精神で生きてきました。

龍馬に憧れて、日本脱藩

──就職が決まっていたにもかかわらず、慶應大学の経済学部を卒業すると同時に周囲の反対を押し切ってアメリカに留学したのも、日本人では当時まれなMBAを取得したのも、<人がやっていないこと>だったと思います。

当時の私の憧れは坂本龍馬なんです。龍馬は土佐を脱藩したでしょ。龍馬は海外に憧れていたけれど行くことがかなわなかったから、私は龍馬ができなかったことをやろうと、日本脱藩だといって、アメリカに行ったんです(笑)。

──ルイ・ヴィトン日本支社の店長代行になったのが1978年、40歳のとき。ルイ・ヴィトン ジャパン株式会社の前身となる日本支店は、秦さんを含む3人でスタートします。最小規模でスタートした組織は、業績拡大にともない4年後に株式会社化し、銀座の並木通りに直営店をオープン。バブル経済の波にも乗って、80年代後半から90年代にかけては、売上が3倍近く増えるという驚異的な成長を遂げます。こうした成功を予想されていましたか?

想像もしていませんでした。もともとルイ・ヴィトンはトランクを注文に応じて手造りしていた会社です。ハンドバッグを大量に作って売るというビジネスモデルではまったくなかったわけで、商品不足が続きました。一方で、良いものを長く使うというラグジュアリーブランドの本質は、日本人に受け入れられるだろうと思っていました。

ただし、そのためには、日本人に合った売り方をしなければならないと考えました。私はルイ・ヴィトン製品の購買行動を通じて、日本人の「言い訳」文化を発見したと思っています。ルイ・ヴィトンのような高額な商品を買う、あるいは買わないにあたり、日本人には、「言い訳(理由)」が必要になるのです。これはフランス人には見られない現象です。そこで言い訳の中身をよく観察して、買わない理由をひとつひとつ取り除くような販売戦略を立てていきました。

柔和な口調や面持ちから想像もできないほど、「常識」に囚われない仕事をしてきた秦氏。後編【ルイ・ヴィトン ジャパン元社長が「ルイ・ヴィトンは高すぎる」の声に思ったこと】では、さらに思考に迫っていきます。

ルイ・ヴィトン ジャパン元社長が「ルイ・ヴィトンは高すぎる」の声に思ったこと