ヤクルトの監督となった関根潤三は掛布雅之、ランディ・バース、ノーラン・ライアンの獲得を企てた
微笑みの鬼軍曹〜関根潤三伝
証言者:安藤統男(後編)
87年から3年間、ヤクルト監督の関根潤三(写真左)の右腕として支えた安藤統男 photo by Sankei Visual
阪神タイガース監督経験を持つ安藤統男は、関根潤三から直々に「掛布を獲れないか?」と尋ねられたという。また、「バースの獲得は難しいだろうか?」とも聞かれたという。掛布雅之もランディ・バースも、ともに不完全燃焼のままタイガースとのトラブルでユニフォームを脱いだばかりのことだ。安藤が振り返る。
「関根さんから、『カケ(掛布)を獲得できないだろうか?』と言われました。それは、『池山(隆寛)、広沢(克己/現・広澤克実)にいい手本を見せたい』という狙いでした。それですぐに本人に電話をしたところ、『そのお気持ちはありがたいですけど、僕は《阪神の掛布》のままユニフォームを脱ぎたい』と言われて、この話はなくなりました」
安藤の述懐はなおも続く。
「そして、『アンちゃん、バースは何とかなるかな?』と言われたこともありました。で、『わかりませんけども、連絡はつきますよ』と。それで、ランディの友だちで通訳の本多(達也)というのがいて、彼に言えば連絡がつく。そうしたら、『ヤクルトが呼んでくれるのなら行きますよ』と言うから、それを関根さんに伝えました。そうしたら、当時の球団社長の田口(周)さんが『バースには手を出さない』と言ってね......」
球団側の判断は「同一リーグの外国人を退団直後に獲得することは倫理にもとる」と考えたため、バースの獲得を断念することとなった。掛布にしても、バースにしても、獲得の狙いは明白だった。安藤は続ける。
「さっきも言ったように、広沢とか池山とか、若手バッターの見本になるからですよ。どしっとした軸を4番に据えて、若手育成に役立てたかったんです。関根さんの時代にノーラン・ライアンを獲得するという話もあったでしょ? 結局、条件面で折り合いがつかなかったみたいだけど、それもギャオス(内藤尚行)や川崎(憲次郎)ら、"若い投手の手本として"という狙いだったと思いますね」
スワローズ監督就任時、関根は「チームをガラリと変えたい」と述べた。そのためには、それまでのチームカラーに染まっていない若手選手を鍛え上げるのがいちばんの方法だった。そして、若手を育て上げるためには、他球団で活躍した実績ある選手を獲得して手本とさせた方がいい。それが関根の考えだった。そして、それは87年のボブ・ホーナー、88年のダグ・デシンセイ、89年のラリー・パリッシュの獲得となり、実現はしなかったものの掛布、バース、ライアンの獲得を画策することとなったのである。
【オレたちが我慢しよう】チーム改革の軸として期待していたのが、入団4年目を迎えていた池山であり、同じく3年目の広沢だった。期待の若手ふたりには、関根自らつきっきりで指導していたという。
「あのふたりは関根さんが見ていました。キャンプではつきっきりで指導していました。関根さんは、ティーバッティングというのは、バッティングする前の予備練習であって、『本当にバッティングをつくるのはスイングだ』と考えていました。ひたすらスイングすることによってバッティングの形ができる。そういう考えです。とにかくあのふたりは徹底してしごかれていました。今でもたまに会うけど、イケもトラも、『関根さん時代の練習量は本当にすごかった。あの時は殺されるかと思いましたよ』と笑っていました」
間近で見る「関根監督」は、安藤にとって「我慢強い指揮官」という印象が強い。今でも忘れられない場面について振り返る。
「栗山(英樹)が三塁打を打ったんです。神宮球場だというのは覚えているんだけど、ノーアウト三塁。それで、池山、パリッシュ、広沢に回りました。私としては、『1点は入るだろう』と思っていたら、3人とも三振。試合後の反省会で関根さんに、『せめてノーアウト三塁の時には、もう少しチームバッティングを考えろと指示しましょうか?』って言ったんです」
この瞬間の関根の表情、そして言葉が今でも忘れられない。安藤が続ける。
