セーブ制度導入50年〜プロ野球ブルペン史
角盈男がサイドスロー転向で切り拓いた世界(後編)

前編:地獄の伊東キャンプでオーバースローからサイドスロー転向を決断はこちら>>

「地獄の伊東キャンプ」と言われた、1979年オフの巨人秋季キャンプ。18人の若手が課題に取り組むなか、制球力向上を目指した角盈男はサイドスロー転向を決意した。だが転向はコーチの提案ではなく、フォーム改造の過程で角自身が行き着いた形。ゆえに当初はコーチから反対され、転向後も心配され、最終的には監督の長嶋茂雄に可否が委ねられた。当時の状況を角が語る。


81年に8勝20セーブを挙げ、最優秀救援投手のタイトルを獲得した角盈男 photo by Sankei Visual

【固定観念を持ってなくてよかった】

「コーチに連れて行かれて。『角が横手投げでやりたいと。監督、どうでしょうか。私たちもやらせたいと......』って言ったんです。僕は長嶋監督に反対されても、誰に反対されてもやる気でいました。そしたら監督は『うん、じゃあいいよ〜』と。でも、横に変えたら変えたで、マスコミや評論家に『もったいない』とか批判されて......。まあ実際、タブーの世界じゃないですか」

 角は183センチの長身左腕である。社会人時代から「ダイナミックなフォームで投げる速球派」と評されていた。にもかかわらず、横から投げるなんて考えられない、そんなフォーム改造はタブーというわけだ。右バッターからボールが見やすいのも難点と指摘された。が、角自身は周りから何を言われようが動じなかった。

「横から投げていてミスった時、ちょっとこうすれば直るとわかった時に、『あっ、これや!』と思ったんです。自分が真っ暗な場所にいる状態に、一筋の光がスポーンと入ったような。後々、ヤクルトで指導を受けたノムさん(野村克也)の言葉を借りれば、固定観念を持ってなくてよかった。いいボールを投げられて、バッターが打てないなら、別に横からでいいやって」

 ノーワインドアップから体勢を低く沈み込ませ、リリースの瞬間、頭がムチ打ちのように動く。この独特の変則フォームを身につけた角は、翌80年、リーグ最多の56試合に登板。1勝5敗11セーブ、79回を投げて防御率2.28と好成績を残す。1年目が6.15、2年目は5.37だった与四球率も3.98と改善され、奪三振率も7.11、8.40、12.53と3年目に飛躍的に向上した。

「その80年は3位になったんです。広島市民球場での最終戦、江川(卓)さんが先発して7回まで投げて、僕は8回、9回と抑えて5対3で勝った。で、監督にウイニングボールを渡した時に、『おい角、来年、抑えで頼むな』って言われて、その夜に"長嶋解任"のドタバタが起きるわけです。だから監督が来年もやる気だったのは、僕が一番よく知っている」

 80年10月20日、最終戦を終えた夜。長嶋の監督解任が決まった。オーナーの正力亨が留任の条件として「Aクラスと勝率5割」を掲げたなか、61勝60敗9分で3位となるも、常勝を義務づけられた球団。3年間、優勝を逃した影響で読売新聞、報知新聞の販売部数が激減し、日本テレビも巨人戦の視聴率が落ち込んでいたために事態が急転した。

 明けて21日の早朝、担当記者の電話取材に応じた長嶋は「いま辞めるのは残念、無念だ」と語ったという。そのうえで同日の退団会見では自ら「辞任」と主張したのだが、長嶋の頭のなかには「抑え」があった。巨人では65年に宮田征典が出現して以降、セーブ制度導入後も専任の抑えはいなかっただけに、まさに時代の変わり目と言えそうだ。

「監督に構想があったんでしょうね。実際、お互いに引退して食事してる時に『伊東キャンプの目標は1番バッター、4番バッター、抑えだった』って言ってました。1番は松本(匡史)さん、4番は中畑(清)さん、抑えは角だと。これ、後づけかもしれませんが(笑)。まあ、角は馬力があるから先発よりリリーフ向きだろうという評価が、首脳陣の間にあったんだろうと思います」

【4年ぶりのリーグ優勝に貢献】

 81年、新監督の藤田元司は長嶋の構想を継承。角を抑えで起用し、先発陣は江川、西本聖を中心に定岡正二、加藤初も機能。結果、この4投手だけで合計45完投とリリーフ頼みではなかったが、角は51試合の登板で8勝20セーブを挙げ、最優秀救援投手のタイトルを獲得。104回1/3を投げて防御率1.47と投球内容もよく、4年ぶりのリーグ優勝に貢献した。

「80年はいつ出番があるか、見当がつかなかった。それが81年は、基本的に5回までは裏でマッサージしながらゆっくりして。6回から試合状況を見ながらブルペンに入って、8回、9回に合わせる。でも、ブルペンではキャッチボールしかしないです。出番になって、最後の1球だけキャッチャーに座ってもらって全力投球。それで当時はマウンドで8球投げられましたから。

