■ランコ・ポポヴィッチの半生 後編
鹿島アントラーズ監督ランコ・ポポヴィッチ。情熱溢れる指導のみならず、選手のポジションを大胆にコンバートするなど策にも富んだ名将だ。そんなポポヴィッチは、我々には想像しがたい稀有な旅路を歩んできている。14歳で父を亡くし一家を支え、兵役、そして祖国の崩壊......。鹿島を再び常勝軍団へと導くべく戦う、彼の半生をここに記す。


大胆なコンバートも話題になったランコ・ポポヴィッチ監督©KASHIMA ANTLERS

 当時のユーゴスラビアは国民の義務である徴兵任務に就く際、多民族融和の精神から、敢えて出身地とは異なる他の共和国に赴任することになっていた。例を挙げれば、スロベニア出身のスレチコ・カタネッチ(初代スロベニア代表監督)はボスニア共和国で、セルビア共和国南部の都市ニシュ出身のドラガン・ストイコヴィッチ(現セルビア代表監督)は、アルバニア人が多数派のコソボ自治州でユーゴ連邦人民軍の軍服を身にまとっている。
 
 コソボ自治州で生まれ育ったポポヴィッチもまたその「友愛と団結」のスローガンの下、セルビア共和国の首都ベオグラードで軍務に就いた。

 これが、ポポにとってはキャリアアップの僥倖をもたらした。1989年、退役後に所属していたベオグラードの地域リーグでのプレーが多くのサッカー関係者の目に留まり、セルビアの二大クラブ、レッドスター・ベオグラード(ツルヴェナ・ズヴェズダ)とパルチザン・ベオグラードからオファーが来たのである。レッドスターは内務省警察のクラブでパルチザンは人民軍のクラブ。旧社会主義国では、だいたいこのふたつの巨大母体を持つクラブが熱いダービーを展開している。ポポはそれぞれのチーム練習に参加して評価を受け、両者から入団を誘われた。心情としては多くのセルビア人と同様に名門レッドスターを好ましく思っていた。「鹿島に来て、ジーコさんと話す機会が多くありましたが、ジーコはよくドラガン・ジャイッチ(セルビアサッカー協会会長)のことを訊いてきました。レッドスターの伝説的名選手で後に会長まで務めたジャイッチ。ブラジルにもその名前は轟いていたのですね」。(ポポヴィッチ)

 ユーゴ史上最高の選手と言われたジャイッチは、ポポがリクルートを受けた1989年当時はすでに現役を退き、レッドスターの強化担当を担っていた。ジャイッチ自らがニシュまで行ってスカウトしたストイコヴィッチ、モンテネグロ人のデヤン・サビチェヴィッチ、さらにはロベルト・プロシネチキ、マケドニア人のダルコ・パンチェフ、ルーマニアから亡命してきたミオドラグ・ベロデディチなどきらめくタレントがこのクラブには集結しており、2年後のトヨタカップ制覇に向けて着々とチームメンバーが編成されていた。監督はレッドスター5大星人のひとり、ドラゴスラヴ・シェクララツ。レッドスターはクラブにおいて大きな功績を残した選手に対して星人の称号を与えているが、シェクララツは2代目、ちなみに3代目はジーコがその実力を認めるジャイッチで、4代目がアレクサンダル・チャヴリッチ(鹿島)をユース時代に育てたヴラディミール・ペトロヴィッチ、5代目がストイコヴィッチである。

 レッドスターとパルチザンは同じ日にキャンプインする予定であった。ポポが赤い星のバスに乗りかける直前にパルチザンの監督に就任したばかりのイヴァン・ゴラツが待ったをかけて来た。現役時代、イングランドのサウサンプトン、クリスタルパレスでプレーしていたゴラツは野心家だった。宿敵レッドスターにポポを渡さないための好条件を持ち出してきた。ポポは回顧する。「年の複数契約を結ぼうと言ってくれたのです。母や妹や弟を養うことを考えたら、この安定条件に乗らないわけにはいかなかった」。

