セーブ制度導入50年〜プロ野球ブルペン史
江夏豊が振り返るリリーフ専任という前例なき挑戦(前編)

 1979年11月。抑えとして広島の優勝に貢献した江夏豊が、セ・リーグMVPに選出された。リリーフ専門の投手のMVPは日本球界初。さらに81年には移籍した日本ハムでも優勝の立役者となり、パ・リーグMVPに選出される。この両受賞が日本のリリーフの存在価値を一気に高めるのだが、江夏自身、18歳で阪神に入団した当初から先発完投型の投手だった。

 プロ1年目の67年、42登板で12勝を挙げた江夏は230回1/3を投げて防御率2.74。剛速球を武器に2年目は25勝で最多勝に輝き、401奪三振という途轍もない日本記録を樹立。71年にはオールスターで9連続奪三振を達成し、73年には2度目の最多勝。入団から9年連続2ケタ勝利のエース左腕は、なぜ抑えに転向し、成功したのか。通算206勝、193セーブの江夏に聞く。


野村克也(写真左)からの提案でリリーフに転向した江夏豊 photo by Sankei Visual

【リリーフは落ちこぼれ】

「まず初めに、先にアメリカで導入されたセーブ制度。じつは、我々選手たちが当時のセ・リーグ会長の鈴木竜二さんにお願いしたこともあって、セーブ王のタイトルができたんだよ。それからもう50年? 半世紀か。時代がそれだけ流れてきて、いろんなことが変わってきたと思う。なにしろ当時、リリーフの立場、値打ちは、今じゃ考えられないほど低かったんだから。

 悪い言葉で言えば、『リリーフは落ちこぼれ』。先発できないピッチャーがやるもの、というレッテルが貼られていた。周りからワンランク下に見られながら、リリーフに回るというイメージもあった。そういう意味じゃ、昭和49(1974)年にセーブ制度ができて、救われたピッチャーは数多くいたと思うよ。後々、自分自身もそういうことになるわけやけど」

 74年、セ・リーグで初代セーブ王となったのは中日の星野仙一だった。だが、パ・リーグ初代セーブ王、南海(現・ソフトバンク)の佐藤道郎がリリーフ専任だったのと違って、星野は49登板で17試合に先発して7完投。15勝9敗10セーブでタイトルを獲り、チームのリーグ優勝に貢献。15勝のみならず10セーブ=チームに10勝をもたらす活躍もあり、沢村賞を受賞している。 

 一方、パ・リーグではロッテが優勝し、2年目右腕の三井雅晴が新人王。成績は31登板で6勝5敗でも4セーブを挙げ、6+4で10勝に等しい貢献度と評価されたのだ。南海の佐藤のような抑えは珍しかったなか、セーブが投手の評価を変えつつあった。江夏自身、先発しながら抑えでも活躍し、74年はチームトップの8セーブを挙げたが、あくまでも勝ち星にこだわっていた。

「セーブという記録は、先発の勝ち星とはまったく中身が違うものだからね。たしかにセーブもチームの勝利に貢献した結果の現れだけれど、自分がプロに入って目指した野球というのは、もっともっと大きな"エース"として投げ続けることだったから。でも悲しいかな、その頃は腕の故障で球に力がなくなって、コントロールと駆け引き、投球術で何とかしのいでいる状態だった」

 入団以来9年連続2ケタ勝利も、7年目の73年に24勝で最多勝から、74年は12勝14敗、75年は12勝12敗──。昭和時代のエースとしては「不振」と見られた。すると75年オフ、なかなか球団から契約更改の呼び出しがなく、年が明けた76年1月半ばにトレード通告。当時の監督である吉田義男とソリが合わず、奔放な言動で球団に迷惑をかけたことも一因だったのか。

【野村克也との出会い】

 19歳にしてチームの中心選手になった江夏は、若いうちから監督人事を巡る人間関係に疲れていた。グラウンド上では野球だけに集中できたが、球団に対する不信感もあり、阪神から出ることも考えた。半面、「阪神がオレを出すはずがない」という自負もあった。しかし球団の方針は変わらず。南海の江本孟紀らとの2対4のトレードが発表された。

「はっきり言って、南海に行く気はなかった。現役は終わってもいいという気持ちがあって、野球への情熱も薄れかけていた。その時、知り合いのスポーツ紙の記者から連絡があって、『いっぺん野村(克也)監督に会ってはどうか』と言われてね。大阪のホテルプラザで会食したんだけど、野村さんは会うなり、『おいおまえ、あの時、意識してボールを放ったろう』と言うわけ」

