THE MAD CAPSULE MARKET'S『THE MAD CAPSULE MARKET'S』ジャケット写真より


(冬将軍:音楽ライター)

90年代から現在までの、さまざまなヴィジュアル系アーティストにスポットを当て、その魅力やそこに纏わるエピソードを紹介していくコラム。今回はTHE MAD CAPSULE MARKETSについて。斬新なサウンドで異彩を放ちながら、ヴィジュアル系黎明期シーンに大きな影響をあたえたバンドの、初期から中期にかけてを考察する(JBpress)

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ヴィジュアル系シーン鬼才のフェイバリットバンド

 THE MAD CAPSULE MARKETS(以下、MAD)と聞いて多くの人が思い浮かべるものは、デジタルロックの先駆者、ラウド&ヘヴィミュージックの雄というイメージだろう。しかし、1990年代初頭から中期にかけてリアルタイムで彼らを見てきたロックファンにとっては少々印象が異なる。ギシギシに歪んだベースとニューウェイヴ味に溢れたエッジの効いたギター、シーケンスやサンプリングなどを積極的に用いた斬新なサウンドで異彩を放ちながら、ヴィジュアル系黎明期シーンに大きく関わってきたバンドであるからだ。

 BUCK-TICKの今井寿やhideといった、同シーンの鬼才がフェイバリットとしてMADの名を挙げていたことも大きい。1994年には富士急ハイランドで行われたBUCK-TICKのライブイベント『SHAPELESS』にSOFT BALLETと共に出演。さらに同年、LUNA SEA、SOFT BALLET、BUCK-TICKという伝説の三つ巴イベント『LSB』にオープニングアクトとして参加するなど、同シーンを代表するバンドと並ぶほどのセンスと音楽性を持っていた。

 今回はそんなMADの初期から中期にかけて、バンド名の“S”の前にアポストロフィーが入っていた、“THE MAD CAPSULE MARKET’S”時代にフォーカスしていきたい。

既にズバ抜けたセンスと演奏力を持っていた初期パンク時代

 MADは、のちにDIE IN CRIESに参加することになるギタリスト、室姫深を中心に結成された。当初のバンド名はBERRIE。1990年1月、レッド・ホット・チリペッパーズの初来日公演でオープニングアクトを務めている。パンクとビートロックを土台としながら、“テクノロジーパンク”を名乗る独自の音楽を貫いていた。

 THE MAD CAPSULE MARKET’S改名後の1stアルバム『HUMANITY』(1990年10月リリース)は、キャッチーなメロディとノリの良いビート、ソリッドなバンドアンサンブルが心地よく、完成度の高い名盤だ。

「あやつり人形」(1990年)

「あやつり人形」や「LIFE GAME」など、歯切れの良いビートに乗ったキャッチーなメロディと、ギクシャクとした言葉選びの歌詞の絡みが絶妙であり、「だんだん」や「ギラギラ」、といったリズムに対するオノマトペ的な濁音の羅列は、メジャーデビューシングルにもなった「ギチ」など、彼らの得意とするところだ。後年のミクスチャーロック、いわゆる日本語ラップメタルのパイオニア的存在となる礎と言っていい部分だろう。

「ギチ」(1991年)

 そして、そのサウンドも刺激的だ。図太く歪んだベースをかき鳴らしていた紅麗地異剛士(正しくは“地異”にバツ表記、現在の上田剛士)はベースサウンドに革命をもたらしたと言っていい。まだベース専用のディストーションなど、ほぼ存在していなかった時代である。紅麗のベースサウンドが出したくて、ギター用のディストーションペダル(主にBOSSのメタルゾーン)を使用するも音が細くなってしまい、途方に暮れたベース弾きがどれだけいただろうか。

 室姫はソリッドなギターを聴かせている。のちにトリッキーなエフェクタリストとして名を馳せる彼だが、MAD時代にその兆しは見せ始めており、ライブでは既にギターシンセを使用していた。そして1991年1月にMAD脱退。その後は元ZI:KILLのyukihiroとOPTIC NERVEを結成。そして元D’ERLANGERのkyoのソロプロジェクトだった、DIE IN CRIESに参加する。

