江川卓との初対決で高橋慶彦は「カーブを打った」だがその後は「空振りしていた記憶しかない」
連載 怪物・江川卓伝〜稀代のスイッチヒッターが語る体験記(前編)
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人間がもっとも美しく躍動するのは、走る姿だと言われている。なかでもプロのアスリートの走る姿は、力強く美しい。1970年代後半、ファンタスティックかつセクシーに塁間を駆け抜ける男が彗星の如く現れた。
その名は、高橋慶彦。日本球界にスイッチヒッターを定着させた偉大な野球人でもある。
79年には33試合連続安打の日本記録を樹立した高橋慶彦 photo by Sankei Visual
それまでスイッチヒッターと言えば巨人の柴田勲だったが、20年間の現役生活で3割に到達したことは一度もない。一方の高橋は、プロ入り1年目のオフにスイッチに転向すると、3割到達5回、本塁打20本以上も4回達成するなど、球界を代表する選手へと成長した。なによりこの高橋の出現により、各チームがこぞってスイッチヒッターの育成に励んだものだ。
また高橋は内野の要であるショートを守り、マスクもよく、全国の女性ファンを虜にした。1979年に高橋がつくった33試合連続安打記録はいまだに破られておらず、走攻守において圧倒的な存在感を放っていた。
村上龍が高橋を題材にした小説『走れ! タカハシ』(講談社)がヒットするなど、時代の寵児でもあった高橋が、ひとつ上の江川卓にかかると借りてきた猫のようになる。
「空振りしていた記憶しかない。全然打ってないでしょ」
そう苦笑いしながら言った。
「高校時代に"江川伝説"は聞いていて、テレビで江川さんを見たことがあった。栃木県予選の中継だったんだけど、それを東京でやってたんだから(笑)。その時に球が速すぎたのか、バッターの腰が回ってなくて、手だけで振って空振りしているわけ。あれが一番印象に残っている」
そしてこう続けた。
「江川さんは投げるボールだけでなく、体も怪物やったからね。ピッチングに関しても、小細工はいっさいしないし、まさしく正統派の投手って感じやね。それに江川さんはヒールアップして投げるから、さらに大きく感じてしまう。すべてが怪物やったね」
高橋はプロになって初めてグラウンドで江川を見た時、即座に「デカッ!」と思ったと語る。183センチの身長以上に圧が押し寄せ、下半身のガッチリ具合は半端なかった。
東京の城西高(現・城西大城西)出身の高橋は、江川フィーバーの翌年、1974年夏の甲子園に東東京代表として出場している。
「オレらの代には、夏の甲子園で優勝した銚子商業の土屋正勝(元中日ほか)、土浦日大の工藤一彦(元阪神)、横浜の永川英植(元ヤクルト)、鹿児島実業の定岡正二(元巨人)がいて、彼らは"高校四天王"と呼ばれていた。プロに入ってから対戦したことはあるけど、高校時代はなし。
まあ、高校時代に速い球なんか見てないからね。だからプロに入ったら、みんな速いと思った。とくに速かったのは、同じ広島の外木場義郎さん。阪急の山口高志さんもすごかった。昭和50年、オレが入った時の日本シリーズ。バックネット裏で見ていたんだけど、びっくりしたね。変化球にしても、ボールがなんでこんなに曲がるのかと思ったからね。でも江川さんのボールはほんとにすごかった」
【江川卓との初対決】高橋に江川との対戦成績(140打数31安打、打率.221、本塁打1、打点2)を伝えると、こんな答えが返ってきた。
「そんなもんだよね。ホームラン打ったのは覚えてないなぁ。覚えているのは、カーブを打ったことと、江川さんが鼻血を出して降板したこと」
高橋と江川の初対決は、1979年6月17日の後楽園球場。江川がプロ初勝利を挙げた日でもある。カーブを打った覚えがあるというのは、この日のことである。
3対1と巨人の2点リードで迎えた8回表、1アウトから高橋は外角のカーブをおっつけてレフトオーバーの二塁打を放った。
「カーブを打って、レフトオーバーのツーベースになったのは覚えている。そのあと江川さんが降板したんだ、鼻血を出してね」
江川は3度目の登板でプロ入り初勝利を飾ったが、8回途中に鼻血を出して降板したことで、翌日のスポーツ紙の一面は『江川、鼻血ブー』。とにかくこの頃の江川は、メディアから好き勝手に書かれていた。
一方、江川のカーブをとらえた高橋には、こんな思いがあった。
「変化球を待って打席に立ったことは一度もない。コーチのカズさん(山本一義)にずっとしごかれたおかげで、真っすぐ待ちの変化球打ちができるようになった。真っすぐ待ちでいれば、球速が落ちる変化球は全部対応できる。カズさんにバッティングでこうなんだと教えられて、初めて打撃というものがわかった。おかげでスイッチもできるようになったし、やっぱり誰に出会うかよね」
そして高橋は、1番打者ということに強いこだわりを持っていた。
「84年に3番を打たされたけど、嫌だった。今の選手たちは1番だろうが3番だろうが、打順に関係なく何番を打とうが平気だよね。オレたちの頃って、各打順に役割があったから。当時の3番は、4番の前を打つこともあって打率を残さないといけない。
その点、オレは1番が一番ラクやった。だって初回は絶対にランナーがいないし、とにかく塁に出ればいいわけだから。それで塁に出たら盗塁して、犠打で三塁まで進むと、一気に得点のチャンスが広がる。それが1番の仕事だと思っていたけど、今の子たちはそういう感覚がないんじゃないかな。あの頃、1番バッターはよく球を見てとか言われた。今は積極的に打つ選手が多いよね。だから。今の1番バッターは専門職じゃなくなったよね」
70年代後半から80年代にかけて、広島のリードオフマンとして疾風のごとくグラウンドを駆け回った自負は今も心に秘めている。ただ、そんな高橋でも敵わなかった選手が江川卓だった。
(文中敬称略)
後編につづく>>
江川卓(えがわ・すぐる)/1955年5月25日、福島県生まれ。作新学院1年時に栃木大会で完全試合を達成。3年時の73年には春夏連続甲子園出場を果たす。この年のドラフトで阪急から1位指名されるも、法政大に進学。大学では東京六大学歴代2位の通算47勝をマーク。77年のドラフトでクラウンから1位指名されるも拒否し、南カリフォルニア大に留学。78年、「空白の1日」をついて巨人と契約する"江川騒動"が勃発。最終的に、同年のドラフトで江川を1位指名した阪神と巨人・小林繁とのトレードを成立させ巨人に入団。プロ入り後は最多勝2回(80年、81年)、最優秀防御率1回(81年)、MVP1回(81年)など巨人のエースとして活躍。87年の現役引退後は解説者として長きにわたり活躍している