72歳の妻が「重度の認知症」になった74歳男性の「あまりにひどい対応」

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老いればさまざまな面で、肉体的および機能的な劣化が進みます。目が見えにくくなり、耳が遠くなり、もの忘れがひどくなり、人の名前が出てこなくなり、指示代名詞ばかり口にするようになり、動きがノロくなって、鈍くさくなり、力がなくなり、ヨタヨタするようになります。

世の中にはそれを肯定する言説や情報があふれていますが、果たしてそのような絵空事で安心していてよいのでしょうか。

医師として多くの高齢者に接してきた著者が、上手に楽に老いている人、下手に苦しく老いている人を見てきた経験から、初体験の「老い」を失敗しない方法について語ります。

*本記事は、久坂部羊『人はどう老いるのか』(講談社現代新書)を抜粋、編集したものです。

自分が認知症になるだけではない

多くの人は自分が認知症になるかどうかを気にするようですが、連れ合いのある人は、相手が先に認知症になることも忘れてはいけません。それを考えずにいたため、悲惨な状況になりかけたO′さん(74歳・男性)の事例を紹介しましょう。

七十二歳の奥さんが重度の認知症になり、私に在宅医療の依頼が来ました。看護師と訪ねると、インターホンを押してもなかなか応答がありません。留守かなと思って帰りかけると、黒縁眼鏡のO′さんがものすごく不機嫌な顔で出てきました。中に入ると、居間のテレビがゲームの静止画面になっていて、座卓にはコントローラーが投げ出してありました。どうやらO′さんはテレビゲームの真っ最中だったようです。

家に入ったとたん、猛烈なクレゾールのにおいがしたので、「これは」とO′さんに聞くと、奥さんが畳の上で排尿したので、そのにおいを消すためだと言いました。

「まったく厄介ですよ。私は長年、家族のために働いてきて、年を取ったら家内の世話になろうと思っていたのに、このザマですからな」

O′さんが顎で指す先には、シャツとおむつ姿で四つん這いになっている奥さんがいました。脚はむき出しで、白髪頭を垂れ、まるでだれからも見捨てられた老犬さながらの惨めさでした。

O′さんの不機嫌は、定年後ゆっくり老後をすごそうと思っていたのに、思いがけず奥さんが重度の認知症になり、その介護を担わされていることが原因のようでした。テレビゲームは、その鬱憤を晴らすために熱中していたのだと思われます。

私がO′さんの奥さんを診察していたのは、もう二十年近く前ですから、まだまだ老いた夫の世話は妻がするものという感覚の男性が多かったのでしょう。しかし、女性が先に認知症になるケースも少なくなく、心の準備のない男性は、まさか自分が介護をするなんてと、よけいな怒りを抱え込んで、状況を悪化させてしまうのです。

あるときO′さん宅に診察に行くと、真冬なのに窓が全部開けっ放しで、奥さんは半裸の状態で、おむつの上からひもがぐるぐる巻きにされていました。O′さんに事情を聞くと、寝不足の半分もうろうとした口調でこう言いました。

「昨夜、僕が風呂から上がると、布団がビショビショになってるんです。小便ですよ。おむつをつけているのに、わざわざはずしてしよるんです。仕方がないから、布団カバーをはずして、洗濯機をまわして乾燥機にかけて、やっと一段落したと思ったら、今度は大便を畳にこすりつけていたんです。こっちがキリキリ舞いをしているのに、いったいどういう了見なんだ。すぐ洗面所で手を洗わせ、畳を濡れ雑巾で拭いて、ドライヤーで乾かして、それでもにおいが消えんから、クレゾールを撒きまくったんです」

認知症の人は、トイレの場所がわからなくても、排泄のときには衣服を下ろすという意識だけは残っていて、せっかくのおむつを取って排尿排便をすることがあります。もちろん本人に悪気はありませんが、後始末をさせられる家族には過酷な精神的負担がかかります。

このときは、奥さんの身体が冷え切っていて、肺炎になりそうだったので、早急にケアマネージャーと相談して、ヘルパーの派遣とデイサービスの開始を決めました。それまでO′さんは他人の世話になりたくないと頑なに拒んでいたのですが、致し方ありません。このままでは虐待から殺人にまで発展しかねないほどの状況でしたから。

認知症介護の極意

その後、ケアマネージャーの指導もあって、O′さんは徐々に奥さんの介護を上手にするようになり、虐待の悲劇は免れました。

いちばんの問題だった排泄は、「トイレ誘導」という形で解決しました。これはあらかじめ出そうになる前に、トイレに連れていくという方法で、出ても出なくても便座に座る習慣をつけ、出たらほめるというやり方です。幼児のトイレトレーニングと同じですね。

O′さんはもともと仕事人間で、努力と工夫が好きな人だったので、トイレ誘導もきっちり記録を取り、奥さんのようすからタイミングを見極めるコツや、便の状態によって間隔を工夫するなどして、メキメキと上達しました。

それまではほったらかしでロクに世話をしなかった食事も、トーストを十六分割にして与えるとか、パン粥にするとか工夫し、奥さんの好みがシナモンシュガーであると発見したときには、私にも嬉しそうに報告してくれました。そういう達成感を得られると、介護もある種の仕事感覚になり、ワーカホリックの男性には向いているのかもしれません。

さらにO′さんの場合は、状況が落ち着くにつれ、若いころ仕事に夢中になるあまり、奥さんにいろいろ心配をかけたり苦労をさせたりしたことが思い出され、認知症になったのもそこに原因があったのではという気持ちが芽生えてきたようです。それで介護を罪滅ぼしのつもりでするようになって、憤懣(ふん まん)や不快が消え、精神的にはずいぶん健全な状態になりました。詳しい経過は、拙著『告知』(幻冬舎文庫)に小説の形で書いていますので、興味のある方は参考にしてください。

私は十三年間の在宅医療で多くの認知症の人を診てきましたが、上手に介護をしている家もあれば、下手な介護で苦しんでいる家もありました。

O′さんのように介護に達成感を抱くようになるとか、罪滅ぼしのつもりでやるなど、精神面での支えがあると、認知症の人が起こすさまざまなトラブルにも、比較的穏やかに対処できるようになります。

ほかにも感謝の気持ちが介護を楽にしている家もありました。B′さん(82歳・男性)は、ほとんど会話も成り立たないほどの認知症で、ゴミを散らかしたり、着替えに抵抗したりしていましたが、お嫁さんが優しく介護していました。舅と嫁というのはもともと他人なのに、どうしてそんなに親切に介護できるのですかと聞くと、お嫁さんはこう答えました。

「おじいちゃんは今はこんなふうですが、わたしたち夫婦が結婚したとき、いろいろ味方になって助けてくれたんです。だから、今もそれを感謝しているので、これくらいの介護は平気なんです」

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