 室姫の後任として、ローディだったISHIG∀KI(石垣愛)を迎えたメジャー1stアルバム『P・O・P』(1991年11月リリース)はメジャーという洗練されたイメージを覆すような激しく荒削りな音像に仕上がっている。自主規制詞を“ピー音”だけでなく、機関銃サウンドで隠すなどメジャーの制約を逆手に取った試みも、バンドの姿勢がよく現れている部分だ。

「MAD中毒」(1991年)

前衛的なサウンドに傾向していく変革期

 ビクターからリリースされたコンピレーションアルバム『DANCE 2 NOISE』は、セカンド・サマー・オブ・ラブといったイギリスから起きたレイヴカルチャーに対する日本のアーティストからの回答、と言った趣で、1991年の『001』から1993年の『006』までリリースされた。BUCK-TICKやLUNA SEAの面々や町田町蔵にサエキケンゾウといった錚々たるアーティストが参加した、日本のロック史上類を見ないほどの異彩を放っているコンピレーションシリーズである。

 MADは『002』(1992年3月リリース)に参加。生演奏はボーカルとギターのみという、デジタルノイズチューン「JAPANESE SIGHT」で参加。これ以降、サンプラーやシーケンスの導入、ボーカルやスネアにディストーションをかけるなど、前衛的な試みがMADサウンドの大きな特徴になっていく。

 ミニアルバム『カプセル・スープ』(1992年7月リリース)では、そうした前衛さが加速。ギター&ベース弦を押さえる指の擦れるノイズを効果的に使った「セルフコントロール」、ギターのピックスクラッチノイズに声を混ぜた「G・M・J・P」、ギターを1弦ずつ6回に分けてレコーディングし、それを同時再生することで無機質なコード感を演出した「JESUS IS DEAD」など、斬新すぎるレコーディング方法が取られ、ノイジーかつ人工的な歪みを持ったISHIG∀KIのギターサウンドが際立っている。

「G・M・J・P」(1992年)

『SPEAK!!!!』(1992年11月リリース)は、ロボット声のような紅麗改め、CRA¥とKYONOの掛け合いボーカルが印象的な「システム・エラー」を筆頭に、「GOVERNMENT WALL」や「PUBLIC REVOLUTION」といった、BERRIE時代からの人気ナンバーのリファインも多く収録されている一方で、前作からの前衛的サウンドはYMOのカバー「SOLID STATE SURVIVOR」で遺憾無く発揮され、バンドとして意欲的な部分をも感じられる作風だ。しかしながら、本作までは所属レコード会社との関係性がうまくいっていなかったことを後年に明かしている。

SOLID STATE SURVIVOR(1992年)

 そして制作ディレクターとして、SOFT BALLETやLUNA SEAを手がけていた関口明氏が就任することで状況は大きく変わる。『MIX-ISM』(1994年1月リリース)は初のロンドンレコーディングを行い、タイトル通りの様々なジャンルがミックスされた作風へと深化した。またメディア露出も急速に増え、ファン層の拡大に繋がっている。

 同作のツアーファイナルには初のホール、渋谷公会堂公演を開催。モッシュやダイブに加え、ステージに向かって唾を吐くなど、パンクバンド特有のノリを持ち、行きづらかったMADのライブハウス公演を敬遠していた層の取り込みに成功した。同渋公公演には従来のパンクスに加え、BUCK-TICKやhide経由でMADを知った黒服層も多数来場し、カオティックな様相を呈していたことをよく覚えている。

 そこからBUCK-TICK『SHAPELESS』や『LSB』への出演、そしてSOFT BALLETのアルバム『INCUBATE』(1993年11月リリース)にISHIG∀KIとCRA¥が参加するなど活動の場所を広げていく。

SOFT BALLET 「PILED HIGHER DEEPER」 (1993年)
ギター:ISHIG∀KI、ベース:CRA¥

 さらに『DANCE 2 NOISE』から誕生した、今井寿とSOFT BALLETの藤井麻輝によるスーパーユニット、SCHAFTの1stアルバム『SWITCHBLADE』(1994年9月リリース)にCRA¥とMOTOKATSU(宮上元克)が参加。ライブサポートも務めている。