 野村が指摘したのは、75年10月1日の阪神対広島戦。江夏が完投勝ちした試合の7回表、一死満塁とされた場面で、相手打者は衣笠祥雄だった。カウント3ボール2ストライクとなり、相手の心理を考え、絶対振ってくるという確信を持って、江夏はボール球を投げた。結果は空振り三振だった。

「自分にしてみたら『えっ、そんなことを覚えているのか』と、驚きと喜びと戸惑いで頭の中がごちゃごちゃ。その後、2時間ぐらい、野村さんは野球の話しかしなくて、『早く南海に来いや』とか『一緒に野球をやろうや』とかいう言葉はまったく出てこない。野村という人は面白い人だなと思ったし、消えかけていた野球への情熱が燻ってきて、結局、南海への移籍を決めたんだよね」

 ただ、左ヒジ痛に血行障害もあり、移籍1年目の江夏は36登板(先発20)で6勝12敗。148回1/3を投げて防御率2.96だったが、自身初めて2ケタ勝利はならなかった。そうして翌77年も腕の故障に悩まされながら開幕を迎え、4月は1試合に先発したのみで勝ち負けつかず。5月8日の日本ハム戦、2試合目の先発で完投勝利を挙げたが、直後、江夏は野村に声をかけられた。

「日生球場で近鉄のバッティング練習中、外野でウォーミングアップをしていた時に野村監督に呼ばれたんだ。左中間の芝生にふたりで胡座をかいて座ったら、監督が『リリーフをやらんか』と言った。自分は『何言ってんの。そんなこと、とんでもない』って答えたよ。カッとしてね。『今は肩の調子がよくないけど、必ずよくなるし、よくなると信じて毎日やってるんだから』って」

【生涯最後の先発登板】

 野村に反抗した江夏だが、内心、故障は完治しないだろうというあきらめもあった。そんな気持ちを知ってか知らずか、野村は遠征先でも江夏にリリーフの話をした。自宅マンションが野村家と隣同士だったから、帰宅後も毎日のように「リリーフをやれ」と。そして、ついに転向するきっかけになったのは、「野球界に革命を起こさんか」という野村の言葉だったと伝えられている。

「たしかに、遠征先のホテルの野村さんの部屋で話し合っていた時、『革命を起こさんか』と言われたよ。でも、実際には自分自身、『革命』と言われても、何が革命なのかわからなかったし、どういう意味なのかもわからなかった。後々、聞いた話では、その時の監督は眠たかったから、いい加減、早く話を終わらせて寝ようかと思っている時、たまたま偶然、『革命』が出たらしい。

 そんな状況だったから、自分はその日を限りにきっぱりと転向を決断したわけでもないし、何となしに納得したようなもんだった。ただ、『革命』という言葉が意味不明なだけに、何か印象に残るものがないわけではなかった。戦いの場に身を置く者として『革命』は魅力的な言葉だし、ピンとくるものはあった。だから監督に『革命って何ですか?』って聞いてみたんだ」

 野村曰く、「これからの野球は変わる。もう、ひとりの投手で1試合をまかなう時代じゃない。一日中、マシンを相手に打てる打者の技術向上はすごい。反対に投手は一日中、ボールを投げているわけにはいかん。肩は消耗品だから」と。

 5月25日のクラウンライター(現・西武)戦、江夏は5回途中から三番手で登板。救援で2勝目を挙げたが、同31日の近鉄戦に先発する。これは野村に考えがあっての起用で、あえて打線好調の近鉄に江夏をぶつけ、先発への思いを断ち切らせようとしたのだった。結果は3回1/3で5安打4失点KO。江夏自身、「これではあかん」と転向を決断、生涯最後の先発となった。

(文中敬称略)

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江夏豊(えなつ・ゆたか)/1948年5月15日、兵庫県出身。大阪学院高から66年のドラフトで4球団から1位指名を受け、阪神に入団。その後、84年に引退するまで阪神をはじめ、南海、広島、日本ハム、西武と5球団で活躍。最多勝2回、最優秀防御率1回、最多奪三振6回、最優秀救援投手6回、ベストナイン1回、沢村賞1回、MVP2回など数々のタイトルを獲得。また、68年にはシーズン401奪三振の世界記録を樹立し、71年のオールスターでは9連続奪三振を達成するなど、数々の伝説を持つ。通算成績は206勝158敗193セーブ