「でも関根さんは、『アンちゃん、オレらが我慢しようや』と淡々と言うんです。『あのバッターボックスで、三振しようと考えているヤツはいない。いつも悪い結果ばかり続いたら、さすがに恥ずかしくなる。そうすれば彼らも自分から考えてやるようになるから、オレたちが我慢しよう』って。そして『今、ここで注意をして、思い切りバットを振れなくなることのほうが困るから』って聞いた時には、『この人はすごいなあ』と思ってね。私なら、そこまで我慢できません。関根さんと一緒にやらせてもらって、本当に勉強になりましたよ」
関根はしばしば「育成の監督」と称される。その根底にあったのは「我慢」だった。そして、何度も同じミスを繰り返しても辛抱強く見守り続けることができたのは、そこに「信頼」があったからなのかもしれない。関根監督がスワローズを指揮した3年間で、池山も、そして広沢も、リーグを代表するスラッガーとなり、その才能は後任の野村克也監督の下で結実することになる。
【関根監督がスワローズに遺したもの】1989(平成元)年シーズンをもって関根はスワローズ監督の座を辞した。それに伴って安藤も一緒にユニフォームを脱いだ。側近から見た関根とは? そして、関根がスワローズに遺したものは何か? 安藤が静かに口を開く。
「3年間、関根さんの下でやってきて、順位はたしかに悪いんだけど、若い選手たちがプロの身体になりました。それぐらい、練習量はすごかったですから。それを受けて、野村さんが監督になった。ちょうど野村さんの言う理論を実践できる身体がすでにできていた。それはすごく感じますね」
関根が監督に就任して以来、チームは4位、5位、4位に終わり、一度もAクラス入りは果たせなかった。それでも、たしかに次代につながる礎を築いた。安藤は、そう考えている。しかし、ここまで言うと、その口調が強くなった。「野村さんのことを悪く言うつもりはないけど」と前置きをして安藤は続ける。
「私が納得できないのは、野村さんが監督に就任した時に、『1年目に種をまき、2年目に水をやり、3年目に花を咲かせる』と発言して、実際にそのとおりになったけど、オレね、それだけは我慢できないんです......」
それまで、穏やかに「私」と語っていた安藤は、この時初めて自分のことを「オレ」と言った。
「......種をまいたのは関根さんですよ。関根さんがあれだけ我慢したから、池山も、広沢も、芽が出たんですよ。何でも自分の手柄にしたいのかどうかはわからないけど、そこで関根さんについての言及があってもいいでしょう。『関根さんのおかげだ』とひと言あってもいいでしょう」
3年間、来る日も、来る日も、関根とともに過ごした。ともに酒を呑まない両者は、試合後には神宮球場近くの行きつけの喫茶店でコーヒーを飲みながら反省点を洗い出し、翌日の試合に向けてのミーティングを行なった。関根の我慢強さを目の当たりにしていたからこそ、関根がスワローズに遺したものをあらためて指摘しておきたかった。
「就任当時のヤクルトはチームのムードが暗かったし、選手たちに何を聞いても、『はい、はい』しか言わなくて、会話のキャッチボールができなかった。でも、そのムードを取っ払って、チームの雰囲気を明るくし、選手たちが自由に自分の意見を言ったり、のびのびとプレーできるようになったのは関根さんのおかげです。私にとっても、あの3年間は本当にいろいろ勉強になった時間でした。今でも関根さんには本当に感謝しています」
すでに85歳となった安藤は、かつて仕えた監督のことを、そう総括した。
安藤統男(あんどう・もとお)/1939年4月8日、茨城県生まれ。土浦一高から慶應義塾大を経て、62年に阪神に入団。内外野を守れるユーティリティープレーヤーとして活躍した。70年にはリーグ2位の打率.294をマークし、二塁手としてベストナインを獲得。同年のオールスターにも出場。73年の現役引退後は、阪神の守備走塁コーチ、ファーム監督などを歴任し、82年から一軍監督に就任。84年まで3年間指揮を執った。87年から3年間はヤクルトのヘッドコーチを務め、2002年から09年まで阪神のOB会長を務めた