角盈男は地獄の伊東キャンプでオーバースローからサイドスロー転向を決断 「何球でも投げられる」
セーブ制度導入50年〜プロ野球ブルペン史
角盈男がサイドスロー転向で切り拓いた世界(前編)
リリーフ専門になった江夏豊が、南海(現・ソフトバンク)から広島に移籍した1978年。同じ左腕でもあり、江夏に憧れていた男が巨人に入団する。のちに、抑えを務める角盈男である。
角は入団3年目の81年、最優秀救援投手賞に輝き、チームの優勝に大きく貢献。一方で同年はパ・リーグの日本ハムに移籍して同タイトルを獲り、やはり優勝に貢献していた江夏と肩を並べた。
無名のアマ時代には想像もつかないことだったが、いかにしてプロで重要なポジションをつかんだのか。実働15年で日本ハム、ヤクルトでもプレーし、通算99セーブを挙げた角に聞く。
79年秋の「地獄の伊東キャンプ」でサイドスロー転向を決意した角盈男(背番号12) photo by Sankei Visual
「江夏さんは、高校の時から憧れていたんです。僕も左投げだし、中学3年の時にオールスターでの9連続奪三振を見たこともあって。当時は上から投げていたので、ピッチングフォームを真似たこともありますよ」
変則フォームのサイドスローが特徴的だった角だが、鳥取・米子工高時代、社会人の三菱重工三原時代、そしてプロ入り当初もオーバースロー。ただし、社会人1年目の75年は投手ではなく、打力を買われて一塁を守っていた。高校卒業時は東洋大に進学する道もあったなか、熱心に角を誘ってきたという三菱重工へ。投手として期待していたわけではなかったのか。
「まず僕は、プロが目標で夢でした。それで当時の社会人は高卒でも2年でプロに行けたんで、大学じゃなくて三菱重工だと自分で決めた。入ってみたらバッターだったけど、僕はどうしてもピッチャーに未練があって、1年目のオフに『ピッチャーで勝負させてください』と会社にお願いしたんです。『2年間、勝負してダメだったらバッターに専念しますから』って」
投手として1年目の76年。角は広島マツダに補強され、都市対抗野球大会に出場。2戦目の新日鐵堺戦に先発し、7安打で完封した投球を巨人のスカウト部長が見ていた。結果、同年のドラフトで巨人から3位指名を受けるのだが、入団は翌々年。プロ入りが目標であっても、保留した理由は何だったのか。
「当然、ピッチャーで勝負させてくれた会社への恩義もあるし、実質1年しかピッチャーをやってないから自信もない。だから事前に『指名します』って会社にあいさつに来たんだけど、僕はドラフトの前に"プロに入らない宣言"をしていたんですよ。そしたら、ドラフト後に巨人の方があいさつに来て、『いま入らなくていいですよ。次の年に入ってくれればいい』って言われて」
巨人が得た角との交渉権は、77年のドラフト前々日まで有効。同年の都市対抗では電電中国に補強された角は、1回戦の大昭和製紙戦に先発。チームが2対3と惜敗したなか、角自身は7回5安打1失点と好投している。快速球が最大の武器で、183センチの長身から投げ下ろす本格派左腕は、満を持してプロの世界に入った──。入団保留の経緯からすれば、そう受け取れる。
「いや、僕は何も実績なんて残してないですから。都市対抗で完封って言っても、練習試合とか全部含めてその1試合しかない。だから僕は、『巨人の星』ファンで、巨人一色で、憧れとともに入って、一番びっくりしたのはキャンプに行って先輩たちが投げているのを見た時。みんなミット構えたとこにボール行くのに、僕は全然。『うわぁーすごいな、えらいとこに入ってしまったな』と」
【60試合登板で新人王に選出】それでも一軍キャンプで始動できた理由は、左投手の少なさだった。来日3年目のクライド・ライトを除く日本人投手は、エース格の新浦寿夫と広島から移籍して3年目の小俣進のみ。必然的に、角は小俣をターゲットにした。2年連続2ケタ勝利の新浦は無理でも、まだ実績に乏しい中継ぎの小俣なら「追いつき、追い越せはできる」と思えたという。
「新浦さんを見てたらパニックになりそうだったけど、小俣さんに勝てば一軍に残れるんじゃないかって。だから逆に言えば、小俣さんがいなかったら、僕は押しつぶされて死んでいたかもしれない。ただ、先発かリリーフかなんて何も考えなかったですよ。僕はエリートじゃないですから。まず一軍に残って、言われたところで投げる。それだけでしたね」
