トト・スキラッチの物語(後編)

 イタリアW杯の得点王で、メッシーナ、ユベントス、インテル、そしてジュビロ磐田でプレーしたサルヴァトーレ・スキラッチは、1997年、ジュビロ磐田を退団して現役を引退すると、故郷のシチリア島に戻った。

 2000年には、かつて自分がサッカーを始めたパレルモ市内の練習場を購入。グラウンドを整備し、「トト・スキラッチ・サッカースクール」を創設した。

 スキラッチはサッカーが自分を救ってくれたと強く信じていた。彼が生まれ育った一帯は、パレルモでも最も貧しい部類の地区で、彼の家は建設中の建物を占拠して、勝手に電気や水道をひいていた。少年時代の友人のうち、かなりの者が犯罪者となり、そのために命を落とした人間もいる。

「街角で子どもたちがサッカーチームを作るように、俺の育った町ではごく簡単に窃盗グループが作られていた」

 スキラッチはそう言っている。だが、スキラッチはそれに巻き込まれることはなかった。なぜなら彼にはサッカーがあったからだ。サッカーという目的のため、脇道にそれることなく真っすぐ前へ進むことができた。

 かつてサッカーが自分を救ったように、犯罪に染まりそうな子どもたちをサッカーで助けたい。スクールを立ち上げたのはそんな思いからだった。貧しい子どもたちでも受け入れられるように、チーム登録料や月謝は最低限に設定したため、経営は苦しかったようだが、それでも金額を上げようとはしなかった。

 夜中にチームの用具を盗みに入った少年たちに、金を払わなくても練習に参加できるように計らったこともあった。2017年からは、船でシチリア島に渡って来たアフリカ難民のなかから優秀な少年を集めてチームを作り、指導もしている。彼らにもサッカーでチャンスを与えたかったのだ。「諦めない限り可能性はある」と伝えたかった。

 葬儀に来ていた元イタリア代表のチームメイト、ジュゼッペ・ベルゴミはこうコメントしている。

「今の若い人はなんでもすぐに結果を出そうとする。だが、トトは長い間、困難な状態にあっても、決してあきらめず上を目指し、そして大きなことを成し遂げた。彼はみんなにとっての大きなお手本だった」

【引退後も続いた日本との交流】

「たとえ今はビリだったとしても、いつかはトップに立てる」は、スキラッチの座右の銘のひとつだ。ジュビロにやってきたのもまさにこの精神からだった。W杯の得点王が、なぜ日本の、それも下位のチームに行くのかとさんざん聞かれ、イタリアでは「結局は金のために行ったのだ」と報道された。でもスキラッチはその時の心境をこう語っている。

「ジュビロは2部から1部に上がったばかりだが、俺もビリからスタートした男だ。もともと俺は上に昇るためのなんの手段も、チャンスも持っていなかった。それでもどんなスター選手よりも多くのゴールを決めることができた。ジュビロでもきっと同じことができると証明してみせたかった」


1994年にジュビロ磐田に加入、日本で約3年間プレーしたサルヴァトーレ・スキラッチ photo by Yamazoe Toshio

 実際、日本に来て2シーズン目の1995年には34試合出場して31ゴールを挙げ、得点王争いでは1ゴール差でタイトルを逃した。そして1994年に2部から昇格したばかりのチームは、スキラッチが去った1997年、ついにJリーグ優勝を果たした。

 日本にいたのは約3年間だったが、彼のなかに日本の存在は大きく残っていた。

 その後もレジェンドチームの一員として来日したり、ジュビロの記念式典に参加したり、また静岡や東京でいくつかのサッカークリニックも手掛けた。通訳として帯同した私は、間近でスキラッチという人物を知ることができた。かつてローマのスタディオ・オリンピコのスタンドで、彼のゴールがイタリア中を夢中にさせる(1990年イタリアW杯、イタリアはアイルランドに勝利し、W杯準決勝進出を決めた)のを見ていた私にとって、この上なく幸運なことだった。

 素顔の彼はすごく愉快で、そしてスター選手には珍しい「普通」の人物だった。高級料理よりもラーメンを好み、回転寿司では子どものようにはしゃいでいた。現役時代に比べてかなり豊かになった頭頂部については「スイスのテクノロジーなんだ」と自慢していた(おかげで街を歩いても、ほとんど誰にも気がつかれなかった)。

 誰かに紹介されると、彼はいつも覚えている日本語であいさつした。

「こんにちは、私はトトさんです」

 ただサッカーに関してはあくまでも真摯だった。高校生に対するサッカースクールでは、コーチの言うことを従順に受け入れる選手たちの様子に、驚きと多少の苛立ちを感じたようで、「お前たち、"タマ"はついてんのか!」とどやしていた。

【「魔法の夜」は永遠に】

 日本の少年チームを彼のパレルモサッカースクールに招待して、対戦させたいという夢も持っていた。

「日本の子どもたちは素直だが、でもそれだけじゃダメだ。いい子ちゃんというだけでは、残念ながら世界では通用しない。一方、イタリアの少年たちは、日本の子どもたちから礼儀正しさと組織力を学ぶことができるだろう」

 残念ながらその計画はコロナに阻まれてしまった。ただスキラッチは、また日本に行きたいと言っていた。

「次の(来日の)チャンスはカズ(三浦知良)の引退だな。カズならきっと俺のことを招待してくれる」と、よく言っていたものだ。

 その後、彼が結腸がんを患っていることを知った。久々に話した時の彼の声はいつになく弱々しかった。

「カズが引退するより先に俺自身がダメになっちまった。もうサッカーはできそうにない......」

 しかし、その後も相変わらず精力的で、奥さんのバルバラとヒッチハイクで旅するテレビのリアリティショーなどにも参加していた。だから、すっかり病気を克服したと思っていたのだが......。

 今でもイタリア代表が勝つと選手やサポーターが歌う、「ノッティ・マジケ(魔法の夜)」のフレーズで知られる『Un Estate Italiana(あるイタリアの夏)』は、もとは1990年イタリアW杯の公式応援歌であり、同時にスキラッチのテーマソングでもあった。

 スキラッチ自身も、この曲を聞いた時には、パレルモの路地裏から出発し、ボールを蹴り続け、ついにはイタリアW杯得点王にまでたどり着いた自分の姿が思い浮かんだという。

 イベントなどに彼が登場する場面ではいつもこの曲がBGMだったし、今回も彼を追悼するイタリアの番組や動画では必ずこれがかかっていた。しかし、スキラッチは以前、そっと教えてくれた。

「実はあまりにもこの曲を聴きすぎて、もう俺は耳タコなんだ」

 天国にもこの曲で送られたことに、今頃、彼は苦笑いしているかもしれない。

「Ciao Toto-san,Riposo in pace」(チャオ、トトさん。どうか安らかに)

サルヴァトーレ・スキラッチ
1964年、パレルモ生まれ。メッシーナ、ユベントス、インテルで活躍。イタリア代表では1990年イタリアW杯で6得点を挙げ得点王に輝く。1994年、ジュビロ磐田入団。1997年、まで在籍し56得点を挙げている。1997年、現役を引退。2024年9月18日、死去。