SCHAFT「ARBOR VITATE」(1994年)
作曲:藤井麻輝、Raymond Watts、CRA¥

 BUCK-TICKイベント『SHAPELESS』で披露された新曲が「HI-SIDE(HIGH-INDIVIDUAL-SIDE)」だ。ヘヴィなグルーヴとラップスタイルのボーカルが絡む、いわば“ミクスチャーロック”が誕生した。“ミクスチャーロック”は和製英語である。海外ではラップメタルという新機軸が誕生しつつあったわけだが、これまではどこかコメディ要素もあった日本語ラップをこれほどまでに格好良くまとめ上げたのはMADが初めてだったのではないだろうか。と思えるほどに、当時盛り上がってきたラウドミュージックシーンは“「HI-SIDE」のような曲”で溢れかえった。

「HI-SIDE(HIGH-INDIVIDUAL-SIDE)」(1994年)

 こうしてMADは、ヘヴィなグルーヴと攻撃的なサウンドプロダクト、刹那メロディとキャッチー性が絡み合う初期〜中期MADの最高傑作との呼び声も高い『PARK』(1994年10月リリース)を作り上げた。

MADのアートワークを担った、サカグチケン

 MADを語る上で、音楽と同様に外せないものはアートワークだ。なんと言っても、初期ライブのバックドロップに使用されていた赤地に黒地のロゴのインパクトは大きかった。メンバーも着用していた腕章やCRA¥のベースに貼られていたステッカーなどのグッズ、そしてセルフカバーアルバム『THE MAD CASPULE MARKET’S』のジャケットにもなったバンドのシンボルである。そんなロゴやジャケットを始めとしたアートワークを担当していたのが、デザイナーのサカグチケンである。アナーキーからBUCK-TICKやhide、LUNA SEAなどのアートワークも制作している氏のセンスも、MADの同シーンへの繋がりを感じるところだ。

 爽やかなビーチかと思いきや、「こちらのジャケットはごみ箱にお捨てください。」というメッセージとともに死体で覆い尽くされたビーチのジャケットが顕になる『P・O・P』、焼け爛れた石像の『カプセル・スープ』というジャケットをはじめとし、ミュージックビデオなど、MADの視覚的な世界観構築に大きく貢献している。

 アルバム『DIGIDOGHEADLOCK』(1997年9月リリース)以降、そのデジタルロックな音楽性とともに“DIGIDOG”や“WHITE CRUSHER”といったオリジナルキャラクターによる、メカニカルデザインがアートワークの主流となった。このデザインを担当した土井宏明(POSITRON)はサカグチケンファクトリー出身のデザイナーである。

「THIS IS MAD STYLE」(2001年)

 ちなみにWHITE CRUSHERのアートワークが印象的なアルバム『010』(2001年7月リリース)で初期MADを意識した「THIS IS MAD STYLE」のギターを弾いているのは、室姫深である。

MAD流ミクスチャーロック、極まれり

 そして、MADの方向性を決定づけたのがシングル「神歌KAMI-UTA」(1995年12月リリース)だ。ギターとベースによるヘヴィでシンプルなユニゾンリフに、捲し立てるラップスタイルのボーカルが炸裂していく。そして『4PLUGS』(1996年1月リリース)は、そうしたMAD流ミクスチャーロックが確立されたアルバムである。

「神歌KAMI-UTA」(1995年)

 本作を掲げたツアーでは、藤田タカシ(Gt/DOOM)をサポートに迎え、ツインギター編成による重厚感のあるヘヴィグルーヴへ向かうプロダクトになった。同時にCRA¥改め、TAKESHI“¥”UEDAは、ブリッジ付近でベースをピッキングするパンクスタイルから、ネックを立ててラフにストロークするような独自のプレイスタイルへと大きく変わっている。それは彼のリズム解釈の変化でもあり、同時にリフ主体となったバンドアンサンブル、グルーヴにおける進化でもあった。

 こうしたTAKESHIによるヘヴィグルーヴへの探求は、UKニューウェイヴなスタイルを持つISHIG∀KIとはベクトルが異なるものであり、結果としてISHIG∀KIはバンドを去ることになる。「身を引き締めるため」と、レコーディング時から常にスーツを纏っていたISHIG∀KIは、そのファッションと佇まいもヴィジュアル系シーンとの親和性が高かった。彼が抜けてからのMADはファッションもストリートスタイルを強めている。

 その後のMADはデジタルと生身のグルーヴを変幻自在に使いこなし、他の追随を許さぬ、ラウドでヘヴィなデジロックバンドとしての道を突き進んでいくのである。

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筆者:冬将軍