78年の公式戦が開幕し、目標どおり一軍入りを果たした角は4月4日の大洋(現・DeNA)戦でプロ初登板。三番手で2回を無失点に抑えると、同16日のヤクルト戦で初先発し、同29日のヤクルト戦では初セーブを挙げた。順調にスタートした1年目は60試合に登板して5勝7敗7セーブ。112回1/3を投げて防御率2.87という成績を残した。
5勝の内訳は、6試合の先発で2勝、54試合の救援で3勝。加えて7つのセーブを挙げた貢献度、2点台の防御率も評価され、角はセ・リーグ新人王に選出された。実質リリーフでの成績が評価されたわけだが、巨人のリリーフで新人王と言えば、2022年の大勢。37セーブを挙げたが、これは角の球団新人最多セーブ記録を更新したものだった。
「大勢には軽く超えられたけど、今の抑えは1イニングですからね。僕の場合はリリーフで2イニング、3イニングと投げながら谷間の先発もあって、ガンガン使われたんで、がむしゃらにやるだけだった。それが1年目はいいほうに出て、2年目は悪いほうに出て......」
2年目の79年。「悪いほう」の象徴が6月3日の阪神戦だろう。5対5の同点で7回から登板した角は、8回に3連続押し出しで敗戦投手。1年目も7月6日の広島戦、先発・浅野啓司が2回に3連続四球の押し出しで降板後、二番手の角もふたつの押し出し、タイムリー、四球で降板。三番手の田村勲も3連続押し出しと全員が乱調だったが、角は四球の多さが一番の課題だった。
「ノーコンでしたから。押し出しの時も、とにかくストライクが入らない。言葉にすれば、一生懸命に投げるだけでした。たぶん、ピッチャーとしてはプロじゃなかったんでしょうね。それまでピッチング自体、習ってなかったし。だから僕のピッチング人生は、そのあとの伊東キャンプがプロとして本当のスタートですよ。1年目、2年目はアマチュアの延長でしたね」
【人生を変えた地獄の伊東キャンプ】のちに「地獄の伊東キャンプ」といわれた静岡・伊東市での秋季キャンプ。チームが前年2位から5位に下降し、当時監督の長嶋茂雄がコーチ陣に向け、「巨人の将来を背負って立つ若手を徹底的に鍛えたい。血反吐(ちへど)を吐かせるまでやる」と要請して実施。参加メンバーは投手6人、野手12人と少数精鋭で、走り込みと筋力強化を中心にハードな練習を課したことで「地獄」になった。
「極端に言うと、午前中は投げるだけ、午後は走るだけ(笑)。そのなかでコーチとマンツーマンでやったんだけど、最初に言われたのは『おまえのいい時はすごい。悪い時はアマチュアになっちゃう。残念ながら、プロ野球はシーズンが長いんで、安定した力を求めなきゃいけない。だから、安定したボールを投げられるようなフォームでやっていこう』ということでした」
投手コーチは杉下茂(元中日ほか)、木戸美摸(元巨人)、高橋善正(元東映ほか)。「マンツーマン」と言っても一対一ではなく、コーチ全員と取り組んだ。投手は角のほか江川卓、西本聖、鹿取義隆、藤城和明、赤嶺賢勇と少人数だからこそできる「マンツーマン」だった。
「で、『ヒジをとにかく上げろ。直す時は極端にやらなきゃダメだ』と言われて。実際にヒジを上げて投げると、70〜80球ぐらいを過ぎるとしんどいんです。当時はみんな1日に300球ぐらい放っていたので、必然的に腕の振りが横になってきた。そのほうがスムーズで、しんどくないんで。これだったら何球でも放れるし、投げるボールに責任持てるなって思って」
フォーム改造に取り組むなか、ある意味では自然に腕の振りが横になっていた。じつはコーチたちには、角をサイドスローに変えようという発想はまったくなかった。
「だから最初は反対されました。自分でコントロールミスを修正できるようになって、キレのあるボールがいっていても、コーチたちには心配されて。でも、自分は横から投げたい──。だったら、ということで、長嶋監督のところへ連れて行かれました」
(文中敬称略)
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角盈男(すみ・みつお)/1956年6月26日、鳥取県出身。米子工業高から三菱重工三原を経て1976年のドラフトで巨人から3位指名を受けるも保留し、ドラフト期限前に入団。プロ1年目の78年、5勝7セーブで新人王を獲得。制球力に課題があるため、79年の秋季キャンプでサイドースローに転向。81年には20セーブを挙げ最優秀救援投手のタイトルを獲得し、チームの日本一にも大きく貢献した。89年に日本ハムヘ移籍。92年にヤクルトに移籍するも同年に現役を引退。その後はヤクルト、巨人でコーチを歴任。現在はスナックを経営する傍ら、タレント活動や野球評論家としても活動中