※写真はイメージです(写真: Fast&Slow / PIXTA)

浪人という選択を取る人が20年前と比べて1/2になっている現在。「浪人してでもこういう大学に行きたい」という人が減っている中で、浪人はどう人を変えるのでしょうか?また、浪人したことによってどんなことが起こるのでしょうか? 自身も9年の浪人生活を経て早稲田大学に合格した経験のある濱井正吾氏が、いろんな浪人経験者にインタビューをし、その道を選んでよかったことや頑張れた理由などを追求していきます。

今回は他大学に進学したり、就職したりすることもなく、共通一次とセンター試験を20回受験して「純粋19浪」を経験し、九州大学工学部電気情報工学科に合格した山田洋(ひろし)さんにお話を伺いました。

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就職も他大への進学もせず「純粋に19浪」


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今まで、この連載では10年を超える浪人を経て、挑戦を続けてきた人たちを紹介してきました。

10年以上の場合、多くの人は浪人期間の途中でどこかの大学に入ったり、会社で働きながら受験勉強を続けていました。

しかし、今回お話をお聞きした山田洋(ひろし)さんは、どこにも進学も就職もせず、「アルバイトで生計を立てながら」共通一次とセンター試験を20年間受け続けて、純粋に19浪して、九州大学に入った方です。

19浪ともなると、1人の赤ん坊が現役の大学生になるまでの期間、浪人し続けてきたとも言えるでしょう。今回はその壮絶な浪人人生に迫ります。

山田さんは1966年、鹿児島県鹿児島市生まれ。10歳で父親が亡くなってからは母子家庭で育ちました。小さいころの山田さんは、活発で、人と話すのが好きな子どもだったようです。

「至って普通だったと思います。遊ぶことが大好きで、勉強はほぼしない子どもでしたね」

小学校・中学校時代前半の成績は中の中くらいでしたが、中学2年から塾に通い始めると、急激に成績が伸び始めました。

ここで「勉強の楽しさに目覚めた」山田さんは、地元の進学校である鹿児島中央高等学校に進学します。しかし、優秀な人たちが多く通う高校だったため、進学してからの成績は中の下で推移しました。

「高校では柔道部に入って部活を頑張っていました。でも成績はよくありませんでしたね。英語だけは得意で平均くらいの成績はありましたが、模試の偏差値は50もいかず、どこの大学もいちばん下のE判定だったと思います」

性格的にもマイペースで、授業を除く勉強時間は1日1〜2時間程度だったと語る山田さん。志望校は、「国公立に進めたらラッキー」と考えて、地元の鹿児島大学を目指していました。

しかし、センター試験の前身である共通一次試験の得点は630/1000点程度。鹿児島大学の農学部畜産学科を受けたものの、落ちてしまいました。

家賃1万5000円の4畳半アパートに住む

現役時は鹿児島大学一本の受験だったため、山田さんは不合格通知を受け取ってから浪人を決断します。その理由については「大学に行きたいという夢はあったため」と語ってくれました。

「兄が東京にいる関係で、地元の予備校よりも、都内の大きな予備校に入りたいと考えた」山田さんは、上京して代々木ゼミナールに入ります。

しかし、この環境の変化が、彼の浪人生活を長引かせる要因となってしまいました。

「亀戸にある、4畳半で家賃1万5000円のアパートに住むようになりました。元々のんびり屋さんだったのですが、東京に出てきて、都会の華やかさに流されてしまいました。現役のときよりは勉強時間は増えて1日2〜3時間くらいはしていたはずですが、遊んでしまった時間のほうが長いです」

とはいえ、代ゼミの優秀な講師の指導のおかげで苦手な物理の成績を上げることができ、共通一次は600点台の後半を獲得しました。

母子家庭という経済的な理由から、国公立しか選択肢がなかった山田さんは、この年も前期試験で東京農工大学工学部電気電子工学科のみを受験し、落ちてしまいました。

こうして2浪に突入しますが、この年からは親に頼らないことを決めます。新聞奨学生をしながら、学費を捻出して代々木ゼミナールに通いました。しかし、朝早く起きて、夕方にも夕刊を配るスケジュールは苛烈を極め、勉強に費やす時間がとれなかったようです。

「朝早く起きて新聞を配るので、帰宅して予備校に行くまでの間に寝てしまうんです。それで結局、あまり勉強時間の確保ができませんでした。新聞奨学生をやっていたので、新聞販売店が予備校代を全額出してくれましたし、新聞配達のお給料ももらえるので、それで安心してしまっていたのもよくありませんでしたね」

苦手科目だけの受講に切り替える

2浪・3浪も同じような生活をした結果、毎年少しずつ成績は上がったものの、1年目ほどは上がらなかったようです。

「それでも、浪人生活が長くなればなるほど、上の大学に入らなきゃと思っていたので、2浪目からは東大を志望して、受験し続けていました」

新聞奨学生の過酷な生活に耐えかねた山田さんは、4浪目以降は代々木ゼミナールの単科コースに切り替え、苦手科目だけ月謝を払ってピンポイントで受講するようになりました。これ以降15年間、生活習慣はほぼ変わらなかったそうです。

「毎年、ずっと何かの科目を受講していました。予備校全体の学費がかかるわけではないので、毎年アルバイトをやって、学費のやりくりをしていました。

接客の仕事が好きだったので、デニーズや魚民・笑笑などの飲食店でウェイター、ゴンドラでビルの壁を清掃、新宿2丁目で水商売、銀座のクラブでボーイ、とさまざまなアルバイトをしました。東京はバイトがいくらでもあったので、危険なバイトもたくさんやりましたね」