 家族の生活を守るためにパルチザンに入団した。同期には独立後のスロベニア代表チームで絶対的なエースとして活躍するズラトコ・ザホヴィッチがいた。2002年の日韓ワールドカップに祖国を導くこの左利きのストライカーは、激しい気性から、日本のキャンプ地で監督のカタネッチとぶつかって二戦目をプレーせずに強制帰国させられることになるのだが、それはまだ先のお話。「ザホヴィッチは若い頃から、賢くて、テクニックも申し分なかった。昔はあんなに短気ではなかったのだけれど」。(ポポヴィッチ)

 ポポがパルチザンで最初にランチをしたチームメイトがザホヴィッチと同じスロベニア人のダルコ・ミラニッチだった。のちにイビツァ・オシムが率いるシュトゥルム・グラーツでディフェンスラインを形成し、ともに多くのタイトルを獲得することになる盟友である。ミラニッチは指導者となってからは、グラーツやリーズ・ユナイテッドの監督を歴任し、スロバキアのスロヴァン・ブラチスラヴァを指揮した際にチャヴリッチの才能と人間性を評価し、鹿島の指揮官に就いたポポに推薦した人物でもある。もちろん、知り合った当時は、そんな未来があることなど、想像もしていないが、ポポとミラニッチは会った瞬間から馬が合った。結婚するときには互いにクーム(仲人)となっている。

 イヴァン・ゴラツに乞われて年契約で入団したものの、ポポはいざピッチに出てみるとそれまで持っていた自信が一気に吹っ飛んだ。

「パルチザンのトレーニングのあまりのレベルの高さに驚かされたのです」

 先述したザホヴィッチでさえ、まだぺーぺーの時代である。他にはドゥシュコ・スタノイコヴィッチ、ブディミル・ヴヤチッチ。世界最強のレッドスターと伍して戦う集団だけに一緒にいた選手がすべてワールドクラスなのだ。永遠のライバル、レッドスターが母体である秘密警察の情報をもとにリクルートすれば、パルチザンは軍の徴兵データから、優秀なタレントを探し出してくる。翌年にはパルチザンにスーパーなFWがモンテネグロのブドゥチノストからやって来た。プレドラグ・ミヤトヴィッチ。8年後にはレアル・マドリードでチャンピオンズリーグの決勝ゴールを決めるアタッカーである。中盤の選手では2000年シーズンにスペインリーグを制覇するデポルティーボ・ラコルーニャの心臓となるスラヴィシャ・ヨカノヴィッチもノビ・サドから移籍してきた。

「私はそんなとんでもなく質の高いメンバーの中で、引け目を感じることなく力を出すということを考えました。そのときのお手本はミルコ・ジュロヴスキー。グランパスでピクシー(ストイコヴィッチの愛称)が監督だったときに右腕となったボシュコ・ジュロヴスキーコーチの弟です。彼とイタリア代表のフランコ・バレージのプレーを常に見ていました。厳しい環境に落ち込んでネガティブに考えても、その先には何も待っていない。14歳で父を亡くしたときから、自分には『それはできない。無理です』という選択肢はすでに無かったのです。どんな難局でも解決策を見つけなくてはいけなかった。私が生活を支えないと妹や弟もだめになってしまう。そのときのモチベーションは、天国の父を失望させてはいけないということ。行動も思考もそれを基準にしました。尊敬していたサッカー選手の叔父も亡くなっていたので、まずいプレーをしたら叔父に怒られるだろう。叔父の顔に泥を塗るわけにはいかない。その一心でした」。

 1987年のワールドユースで優勝したユーゴスラビア代表の選手たちも続々とトップチームに昇格していた。クロアチアのディナモ・ザグレブにズボニミール・ボバン、ダヴォル・シューケル、ハイデゥク・スプリットにアレン・ボクシッチ、イゴール・シュティマッツ、これらの選手は1998年フランスW杯でクロアチアを3位に押し上げる主力たちである。レッドスターのストイコヴィッチ、サビチェヴィッチ、プロシネチキは、やがて移籍先のマルセイユ、ミラン、レアル・マドリードで皆それぞれが10番を背負っていく。これら世界トップレベルの同世代選手がひしめくユーゴサッカーシーンの中でポポは必死に食らいついていった。

つづく