 8球のうち、6球を7〜8割の力で投げる。足場が悪いんで、ならすために投げるわけです。で、7球目は全力で真っすぐを投げて、8球目は山なりにほうる。ボールが返ってきて、ロージンバッグをプレートの横に丁寧に置いて、ポンと触ってスイッチオン。あとは勝負するだけ。これが僕のルーティーンでしたけど、ロージンを丁寧に置くのは江夏さんのモノマネなんです」

 高校時代から憧れていた江夏豊。同じ左投げの抑えで、81年は日本ハムの優勝に貢献して最優秀救援投手賞を獲得。日本シリーズで対戦となったが、角は第1戦の9回にサヨナラ打を浴びた。短期決戦では初登板で失敗したリリーフは使いづらく、実際に藤田は勝ちゲームで起用しなくなった。角自身、日本シリーズはともかく、公式戦で失敗したあとはどう切り替えていたのか。

「切り替えの方法はないです。失敗して一番嫌だったのが、翌日の試合前の練習。とくにビジターだとスタンドにお客さんが入っている時間帯で、相手のファンが『おお、角、昨日はありがとうなぁ〜』って言ってくるわけですよ。新聞記者なんかも、前日の試合の話をしているんですよ。その雰囲気がいっちばん嫌で。ただ、練習が終わったらラクでした。もうゲームに入っちゃうので。

 だから失敗して、すぐゲームで使われたらうれしいんですよ。逆に、たとえばサヨナラ食らって3試合、4試合、5試合と投げないと、周りの記憶は徐々に薄れても、本人は引きずったまんま。その状態でポンとマウンドに上がると、すごいプレッシャーがかかる。ということは、次の試合で抑えて初めて切り替えられる、という感じでしょうか。その繰り返しですね」

【1イニングだったら毎試合投げられる】

 翌82年はチームの完投数が55に増えて抑えの出番が減ったなか、角は40試合に登板して2勝9セーブ。投球回数は63回と、2イニングが当たり前ではなくなっていた。

「9回、1イニングの時はスキップしてマウンドに行きたかったですよ。めっちゃラクですから。テンション高く『ダーン!』と行って、『ポーン!』で終わりですから。ただ、回またぎだと、ピンチで出ていって抑えて、ベンチに帰るとホッとする。そこからまたテンション上げなきゃいけない。精神的な疲労度も、肉体的な疲労度も全然違います」

 抑えも中継ぎも1イニングの現在、回またぎは滅多になくなった。ゆえに稀にあると投手の負担を心配する声も上がるが、80年代までは誰も気にしなかった。とはいえ、当時もリリーフの回またぎは負担だったのだ。

「ある時、藤田監督に『責任イニング』を聞かれて、『1イニングだったら毎試合投げられます。2イニング投げたら1日休ませてください。3イニング投げたら2日休ませてください。それだったらベストコンディションで責任持てます』と答えました。それは自分の自慢なんですけど、次の年にヒジを壊しちゃって」

 83年は18セーブを挙げて優勝に貢献した角だが、左ヒジ故障の影響で西武との日本シリーズでは活躍できず。王貞治が監督に就任した84年は投球回数が減り、85年は先発の斎藤雅樹が抑えを兼任して12勝7セーブ。実質、抑え不在となった86年は新助っ人のルイス・サンチェが務め、角は鹿取義隆とともにセットアッパーを務めることになる。

「自分が抑えじゃなくなってどうのこうの、というのは全然なかった。もうそこまでの力がないのはわかっていましたから。逆に言うと、第一線で長生きできるのはすごくありがたかった」

 89年途中に移籍した日本ハムではおもに先発を務め、最晩年、ヤクルトに移った92年は再びリリーフ。通算15年の投手人生で99セーブを挙げ、巨人時代の93セーブはクルーンと並んで今も球団記録だ。が、クルーンは1回限定の起用ゆえに在籍3年間の投球回数は161回2/3。角は12年間で691回であった。

(文中敬称略)


角盈男(すみ・みつお)/1956年6月26日、鳥取県出身。米子工業高から三菱重工三原を経て1976年のドラフトで巨人から3位指名を受けるも保留し、ドラフト期限前に入団。プロ1年目の78年、5勝7セーブで新人王を獲得。制球力に課題があるため、79年の秋季キャンプでサイドースローに転向。81年には20セーブを挙げ最優秀救援投手のタイトルを獲得し、チームの日本一にも大きく貢献した。89年に日本ハムヘ移籍。92年にヤクルトに移籍するも同年に現役を引退。その後はヤクルト、巨人でコーチを歴任。現在はスナックを経営する傍ら、タレント活動や野球評論家としても活動中