2浪目からは、毎年東京大学の理科1類を受け続けた山田さんは、共通一次がセンター試験に変わってからも、単年で得点が下がることはあれども、着実に、ゆるやかに成績を伸ばし続けていました。

「成績は少しずつ、トータルで見ると上がり続けていました。点数が(前年に比べて)微増の場合もあれば、たまに何十点か上がるということを繰り返す十数年で、最後の年には共通一次・センター試験で一度も満点を取れなかった科目は、国語と英語だけになっていました。

合計で、共通一次とセンター試験は20回、東大は18回受けましたね。昔はセンター試験の足切りラインはさほど高くなかったので、二段階選抜を突破できず、足切りにあったことは一度もありませんでした。それでも、全部の科目で高得点を取れることはなかったです」

長い間勉強して嫌にならなかった理由

どこの大学もE判定だった模試の成績も、5〜6浪目くらいからはD判定が出るようになり、19浪目には東大でC判定が出るようになりました。ここまで長く受験勉強を続けられた原動力はどこにあるのでしょうか。

「実は私もよく『そんな長い間勉強して嫌にならないの?』と言われました。たしかに毎年、受験に失敗したそのときだけは落ち込んでいましたね。でも、自分の性格的にすぐ気持ちを切り替えられるのがいい点だったのだと思います。

何浪かした時点で、一流企業に就職するのは諦めていました。『どうなっても、自分の人生だ』と達観していて、自分を雇ってくれるところで生きていければいいやと思っていたのが、よかったですね。勉強に関しても、毎年アルバイトと勉強を交互にやる感じで、根を詰めて勉強をずっとしているような1年じゃなかったので、続けられたのだと思います」

マイペースでのんびり屋さんの性格がよかったためか、メンタルが落ち込んだり、人生が嫌になったりすることもなく浪人生活を続けられた山田さん。

しかし、19年間続いた受験生活もついに終わるときが来ました。

19浪目、山田さんは2004年に受けたセンター試験で自身最高の770/900点を叩き出しました。この年も前期日程で東大を受験しますが、受験生活20年目にして初めて、後期で九州大学工学部電気情報工学科に出願しました。その理由は、自身ではなく、家族の状況の変化が大きかったようです。

「母親がもう高齢になっていて、19浪目の年に病気になってしまいました。それで、この年でもうそろそろ大学に入らないといけないと思い、初めて後期日程で出願しました。東大はこの年も不合格でしたが、九州大学には合格したので入学することを決めました」

20年間、受験生活を続けてきて初めて掴んだ大学の合格。喜びもひとしおかと思いきや、感動はなく、「ようやく区切りがついたか」という感じだったようです。

1浪〜19浪までずっと亀戸の4畳半の物件に住み続けた山田さん。彼は今、自身が大学に落ち続けた理由を「勉強が足りなかった」と振り返ります。

「東大に合格するための学力が足りなかったのは、勉強量が足りなかったことに尽きます。アルバイトをしながらの勉強だったので、毎年、センター試験の直前になると、夏休みの宿題を最後にやるように、慌てて勉強していました。でも、根を詰めてやらなかったからこそ、一回も勉強が嫌いにならなかった、というのはあると思います」

19歳年下の同級生と寮で過ごす

九州大学に入ってからの山田さんは、金銭面の節約のために、家賃月5000円の田島寮に入り、19歳下の同級生と大学生活を過ごしました。

「新入生なのに、入ったときから最上級生扱いをしてもらって肩身が狭かった」と語る一方で、親子ほど年の離れた学生との共同生活は「めちゃくちゃ楽しかった」と振り返ります。

充実する大学生活の中で、山田さんは大学1年生のころから集団授業の塾でアルバイトをするようになり、2年の留年を経て卒業してからも合計13年間、非常勤講師として勤務しました。

そして介護を続けてきた母親が亡くなった51歳のタイミングで1年間、カナダに留学をし、日本に戻ってきた現在は高校生相手に塾で指導をしています。


カナダでの留学生活。右が山田さん(写真:山田さん提供)

山田さんは浪人したことによって、精神面や性格面で「変わったことは特にない」とは語りますが、浪人してよかったことについては「どんなに失敗しても、立ち上がれることを生徒たちに伝えられること」と話してくれました。

前職の塾で担当した英語の授業では、自身の波乱万丈の人生を絡めながら話す講義内容の面白さもあり、生徒が評価する塾講師アンケートで何度も1位を獲得。そして現在も教育関係の仕事で、唯一無二の経験・経歴を教え子たちに伝えています。


現在の山田さん(写真:山田さん提供)

「もう20年近く、教育関係のお仕事をさせてもらっています。私は子どもが大好きなので、天職だと思いますね。私は人がしない経験をいっぱいしてきたのですが、今、好きなことをやって、最低限食べていけるだけの生活ができていますし、浪人時代の経験を子どもたちに伝えられるので、ありがたいなと感じます。

子どもたちにも、もし多浪しても、不本意な大学に進んでも、その後自分次第でいくらでもチャンスがあるよと伝えています」

浪人の経験で得たことを還元したい

「とはいえ、私は浪人時代、大学時代から含めてずっと、自分より年下の人ばかりの環境で過ごしてきたので、相手に気を遣わせてしまったり、怒られにくくなってしまったりすることをとても申し訳なく思ってきました。だから、常に謙虚さを忘れずに、感謝の気持ちを持ち続けていきたいです」

「浪人の経験で得たことを、教えることで還元していきたいと思います」と語る彼はまさに持ち前のプラス思考で、人が大きなマイナスだと思う20年の経験を、プラスに捉えて生徒たちに届けているのだと思いました。

山田さんの浪人生活の教訓:どんなに失敗しても、自分次第で再び立ち上がることができる

(濱井 正吾 : 教育系ライター)